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第9話  最悪の邂逅

「とっ……友達のを、預かってて」 俺は俯き、掠れた声で絞り出した。 苦しいどころじゃない言い訳だ。親にエロ本を見つかった時の中学生のような、と言っても、俺はエロ本を所持したことがないから想像でしかないけれど。 「友達……? ローションを?」 天野の声は訝し気だ。俺はうぐっと言葉に詰まった。 そりゃそうだ。ローションを友達に預けるなんて、聞いたことがない。いわゆるおかずのように、「お前も使っていいぞ」なんて言われても困る。預けたローションが減ってたら気まずすぎる。「お前ちょっと使いすぎじゃないか?」頭の中の架空の友人が、油崎の姿をとった。うるさい、何でお前が出て来るんだ。お前はローションの方だろ。 違う、問題は天野だ。何とかして誤魔化さなきゃならない。もうすでに詰んでる気もするけど……。でも、ここで設定を変えればますます嘘っぽくなりそうで、俺は言い募った。 「ええっと、変わった奴で、何か家に置いとくのが不安だとかで」 言いながら、両こめかみの上あたりが押し込まれるような感覚を覚えた。脳に回る酸素が減っている。一体何だと疑問に思って、自分の呼吸が浅いことに気付いた。 ――あ、俺、焦ってる。 自覚すると、更に思考がとっ散らかり出す。 「じゃあそもそも買わなきゃいいんじゃないか?」 「あーうん、そうだよな。俺もそう言ったんだけどさ」 自分の靴の先を見ながら捲し立てる。 そうだよな、そう。買わなきゃいいんだ。一人でしか使わないなら、どうせ叶わないんだから買わなきゃいい。 天野の言葉が勝手に脳内で変換されて、俺をチクチク刺してくる。違うのに。天野は俺に言ってるんじゃないのに、後ろめたさが自傷を推奨してくる。 天野の呆れたような口調が、そうさせる。 「誰から?」 「えー……っと、それはその、プライバシーの問題と言うか……」 「……中村さん?」 「へ? 何で」 想像していなかった名前が飛び出して、思わず顔を上げる。ぎしりと固まった。 天野は、まっすぐ俺を見ていた。俺はずっと俯いていたから、つむじを見ていたことになるけど。その目は静かで、ただじっとこちらの様子を観察している。 バレてる。 友達から云々の下りが、嘘だとバレている。え、じゃあ何で中村さんの名前を? 大体何で中村さん?――ああ、俺、そう言えば、天野とこんなに長く話したの、初めてかもしれない。話せたとしても大勢の中の一人だったり、一言二言だったり。 何で? や嬉しい、という気持ちが、それでも天野の眼差しに塗りつぶされる。 ……天野は、呆れているんだと思っていた。そんな喋り方だったし、……見てないけど、言いよどむ俺に「何言ってんだこいつ」みたいな目を向けているとばかり。 でも、天野は優しいから、あまり深くは追及しないでくれて、もしかしたら引かれるかもだけど。変態だと思われるかもしれないし、心の中では気持ち悪いと思われるかもしれないけど。 それでも、こんな冷たい目で見られるとは、思ってなかった。 俺は、この目の色を端的に言い表す自信があった。今までこんな目で誰かに見られた記憶は思い起こす限りないけれど、それでもわかった。そうとしか思えない。 (軽蔑だ) 軽蔑されてる。天野に。よりによって、天野に。 的確な漢字二文字が頭に浮かべば、それを引き金に目の奥が熱くなった。目頭の向こうから、水気が押し寄せて来るのがわかる。頼む、やめろ俺。こんなところで泣くなんて、みっともなさすぎる。しかも理由が最悪だ。今すぐ逃げなきゃまずい。今すぐ――。 俺は天野を押しのけた。力んだ拍子に瞼がきつく閉じて、涙が床へと落ちて行く。身を翻し、床に転がる鞄を取り上げようとした時だった。 恐ろしく強い力で腕を引かれ、背中と後頭部に衝撃を感じた。壁――。空咳を数回して、前腕で俺を押し付けている天野の体を押そうとする。が、相手が天野だからか、体を打ちつけたからか、全然力が入らない。 さすが運動部、力が強い。制服越しに腕の硬さを感じて、こんな時だというのにどきどきしてしまう。 「仲がいいみたいだから」 天野は言って、その綺麗な顔を近づけた。 (――え?) 温かい、柔らかいものが下瞼を這っている。薄い皮膚が引っ張られ、小刻みに震えた。過ぎ去った場所が空気に触れて涼しい。ぢゅっと下瞼で鳴った音と、引っ張り上げられる感覚に、何が起こっているのか、ようやく理解した。 ……舐められている。涙を吸われている。 ゆ、油崎ーッ‼ 俺は、胸中で絶叫した。 な、何だこれ、何だこれ⁉ 何が、天野が俺の顔を舐めている⁉ なめ、俺の顔を⁉ 騒がしいのは心の中だけで、ガワの方はガチガチに固まりきっている。呼吸は完全に止まり、瞬きすらできていない。 視界に映らないローションボトル、正しくはその中身に助けを求める。油崎、どうにかしてくれ。この状況を。いや待て、出て来なくていい。こんなところで出て来られては困るし、今度はお前誰? という話になってしまう。でも今の状況よりはマシか? わからない、何もわからない――。 「それで、どうなんだよ」 眼球のすぐそばで天野が言う。呼気が頬に当たっている。俺は尋問されている気持ちで、何とか「違う」と繰り返した。中村さんに飛び火するのは申し訳ない。誤解されて彼女が変に思われるのも嫌だし、俺の天野への想いを応援すると言ってくれた相手をこんなことに巻き込むのも嫌だった。 息が止まっていたところに言葉を吐き出したせいで、酸素を求めて肺がぐっと広がる。また咳をすると、俺の上下する胸が天野の腕を僅かに押した。天野の舌が下瞼から離れ、俺は咄嗟に俯いた。 「じゃあ誰から?」 「それは、」 左耳から聞こえる天野の声は潜められ、落ち着いていた。俺より低い、若干掠れの混じった柔らかい声だ。蒸らしすぎた紅茶のような、メープルシロップのような……いや、そこまで甘くはないか。でも粘度は似ているかもしれない。 いつもなら心臓と頭――それから、身も蓋もないが、股間――の制御に大忙しになる状況なのに、俺の脳内は別のことで混乱していた。 おかしい。天野は、多分俺の言い訳が、友達から預かっているものだという言い訳が嘘であることに気付いているはずだ。 嘘を相手が信じたかどうかはともかく、嘘がバレているかどうかは、何となくわかるものだったりする。相手がそれを知りながらわざと騙されてくれている場合以外は。 「それは?」 「だ、だからそれは、プライバシーの問題だから……」 「確かに。預けたってことは、わざわざ学校に持ってきたってことだしな」 「……」 「今ここでお前がそいつの名前を言えば、そいつと変態の単語がイコールで繋がるわけだ」 変態だなんて、学校にローションを持ってきた程度で……いや、十二分かもしれない。変態かはともかく、よろしくないことは確かだ。天野の口から変態というワードが飛び出すのは、なかなか心臓に悪い。でも、それよりも、 (――お前、って……) 初めて言われた。今まで呼ばれるとしたら、小竹君だとか、君とか……。そもそも天野に呼ばれる絶対数が少ない。お前なんて。確かに、天野が彼の周囲にいる友人にそう言っているのは聞いたことがあったけれど。それが自分に向くなんて。 徐々に頭が白くなっていく。綺麗に掃除されているからじゃない。白いがらくたがどんどん盛られていくからだ。思考を奪う白塗りの奥で、じり、と何かが点火する。 「持ち物検査とかされたらまずいな」笑いを含む天野の声が滴る。うちの学校にはない、と返せば「生徒会長が思いついてやるかも」と被せられる。「突然始まったらしい挨拶みたいに」 生徒会長。生徒会室に残してきた二人を思い出す。耳をそばだてても、廊下の向こうからは何も聞こえない。俺の神経が天野に集中し過ぎているからかもしれない。もしかしたら、出て来た先輩達に見つかるかもという気持ちと、果たして二人はあのぼうっとした状態から戻れたのだろうかという気持ちが混じる。 「いや、多分生徒会長はそういうのは……」 やらないと思う、と言外に予想を述べる。丸木先輩はどちらかというと、自分が検査される方が好きそうだ。正しくは、検査されそうな状況だろうか。 「……知り合い?」 「ちが、その……一方的に……?」 間違ってはいないはずだ。嘘はついていないし、生徒会長が生徒から一方的に知られているのは、むしろ普通のことだろう。 天野が、納得したのかわからない音を鼻の辺りで響かせた。 「何に使ってるの、その子」 「え?」 「ローション」 さっきから、天野が普段言わない単語がぽんぽん出てきて眩暈がしそうだ。こんなところにも扉がある、と言って壁を開けられている気分になる。 その天野はしきりに俺の顔を覗き込もうとするので、必死になって下を向いた。首が痛くなってきた。 「さ、さあ……そりゃ、ローションだから」 何だろう、これは。 俺は曖昧な言葉を選びながら、身を震わせた。ちょっと暑い、気がする。距離が近いから? そうかもしれない。好きな人が近くにいるから、緊張して興奮しているのかも。 「だから?」 「だから、その……一人でする時とか」 「何を」 天野は、楽しそうだ。俺は熱い息を吐きながら、悲しくなった。 恥ずかしくて惨めな奴がいるから、からかっているんだ。好きな人にそんなことをされるのも、好きな人がそんなことをするのも、どちらも胸を詰まらせる。 呼吸が浅く短くなって、太腿を擦り合わせた。 「わ、わかるだろ……」 「わからない」 「だからっ……お、なにー……だろ!」 肝心の単語だけ猛烈に小声になった。 何なんだ、同じ男なんだからわかるだろ⁉ そりゃ俺のやり方はちょっと違うだろうけど! 羞恥は一周回って苛立ちを連れて来る。 「どうやってるの」 「知るわけないだろ、他人のやり方なんか」 「自分のことなのに?」 勢いは、一瞬で萎んだ。伏せていた顔が誘われるようにして上がっていく。自分の体なのに、自分の制御範囲外にあるみたいだ。 天野の端正な顔が、夕日を受けてより彫りを深くしている。左右対称に口端の上がった薄い唇も、細められた一重の目も、何もかも綺麗だ。綺麗で、とても酷い。 (やっぱり、嘘だってわかってたんじゃないか) ころころころころ、掌の上で転がして楽しかっただろう。酷いと思うのに、楽しそうな天野は好きだ。天野が楽しそうにしているのが、俺で楽しくなっているのが、とても。 楽しそうなまま、天野はまた顔を近づけた。俺は、縫い留められたように動けない。唇が柔らかいもので塞がれて、俺は自分の口元が震えていたことを知った。 ――ああ、こんなラッキー、動けない。 天野の黒い睫毛の奥で、濡れた目が輝いている。瞳孔の開いた、暗い輝き。炎が燃えているようにも見えるし、それは夕日が涙の膜を光らせているだけかもしれない。 それは不意に訪れた。 天野の顔が傾きを深め、ぬるりとした何かが唇の間を割る。その時、俺は天野の頭の横にある、二本のゲージを見た。 同じものが、俺の横にもある。丸木先輩達のゲージを確認して以降、出しっぱなしにしていたのに、どうして今まで気付かなかったんだろう。天野ばかり見ていたから? 天野ばかり、気にしていたから……。 天野のゲージは、どちらも全然溜まっていなかった。カルマゲージは僅かにピンクがかっているものの、ほぼ無色透明で、空っぽに近い。ムラムラゲージの方は、二割程。 普通だ。とても普通。こんな状況で、普通のまま。対する俺は、 俺は、天野を突き飛ばした。恐ろしいぐらいの力が二の腕に満ちて、軽く一メートルは距離が開いた。 俺の前歯を舐めていた舌が離れて行く。目を見開いて、たたらを踏む姿。呆然とした顔は、驚きに満ちているように見える。 俺は素早く鞄とローションを回収し、天野の前を駆けた。ブランクがあっても、この足は俺の言うことをスムーズに聞いて、速やかな加速を生んだ。こんなところで、昔取った杵柄を発揮しなくていいのに。 ぼたぼたと目から熱い液体が落ちる。廊下を丸く濡らしながら、俺は走った。 すれ違いざま、天野は確かに「ごめん」と言った。 ごめんってなんだ、じゃああんなことするなよ。そう思うべきなのに、怒るべきなのに、俺はずっと悲しかった。 俺とのキスを、悪事のように言われて、悲しかった。

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