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第3話 高校の友人
あのジェスチャーは、女握りというらしかった。
マジで最悪だ。何で調べたんだ俺。
ついでに言われた言葉が蘇り、苛々と鞄を机に置く。教室にはまだ人が少なかった。
あの後、油崎や言われたことが頭にこびりついて離れず、悶々とした結果、あまりよく眠れなかった。普段起きる時間の30分前という微妙な時間に目覚め、二度寝をすれば間違いなく遅刻だろうなと思って、眠い目をこすりながら登校したのだ。
「あれ、日直だっけ?」
木の引き戸を開けて入って来たのは、中村さんだった。中村望美。明るめの茶色に染めたポニーテールが揺れている。「これ地毛だから」で先生、生徒会双方に押し通している猛者だ。
「たまたま早く起きちゃって」
「ふーん?」
合唱部と漫画同好会を掛け持ちしている彼女と仲良くなったのは、ほとんど事故と言ってもいい。
俺の斜め前の席に鞄を置くと、にやっと笑い、すすす、音もなく俺の方へ寄って来る。
「天野君となにかあったりして」
これだ。そんなに浮かない表情をしていただろうか。声を小さくしてくれているのが救いだ。俺は「何もないよ」と言いながら教室をさっと見まわした。
教卓近くの席で読書をしているのが一人、スマホを弄っているのが数人。連載中の人気漫画についてだらだら喋っているグループが一つ。うん、誰にも聞かれてない。
中村さんの右手に握られているオレンジのスマホこそが、俺と彼女を繋いだアイテムだ。
放課後の教室、熱心に画面を見ていた中村さんの親指のスクロールパワーに負けたスマホが、通りがかった俺の足元にすっ飛んできたのだ。何の気なしに拾おうと膝を折り、俺はそれを見た。
「あ゛っ」という聞いたことのないひしゃげた音が中村さんの喉から出る頃には、俺の脳内にはすっかり漫画の一ページが刻み込まれてしまっていた。
お、男同士で、え、これ入ってるよな……? ヤってる……!
あたふたと椅子から立ち上がって机に脚を打つ中村さんにスマホを差し出せば、もう彼女の顔色は真っ青だった。呼吸が大分浅い。快活な彼女からはおよそ想像できない、まさに死刑宣告を待つような。
「俺、男が好きなんだ」
気付けば言っていた。
中村さんの怯えが、一時停止する。
「いや、男がって言うか、好きな奴がたまたま男だったって言うか、」
言い募るほど、だんだん背中に汗をかいてくる。何を言ってるんだ俺は。放課後の中途半端な時間でよかった。他に誰もいなくてよかった。
だって、中村さんが死にそうな顔をするから。
中村さんはぽかんとして、それから若干目尻を下げ、戸惑いと嬉しさが混じったような声を出した。
「お、応援するよ」
で、こうなった。
その後、誰が好きなのかを聞き出され、天野の名前を出した時には両手で顔を覆ったから驚いた。
「あまこた……としそら……?」
当時は全く意味の分からなかった四文字も、今ならわかる。わかってしまう。彼女と話す内にいつの間にか刷り込まれていた。恐ろしい話だ。というか、何で俺が天野に抱かれたいと思ってるって知ってたの?
とにかく、俺は気付けばボーイズのラブな世界に関する用語にやたら詳しくなり、中村さんは「あまこたラブラブエンドじゃ!」と息巻いている。その口調どこから出て来た?
「でもあんま顔色よくないよ」
「寝不足だから……」
中村さんは俺の隣の席の椅子を引きずって来ると、どっかり座り込んだ。スカートのプリーツを直す手を見ながら、俺はちょっと迷った。
どうしよう。油崎のことを言うべきだろうか。絶対頭のおかしい奴だと思われそうだ。片思いしすぎておかしくなったと。大体、俺自身が半信半疑なんだから、他人にしっかり説明できるわけがない。だっておかしいだろ、俺は昨日一回死んで、よくわからないイケメンの手で蘇り、変態エネルギーを集めないとまた死ぬって。
……夢だったのかもしれない。母さんが突入してきたのも、解像度の高い夢だったのかも。
うんうん考え込んでいれば、中村さんがふっと立ち上がり、椅子を直して自分の席に素早く移動した。ということは、あいつが来たらしい。
「おす!」
「……おす」
クソでかい声で教室に入って来たのは、浅井就だ。この俺の友人が無駄に元気なのには、理由がある。何でも最近、超かわいい彼女ができたらしい。たっぷり二か月は「可愛いなぁ、好きだなぁ、でも告白してフられたら……」を聞かされ続けた俺からすれば、ちょっとげっそりしてしまう。
浅井は口元はニッコニコ、目元はデレデレという器用な表情筋の使い方をしていた。軽く鼻歌を歌いながら俺の後ろを通り過ぎ、窓側最後尾の自席に向かう。その二つ前が、天野の席だ。
いいなあ、と思う。俺より近い。でも同時に、ここでよかったとも思う。後ろの席じゃ後頭部しか見えないし、ここからなら横顔を盗み見れる。それに、あんなに近かったら、きっと普通にしていられない。天野から回って来るプリントを、間に座ったもう一人に橋渡しされるなんて耐えられない。
手に入らないなら、目の前にいない方がいい。だというのに、俺はずっと次の席替えを心待ちにしている。
自分の席に荷物を置いた浅井は上機嫌で俺の元にやって来ると、聞かせてやるとばかりにのろけ始めた。もうめちゃくちゃ可愛い、昨日の日曜日に初めてのデートをした、今度お弁当を作ってくれる……。
気のない相槌を打ちながら、俺はまだ教室に現れない天野のことばかり考えていた。
幸せいっぱいな主張をされると、叶わぬ自分の恋が野晒しにされてひりひりする。天野はお喋りな方ではないが、かっこよくていいやつだから引く手あまただ。何のアプローチもできていない俺に振り向くなんてありえない。
我が世の春を謳歌している浅井には、このことは言っていない。浅井だけじゃない。俺のこの想いを知っているのは、中村さんだけだ。その中村さんにも、俺から協力を要請したことはない。
斜め前に座る中村さんを一瞬見る。こちらを向きもせず、多分スマホを弄っている。あの時みたいに、BL漫画を読んでいるのかもしれない。
中村さんなら、嬉々として協力してくれるだろう。時折テンションがおかしくなるが、彼女が悪い人じゃないことはわかっている。浅井が来た途端に離れたのもそうだ。「私が一緒に居るせいで、天野君に付き合ってるとか勘違いされたら困るでしょ」と言って、人が大勢いるところや、俺の友人、そして何より天野の前では近寄らないことにしているらしい。
気を遣われている。いい人だ。それは、この浮かれまくっている浅井もそうだ。
だから、多分言ったって、大丈夫……だと思う。でも。
でも、俺は負け戦に踏み出せない。
ある日天野が突然俺のことを好きになってくれたりしないだろうか。あまりにも身勝手な考えにちょっと笑う。俺に片思いに振り回される情けない姿を見せてくれていた浅井にも、何だか申し訳ない気がした。
浅井のマシンガントークに付き合っている間も、天野は姿を見せなかった。珍しい。いつもは十五分前には席に座っているのに。もう一時限目前のホームルームまで五分を切っている。
月曜日なので弓道部の朝練はないはずだ。朝練が長引いてということもない。
やがて、教室前方の扉から担任である英語科の市河がやってきた。さっそくネクタイを緩めている。今日の一時限目は英語だから、多分ホームルームでの伝達事項が少なければ、そのまま授業に流れるだろう。
浅井は名残惜し気に自席へ帰って行った。ちらちらと数名が天野の席を見ているのがわかる。もしかして休み? 体調不良だったら……。俺が胸にもやもやしたものを抱えた時だった。
がらっと勢いよく前の扉が開く。全員の視線が、縺れるようにして教室に飛び込んで来た天野に注がれた。
(え、ほんとに珍しい……)
天野は肩を激しく上下させていた。ここまで走って来たことを思わせる。よほど急いでいたのだろう、目立たない後方の扉ではなく、正面玄関から近い前の扉を開けたらしい。
髪が少し乱れて、額には汗をかいている。俺は腹の底がきゅっとするのを感じた。
どちらかと言うと優等生側の天野の遅刻ギリギリの到着に、市河も日誌を片手に「……珍しいな。寝坊?」と呆けたように言った。
「……そんな感じです」
息を荒げながら頷き、天野は机たちの間を縫って歩く。――こっちに来る。
俺は反射的に俯きかけた。だって、天野の顔が正面を向いている。直視するには、刺激が強すぎる。なのに、俺は顔を下げられなかった。
天野が、俺の顔を凝視している。二つの黒いきらめきが、俺を見ている。でも、それは天野の長い睫毛が一回上下すれば終わってしまった。僅かに目を細めた後、天野は俺の横を通り過ぎて行った。
チャイムが鳴る。
無意識に詰めていた息を、細く吐き出した。
アイドルのファンサに沸く女の子の気持ち、なんて生やさしいものじゃなかった。わたしに手を振った! いいえ私よ!――そんなもんじゃなかった。
熱い、そう思った。じりじり焦がされているような、貫かれるような。俺の妄想? それとも、
(――やば)
俺は静かに股間を押さえた。まずい。いくら昨日最後までできなかったからって、学校ではまずい。
わかっているのに、穴から繋がる腹の奥まで切なく疼いてくる。さっと周囲を見たが、皆ぼけっと市河の話を聞いているだけだった。
そっと天野の方を目だけで見る。彼はもう涼しい顔で、前を向いていた。まだ少し呼吸が整ってなさそうだ。
『濃い目の性癖を持ってるやつを探して、セックスしろ』
昨夜の、油崎の言葉が急に蘇る。何でこんな時に。
――もしくは死ね――。
死ぬ……あの時、俺の脳内には天野が浮かんだ。浮かばざるを得なかった。
死ぬのが本当なら、どうせ死ぬなら、天野がいい。天野とできたらいいのに。
俺は股間が落ち着くまで、情けなく縮こまり続けた。
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