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第10話 謎のお誘い

無人の家に帰り、俺はベッドに突っ伏した。シーツが殆ど乾いた涙を吸い込んでいく。 あの後、人とあまりすれ違わないのはよかった。部活動の時間だったからだろう。何人か人はいたけれど、泣いていたのは見られていないはず。号泣しながら爆走していたなんて知られたら、面倒だ。 「キスしてたな」 「……あんなのがしたかったんじゃない」 背後から聞こえる声が誰のものかなんて、振り向かなくてもわかる。近づく気配がし、顔の左側を中心にベッドがバウンドする。腰を下ろした油崎は、そちらを見上げた俺の目の前に、ティッシュの箱を置いた。 ありがたく一枚引き抜き、鼻をかむ。瞼もじんじんして、これは絶対明日腫れるだろう。最悪だ。 「あれが天野か?」 確信を持った口調に、俺は天野に吸われた下瞼を撫でながら頷いた。本当に、何であんなことを。冷静になってくると、天野の行動は無茶苦茶だった。 「結構ヤバい奴じゃないか。お前そういう趣味なのか? カルマゲージ見る限りそうでもないのに」 違う、と言う声がくぐもっていて嫌になる。明日も学校があるのに。「天野は優しいやつだよ」 油崎が顔を顰めた。 「お前、それ本気で言ってるのか? あんなことされておいて? そりゃ人の趣味嗜好には口を出せないけどな。あいつは別に、お優しいわけじゃないだろ」 ――どうだろう。俺は口を噤んだ。 今までなら、違うと言えた。天野は優しくていいやつだと、重ねて主張できた。それが、今日から怪しくなった。 客観的に見て、あの天野は優しくないだろう。わかっていても、口は勝手に動き出す。 「でも、天野は他人の運んでるもの持ってあげたり、俺がボール片付けるの手伝ってくれたり、部活でも他の子に訊かれたら教えてるみたいだし、友達の相談にもよく乗ってるみたいだし」 「お前が天野をよく見てる報告はいいんだが」 呆れたような響きに、俺の頬が熱を持つ。期せずして熱心な視線を告白してしまった。……いやでも、油崎だしな。こいつには一人でやってるところを見られてるわけで。――別の理由で暑くなってきたから、やめにしよう。 「恋は盲目、おおいに結構ではあるけどな。お前、そいつを神聖視しすぎてるんじゃないか? 普段喋るのか?」 「……あんまり」 「やっぱりな」 訊いておきながら頷く油崎を睨む。何が悪いって言うんだ。仕方ないだろ、好きになっちゃったんだから。 ……あんなことされても、時間が経って冷静になっても、何でとは思っても、嫌いとは思わないんだから。 「別に悪いなんて言ってないだろ」 何も言っていないのに、的確に俺の感情を読み取ると溜息をつく。「悪くはないが、派手に滑落する恋だと思うぞ」 顔面からな、と付け足される。 「恋は落ちるものなんじゃないのかよ」 「そりゃ落とし穴とか、一段低い場所とか、沼とかそういうことだろ。オレが言ってるのは、山の斜面を転がるような、ってことだ。途中の岩やらなんやらで体を抉られるかもしれんし、中途半端な位置で木に引っ掛かって止まるかもしれん。自分では止められないし、他人は手を出しづらい」 「……沼も大概だろ、それ」 「沼では案外魚になれたりする」 何だそりゃ。 「とにかく、あいつの行動はよろしくないってことだ。お前は自分の感情で感覚がバグってるようだが、犯罪になりうることだからな」 俺は唇を舐めた。天野とキスした。キス、できてしまった。あんなに色んな想像を巡らせては緊張するだろう、恥ずかしくてたまらないだろうと考えていたのに。 された時には感じる暇のなかった嬉しさと、やっぱり虚しさが込み上げて来る。 天野のゲージ。一ミリの興奮すらないことを示す、平均の枠に収まる濃いピンクの液体。俺のムラムラゲージは、四割もあったのに。衝撃的な状況で、それでも確かに天野の行動に煽られていたのに。 多分からかわれていて、もしかしなくても酷い男かもしれなくて、そのくせ最後に謝罪して責めづらくする嫌なやつかもしれないけれど、俺はそれにすらドキドキしている。手遅れかもしれない。 天野が言ったことを思い起こすだけで、じんわりと体が熱を持つ。 「――まあ、当のお前が声を上げそうにないからどうにもならないが」 「もしかしたら」 油崎の言うことは、半分以上聞いていなかった。呟く俺に、油崎が片眉を動かした。鼻水が垂れて来たので、ぢーん、と遠慮なく音を立ててすっきりさせる。 「俺、Mの気質あったのかも」 天野限定で。そう言えば、油崎は一瞬俺の顔の横に目をやると、指を鳴らした。 途端に二本のゲージが現れる。天野の元から走り去る折に仕舞ったゲージ達。ムラムラゲージは二割を少し超える程に減っていた。 カルマゲージの、色が変わっている。元々薄紅だった俺のゲージは、何だか濁っていた。しかも量も増えている。あの時は気付かなかった。ムラムラゲージの量の違いにショックを受けただけで。 「……何で」 「何でってお前、飲んだだろ」 「――は?」 何だって? 飲んだ? そう、飲んだ。苦労して先輩達から変態エネルギーを回収して、無理やり飲まされて――その後に天野に会ったんだ。それで、あんなことに。 待て。 「おい、まさか、回収したエネルギーが俺に影響を与えるなんてこと」 「あるに決まってるだろ」 俺は思いっきりベッドを叩いた。ボスン、と掛け布団が沈んだだけだったが。きょとんとした顔の油崎が、大げさに体を跳ねさせた。 「食べたものがそいつの体を構成するなんて当然のことだろ。お前の場合は、摂取した変態エネルギーがカルマゲージに影響する」 「だから最初に言え‼」 こいつとの会話はこんなのばっかりだ。早い内に持っている情報を全て吐き出させないといけない。俺は油崎を逆さ吊りにする決心を固めた。 「ってことは、先輩達の性癖が俺の」 「性癖にプラスされてる。あの二人は確か、SMとピーガズム、露出癖だったな。だから多分、お前の感じてるMっ気とやらはそこから来てるんじゃないか。もしかしたら持ってたのが目覚めたのかもしれないが、お前の元々のカルマゲージからして可能性は低そうだ」 すらすら喋る油崎の肩を叩いてやろうとして、ひょいと避けられる。避けるんじゃない。手が空を切り、勢い余った俺はまたベッドに上半身を倒した。 なんてこった。そんなつもりはないのに、俺はいつの間にか尿意を我慢し、他人に見られることを好む、サディストとマゾヒストの気質を持つ人間になってしまっていたらしい。だから天野の行為にあんな反応を? 恥ずかしいような虚しいような、複雑な感情が湧いて来る。 「あの程度の量なら大きく影響は出ないけどな。結局は他人のものだから、よほど摂取しないと性癖の濃さは深まらない」 「……つまり、SM好きばかりからエネルギーを回収してたら、SM好きになりやすいってことか?」 「そういうことだ」 これは一安心、と言えるのだろうか。少なくとも今回のことで俺があの二人と全く同じ程度の性癖になることはなさそうだ。息を吐いたところで、俺は気付いた。 「……相手のカルマゲージの量の多さって、俺のカルマゲージへの影響に関係したりするか?」 「する。多ければ多いほど、影響も大きい」 「でもお前、カルマゲージの量が多い方が、変態エネルギーも大きくなるって言ってたよな」 「そうだな」 「つまり、何だ。エネルギー回収の効率を求めれば求める程――」 「お前は性癖のデパート状態になる」 もう一度ベッドを叩いた。油崎が横で跳ねる。 「デパートが嫌なら、SM好きばっかりを探してSMを極めろ。別に他のでもいいけどな」 誰が専門店になりたいと言った⁉ 俺はひたすらベッドを叩いた。ふざけすぎてるだろ、その副作用。 「カルマゲージの量が少ないやつからだけ回収すればいいんじゃないのかよ」 「そうすると一人一人から受ける影響は少ないが、結局量が足りないから大人数を回す必要がある。そうすればダブった性癖が溜まって結果は同じだぞ。むしろ多くの人間から回収するから、色んな性癖が集まってますますデパートに」 「ううあああー」 俺は情けない声をベッドに吸わせた。本当にこいつ……本当にこいつ……! 俺はとんでもない体にされていたらしい。きっ、と油崎をねめつけるが、涼しい顔でこっちを見ている。遊んでいる風でも、面白がっている風でもない。世界の常識を語る様子で、これだからこいつがわからなくなって戸惑う。俺をからかう悪趣味な面もあるくせに。 「カルマゲージの色と性癖の内容って」 「多分あまり関係ない」 「くそが……」 性対象と同じだ。じゃああのゲージの色は一体何なんだ。質問を重ねようとした時だった。俺のスマホが、小さくトークアプリの通知を告げる。まだ仕事中の母さんから何か連絡があった際に気付けるよう、鳴動をオンにしているのだ。 きっと母さんからだと思って、ロックを外すと画面上部に垂れ下がっている白い四角をタップした。トーク画面が現れる。 (うそ) トーク画面の上部には『天野利矢』とあった。 天野。何で。 フリーズする頭と裏腹に、目がメッセージを追う。 『さっきはごめんなさい。明日学校で改めて謝らせてください』 メッセージの上には、友達登録をするためのボタンが表示されている。そう、俺は天野とアプリで会話をしたこともなかった。天野のアカウントはクラスのグループに所属しているから知っているけれど、彼の方に友達登録の通知が行くのが怖くて、何もできていなかったのだ。多分天野も、クラスのグループから俺のアカウントを探してメッセージを送って来たのだろう。 丁寧な文面、誠実に見える文字達。 俺は再びやって来た混乱に身を浸しながら、天野とのトーク画面に初めて表示されるメッセージがこれか、と寂しさを覚えた。 なんて返すべきだろう。指が震える。気にしていない? いや、気にしてはいる。めちゃくちゃ。わかった? 何だか冷たく見えそうだ。怒っていると思われそう。そっちの方がいいのか? どうしよう、もう既読はつけてしまっている、早く返信を。焦っていると、再び通知音が鳴った。トーク画面に、吹き出しがもう一つ追加される。 『お詫びをしたいから、もしよければ土日にランチでもどうですか』 (ラ……ンチ……?) ランチ。土日に。……ランチ? え、つまりそれは、デー……。 俺はぶんぶんと頭を振った。な、なんだこれ。お詫びをしたいからランチ? 土日に? 何を言っているんだ。本当に謝罪の気持ちがあるのか? 文面だからちょっと変に見えるだけ? そもそも謝罪は明日学校でするって先に書いたのに? あんなことをした相手とですら一緒にご飯を食べるのが天野流謝罪術なのか? キーボードだけを呼び出して、そこから指が動かない。混乱しきっていた。だから、横からぬっと伸びて来た指への対応も、大いに遅れた。 指は滑らかに画面を操作すると、スタンプを一つぽんとタップした。画面に『OK』という文字を掲げたウサギが現れる。 「ちょ、お前⁉」 何勝手に返事してるんだ! しかも物凄く軽い感じで! 振り返った先の油崎は呆れと諦めがないまぜになったような表情をしていた。 「お前、忠告したのに止まりそうにないからな。いっそド派手にすっ転べよ」 顔から行け、顔から。ぱくぱくと口を開閉する俺を放って、油崎はベッドを降り、本棚へと向かった。勝手に漫画を漁るつもりらしい。それに声を上げる気力もなく、俺はもう一度トーク画面に視線を落とした。 ウサギの左下についた既読の文字。ああ、さっさと取り消しておけばという気持ちと、もし通知が行っていたら大差ない、という気持ち。 ベッドに顔を埋めて、どうしよう、と呟く。デートだ。天野とデート。でもそれより先に明日学校で顔を合わせるんだよな、多分。どんな反応をすれば、シミュレーションしといた方がいいかな……。 油崎が「八巻どこだ?」と訊いて来るまで、俺はずっとベッドと仲良くし続けていた。

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