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第4話  再度の遭遇

生きた心地がしなかった。 部屋に帰るなり、俺は鞄を投げ捨てベッドに大の字に寝転がった。 天野の視線を食らって教室で見事にたたせてしまった俺は、もうあの後俯き続けるしかなかった。脳内で必死に母さんの顔や三時間目の数学の小テストを思い浮かべ、落ち着かせることに全力を注いだ。おかげで英語の授業は右から左だった。 天野は、授業中も授業後も、特に変わった様子はなかったと思う。俺自身が天野を見れるような精神状態ではなかったから、厳密にはわからない。定期的にのろけにやって来る浅井の存在が、打って変わってありがたかった。 「はー……」 何とか一日を乗り切って帰宅したが、腹や腰のあたりに座りの悪さがある。俺は部活に所属していないので、スポーツや芸術で昇華したり気を紛らわせたりということができない。……こういう時、走り続けていればよかったかもしれないと思う。 「やるか……?」 のっそり起き上がり、ベッドの下へ視線を注ぐ。マットレスの下が収納スペースになっており、そこに詰められた衣類の奥に親には見せられないセットが隠されている。 母さんはこの時間仕事だから、その点問題はない。他にあるとしたら……。 昨日の、奇妙な記憶が鮮明に浮かび上がって来る。油崎は、この部屋の中にいるのだろうか。もしいるとしたら最悪だ。俺は他人に見られる趣味はない。でも、今はいない。少なくとも俺には見えていない。 多分、頭がおかしくなっているんだろう。不可解なことが起きて、学校で勃起して、多分俺はおかしくなってしまった。うん、そういうことだ。 自分を無理やり納得させて、俺はベッド下の引き出しからローションボトルとゴム、浣腸液の三点セットに加え、エネマグラを引きずり出した。ええいままよ、今日は絶対こいつを入れてやる。俺は決めた。今日の天野の目を思い出してやってやるからな! もう自棄だ。まずはトイレに、とベッドの上にローション達を置こうとした時だった。 「お前死ぬ気か?」 「っあああ⁉」 背後から声がして、思いっきり肩がはねた。筋肉の収縮が激しすぎて痛い。勢いよく振り向くと、やはりと言うべきか油崎が呆れた顔で立っていた。 「おまっ、お前どこから」 「ずっといたけど」 またこれか! 悪態をつこうとして、自分の手の中が妙に軽いことに気付く。ローションボトルの中身が、空になっていた。六割ぐらいはあったはずなのに。 「言っただろ。お前は生気の吸収がほとんどできないって。そんな状態でオナニーなんざしてみろ、一気に生気が排出されて死体まっしぐらだ」 「……あんた、ローションの精か何かだったりする?」 油崎は顔を顰め、今? と言った。 初めてこいつと会った時も、ローションボトルは出しっぱなしだった。あの時はボトルの中身は確認していなかったけれど、今みたいに空になっていたんだろうか? 「まあ、似たようなもんだよ」 「やっぱりそうなのか……!」 「オレのことを気にしてる場合か? 問題はお前だよ、お前」 予想が当たって少し嬉しくなった俺にぱたぱた手を振る油崎は、うんざりした表情を隠さない。「とっととヤっちまえって言っただろ」 「――嫌だって言っただろ」 油崎の言い方を真似て吐き捨ててやれば、油崎は片眉を上げてふうん、と言った。 「じゃあプランBだな。こいつは先に言ったAより面倒だぞ」 名前付けてたのか。油崎は案外あっさり引き下がると、俺の持っている空のローションボトルを指さした。 「それを使え」 「……これ? どうやるんだよ。ただの、あー……ボトルだろ」 「何でそこで言い淀むんだお前。あんだけやっといて。まあいい、それはオレの力の影響下にある特別性になっている。そいつに変態エネルギーを回収して、飲め」 何だか、聞き捨てならないことを言われた気がする。が、それ以上に拾わなければならない要素が多くてそれどころではない。 「待て。待て待て待て。あんたの影響――はこの際置いておくとして、回収ってどうやるんだ。ていうか、今飲めって言った?」 「そんなに待て待て言わなくても捲し立ててないだろ。堪え性のない奴だな。まあオナってる時もそうだからわかりきってたことだが」 ぴし、と俺は固まった。さっき感じた引っ掛かりが急激に大きくなる。もしかしてこいつ、昨日のあの瞬間に誕生した存在じゃない、のか⁉ 手から道具がぼたぼた落ちる。油崎が手を伸ばし、ローションボトルだけをすんでのところで掬い上げる。「おい、丁重に扱え」 頭が真っ白になり、俺は油崎をぷるぷる震える人差し指でさした。 「……待、いや、あんた、いつから……見てたのか?」 「逆にオレの正体からして、何で今まで見られてないと思ったんだ」 「あ――アアアアアアアアアー⁉」 「うるさ」 「いつから⁉ いつから⁉」 「お前、それはあれだぞ。お前に五歳の頃の記憶はあるか? って訊いてるようなもんだからな」 この姿をとったのは昨日が初だし、それ以前の記憶はあんまりはっきりしていないからなあ。油崎がぼやく。記憶がない――。自分に都合よく頭の中で発言を改変しようとして、俺は気付いた。今五歳の頃の記憶が覚束ないからといって、当時何も考えていなかったわけじゃない。 「自我はあったんじゃないかぁ!」 俺は思わずその場に崩れ落ちた。 見られていた。全くそんな趣味はないのに、勝手にそんなプレイになっていたなんて。恥ずかしさで涙が出て来る。 「ちなみに、はっきりしてないってどれぐらい……」 「時系列のよくわからない映像がいくつかある、みたいな感じだな。まあお前大体オナニーしてたけど」 「ぐっうっ、うぐ~!」 もう床を殴るしかない。蹲る俺に、油崎は容赦なく追い打ちをかけて来る。 「オレが言うのもなんだけど、このローションは粘度低めだからやめた方がいいぞ」 「……知っでる゛っ……」 「あと、親いる時にやんのは普通にリスキーじゃないか? お前結構喘いでたし。喘ぎ声って普段の話声とかと違うから案外耳が拾うみたいだぞ。あ、そういう性癖か?」 「違うッ!」 がばりと顔を上げれば、油崎がにやにや笑ってこちらを見下ろしていた。その姿は、床に這いつくばる俺との高低差で偉そうな王様のようにも見える。トレーナーにジーンズ姿の、実にラフな格好の王様だ。 「あと、天野な」 その名前が出た瞬間、俺の中の暴れ狂っていた羞恥が急に静まった。おっ、という顔をして油崎が微笑む。何やら一人で納得したように数回頷くと、「操立て、大変結構」と言った。 「操っていうか、俺が勝手に……付き合うどころか、告白すらしてないし」 「何で」 「何でって……男だし、告白してどうにかなるビジョンが見えないっていうか……」 「抱かれるビジョンは見えてるんじゃないのかよ」 「あ、れはビジョンじゃなくて、妄想だろ……」 「それ自分で言ってて悲しくないか?」 「悲しいに決まってますけど⁉」 ああもう、何だこれ。本当に腹立つ奴だな。床にゴムやエネマグラをぶちまけて何をやっているんだ俺は。でも、自慰を見られていた事実よりは幾分かマシに感じる。羞恥の基準が狂っている気がするが、割とどうでもよくなってきた。開き直ったとも言う。 「じゃあ頑張れよ」 だから、油崎の言葉はするっと頭に入って来た。すぐに天野とのことを言われているのだとわかる。 頑張る、頑張るって、あれか。アプローチしろって意味か。無茶言わないでほしい。あんな色んな意味で綺麗な男に迫れって言うのか。 だが、一気に膨れ上がるぐずった反論が口から溢れることはなかった。油崎が、やけに哀愁のこもった目で俺を見ていたからだ。哀れまれているわけではない、と思う。何だか親か祖父母に見られているような気分だ。 「そのためにも回収だ、回収。死んだら終いなんだから」 言いながら、油崎はローションボトルを投げて寄越した。

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