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第8話  初めての回収

――ヤバい。 勢いよく開いた扉から飛び出した俺は、ちょっとよろけただけで、別にこけたりはしなかった。こけた方がよかった。突然出てきて少し腰を曲げたよくわからない体勢で突っ立っているなんて、何だか間抜けだ。それに、転がっていれば先輩達と目を合わせるまでの時間が稼げた。 がばりと丸木先輩が体を起こす。ふにゃふにゃになっていたとは思えない速度だ。佐渡先輩のくるりとした目が眼鏡越しにこっちを凝視している。その口が何ごとか発しかけた瞬間だった。 パン、と手拍子が鳴った。 俺の後ろからだ。振り向けば、ロッカーから出て来た油崎が両手を合わせていた。何やってるんだお前。 こんな状況で無意味に注目を集めてどうする。どうやって言い訳を、いや、こんなのどうやったって言い逃れできない――。ぐるぐるする頭で先輩達に向き直り、俺は異変に気付いた。 二人とも、ぼうっとしている。目はこちらを向いたまま、焦点が合っていない。部屋の隅を見る猫っぽさもある。 光景自体は、かなりシュールだった。机から半分身を起こした人間と、その腹に手をあてながら、空のペットボトルを持っている人間。 「お、いけたか」 油崎が、意外そうな、ほっとしたような声を出した。 「……何がだよ。というか、何だこれ」 どういう状況? あんたの能力的な何か? そう問えば、油崎はあっさり頷いた。 「暗示と言うか、軽く操ることができる」 「何だそれ⁉ え、そんなことできんのか⁉」 初耳だ。催眠術や魔法の類じゃないか。 「条件はあるけどな」 「条件?」 「性交未経験であること」 「は?」 「つまり童貞処女であること」 「いやわかってんだよそれは」 意味がわからなくて聞き返したんじゃない。何だその条件は。 飲み込めない俺に、油崎はもう一度「童貞処女相手には暗示がかけられる」と言った。 「……その暗示、どれぐらいの強制力があるんだ」 「相手の倫理観に反しない程度じゃないか? あまり多用したことがないからわからないが」 「効いている時間は?」 「暗示内容が終了するまではいけるはずだ」 「記憶を消したり?」 「できる。正しくは、フィルターをかけて見えなくする感じだな」 「……それを使って、エネルギー集めをすれば、俺がロッカーに隠れる必要もなかったんじゃないか?」 「訊かれなかったからな」 こいつ‼ 俺はしれっと言う油崎の胸倉を掴み上げた。とんだ後出しじゃんけん野郎だ。訊く訊かない以前に、思い当たりもしないことを質問したりしないだろう。炊飯器を初めて知った人間が「これでケーキも焼けますか?」とは訊かないのと同じだ。……訊かないよな? 「そんなに荒ぶるなよ、ソラミちゃん」 にやにや笑って、耳めがけてふっと息を吹きかけて来る。やめろ。 「まあできるって言ったって、オレからは誰が童貞処女かはわからないからな。いざ暗示をかけようとしたら無意味な可能性もある。そのリスクをとるか、こうやって隠れる面倒をとるかだな」 確かに、それが事実であれば油崎のこの力に頼るのはなかなかにリスキーだ。学校で明らかに生徒じゃないこいつを出す必要がある。それで暗示が効けばいいが、効かなかったら……いや待てよ、俺の予備の制服を貸せばいいんじゃないか? いずれにせよ、こいつがこの情報をさっさと開示していればよかったものを……睨む俺を放って、当の油崎は俺の肩越しを興味深げに眺めている。 「しかし、あの二人ヤってなかったのか。あの様子だととっくに済ましているものだとばかり」 そうだ、先輩達のことを忘れていた。振り返れば、まだ二人は虚空を見つめている。油崎がもう一度手を叩いた。 「お前達は二人でこの部屋にいた。他には誰もいなかった。引き続き乳繰り合ってればいい。それから」 一旦切って、上半身を起こしている丸木先輩を指さす。 「お前は取り敢えずトイレに行け」 ぴっとその指を扉に向ければ、丸木先輩はふらふらと机から降りて廊下へ出て行った。残された佐渡先輩は、ペットボトルを片手にぼうっと立ち尽くしている。油崎はどこを見ているのかわからない佐渡先輩の目を見据えた。 「無理やりはよくない。同意大事。――で? どれぐらい溜まったんだ」 俺の方へ向き直り、ローションボトルを奪い取る油崎を、俺はぽかんと眺めた。 「まあまあだな。中断したわりには……おい、お前までぼーっとしてどうする」 軽く小突かれて我に返る。見れば、油崎の手のローションボトルには、半分ほど液体が溜まっていた。オレンジと緑、少しの茶色のマーブル模様。デザイン性の高いチョコレートに見えなくもない。……汚いとも言う。 以前見た、丸木先輩と佐渡先輩のカルマゲージの色と一致する。俺はボトルの中で揺らいで模様を変えている変態エネルギーを見ながら思った。 あの二人、最後までしてなかったんだな……。尾行した時も部屋から出て来た二人のムラムラゲージは満タンだった。確かに、最後までヤっていたらすっきりして空っぽになるはずか。丸木先輩が足早に去って行っていたのは……まあ、トイレだろう。 「何で丸木先輩をトイレに?」 「尿意が収まっていたらある程度冷静になるだろ。あのままだと、あいつ押し切られそうだしな。本人がその気ならそれでもいいが」 「……丸木先輩はその気じゃなかったと?」 油崎は眉を顰めた。 「お前、見てなかったのか? 腹押された時――お前がロッカーから出て行く前、あいつのムラムラゲージが降下しただろ。怯えたんだよ、多分」 気づかなかった。そもそも、ゲージを出してすらいなかった。 急に、失礼と不快が服を着て歩いているような目の前の男が、何か高尚なものに見えて俺は戸惑った。「今度から回収時にはゲージ出しとけ。そっちの方が何かと便利だ」俺の心情に気付いていないのか興味がないのか、油崎はローションボトルを差し出した。 「飲め」 「……ここでか?」 「オレを連れて家に帰るって言うならそれでもいいけどな」 そうだった……。ローションボトルが空でなければエネルギーを回収できないから、油崎が出て来たのだ。ならば同じく、ローションボトルを空にしないと油崎は戻れないだろう。 俺はボトルの口に鼻を近づけた。無臭だ。小さな口から覗き見える液体の色に気が引けてしまう。だが、いつまでもここでうだうだやっている場合じゃない……。 と、再び油崎が俺の手からボトルをひったくった。下顎を掴まれ、無理やり口を開けさせられる。おい待て、それは。俺が何か言う前に、油崎は俺の口の上でボトルをひっくり返し、思いっきり絞った。 「――っ⁉」 生ぬるい、若干粘度のある液体が舌の奥に落ちて、喉へと滑り落ちて行く。反射的に舌が跳ね上がった。頭を振ろうにも口を閉じようにも、軋むほどの力で顎を押さえられて動けない。 とろみがかったそれは、案外むせなかった。一度も咳込むことなく全て胃に収めると、顔の上で油崎が数回ボトルを振った。マヨネーズを出すときの素振りをするんじゃない。 「ったく、ちんたらするな」 やっぱりこいつは失礼だ。俺は無意味な空咳をする。飲んでしまった。喉奥にほんのり甘さが広がっていた。金柑に似ている気がする。 「味は?」 油崎はにやにやしながら、空になったローションボトルを投げて寄越した。 「ちょっと甘い」 「ふうん。純愛だな」 何が? 訊こうとした時、がらりと扉が開いた。ぼけっとした丸木先輩がのろのろ入って来る。無事に用を足せたのだろう。多分。 「よし、帰るぞ。オレは疲れた。寝る」 言って大きく伸びをすると、油崎は俺を急き立てた。力を使うと疲れるという。鞄とローションボトルを持ってその背を追いながら、俺はふと人差し指を三回上下させた。 パッと室内に六本のゲージが現れる。佐渡先輩のムラムラゲージはほぼ満タンだ。丸木先輩は――六割ぐらいしかない。 「……ありがとうございました」 俺は小さくお礼を言って、生徒会室を後にした。 生徒会室を出ると、既に油崎の姿はなかった。一瞬焦りかけて、思い出す。手元に目線を落とせば、ローションボトルが透明の液体に満たされていた。戻ったらしい。いや、冷静に考えると意味が分からない現象ではあるが。 これが人型をとるとは、俄かには信じがたい。しかも、アメーバみたいな代物ではなく、しっかり骨と筋肉を感じさせる人型に。そしてイケメン。 旧校舎は新校舎と比べて人が少ないのをいいことに、俺はローションボトルを窓の向こうの夕日に翳した。こうしてみると普通に綺麗だ。……これに変態エネルギーを回収して、飲んじゃったんだよなあ……。 あまり深く思い返すと胃がひっくり返りそうだ。油崎じゃないけど何だか疲れたし、さっさと帰ろう。鞄を開けてローションボトルをしまいながら、俺は階段へと向かう角ぎりぎりを曲がった。 弾き飛ばされた。 うわ、だか何だか、間抜けな声を上げて尻餅をつく。違う、弾き飛ばされたんじゃない。誰かにぶつかって、俺が勢いで負けたのだ。肩から鞄のショルダーベルトがずり落ちる。「ごめん」という声を聞き、差し出された手を握り――。 (この声) 立ち上がると同時に、心臓が大きく脈打った。この、声。この手は。間違いない。ロッカーで夢想した手だ。顔が勝手に持ち上がって、相手の姿を視界に収めた。 「あ、天野……」 天野利矢。黒い睫毛に縁どられたこれまた黒い瞳が、俺の斜め後ろを見ている。何だ。その視線を辿って、息が止まった。 ローションボトルが、鞄から転がり出ていた。ぶつかって尻餅をついた時に、鞄が倒れてしまったのだろう。まだ口をしっかり閉め切っていなかったから――。 (最悪だ、最悪――どうしよう……どうしたら) 一番見られたくない人間に、見られてしまった。早く何かを言わなければならないのに、頭が真っ白になって何も出てこない。 「……何あれ」 天野が言った。俺は、俺は――。

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