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第11話 食堂横の謝罪

「本当に、ごめんなさい」 「い、いやあの、ここじゃちょっと……」 俺は大慌てで両手を振り、周囲をしきりに見回した。 食堂や購買の付近に人は絶えず行き来しているが、俺達のいる方にやっては来ない。入口に用はあっても、食堂の側面に用はないだろうから、それはそうだろうが、ちらちらと人が見える度にびくびくしてしまう。 人通りの方からは俺の背中が見えるだけで、天野は俺に隠れて見えないであろうとしてもだ。 天野の方が身長が高いから、普通なら俺の体から天野の頭が飛び出して見えるだろう。だが今は、その腰をきっちり九十度曲げる最敬礼をしているため、天野の頭は随分と低い位置にあった。 天野に、美しいこの男にとんでもない角度の謝罪をさせている事実に、俺の脳内はパニックだった。 天野に頭を下げさせてしまっている。――違う、彼が謝罪をしたいと言ったのだ。 俺は寝不足だった。そりゃそうだ。昨日、天野から謝罪なのかデートの誘いなのかよくわからないメッセージが来て、次の日は変わらず学校で、ベッドの上で悶々としたのだから。 寝不足ながらも緊張で奇妙な目の冴えを覚えながら登校し、いつも通り扉側の席から窓側の席に座る天野を眺めたのだ。もちろん頭の中ではシミュレーションに忙しかった。 天野が謝ってきたら、なんて言おう? 昨日されたことはめちゃくちゃ気にしてるし、正直傷付いた。夜中ベッドで反芻して、改めて自覚したのだ。キスそのものは嬉しかった。ラッキーだったと言っていい。でも、その状況は全然よくなかった。 少なくとも理由を……いや、ただ遊んでいただけです、泣かれたのでさすがに申し訳なく思いましたなんて言われたら惨めすぎる。大体、朝教室に入って来た天野はこちらをちらとも見なかった。俺が緊張とある種の恐怖で固まっていたにも関わらず。 まさか夢? と思ってトークアプリを開けば、天野とのトーク画面は昨日見たままだ。質の悪い冗談か、もしくは昨日のあれはからかいで、それがまだ続いている? 天野から連絡が来たと思っていたけど、同姓同名の別人? じゃあメッセージの『さっきはごめんなさい』の「さっき」って何だ? 昨日の夜が一番悩んだと思っていたけれど、今日の午前中はそれをはるかに超えていった。しかもトーク内容とその相手すら疑念にまみれだしたのだから始末に負えない。結局シミュレーションは上手く行かず、天野への返事も、そもそも天野が宣言通り謝罪してくるのかもわからないまま昼休みになり、浅井と弁当を食べながら再び天野とのトーク画面を開いた時、そのメッセージを見たのだ。 『ご飯を食べた後でいいので、食堂の横に来ていただけませんか』 丁寧を通り越して他人行儀が過ぎる文面。俺は米を碌に噛まず、まるまま飲み込んでしまった。喉を米の塊がゆっくり滑り落ちて行く不快感に耐え、胸を拳で叩く。浅井が「どうした」と言いながらデレデレしていた顔を一瞬で引き締めたので、何でもないと手を振る。 浅井は首を捻りながらも、すぐにでれっと顔をだらしなく緩ませた。前話していた、可愛い彼女に作ってもらったお弁当とのことで、もう蓋を開ける前からおいしいですと全身で言っていたのはちょっと笑った。 一口一口を味わう浅井を横目に弁当の残りを掻き込み、席を立った俺は小走りで指定された場所へ向かった。 浮ついているような、緊張してドキドキして、不思議な期待と向かいたくない気持ちと。色々ごちゃ混ぜになった心をひたすら左右の足を動かすことで誤魔化し、食堂の横でぽつんと佇んでいる天野を見つけて、それで――これだ。 これぞ謝罪。これ以上を望むなら土下座しかない勢いで、天野は出来のいい頭を下げた。というか放っておくと土下座しそうだ。それは困る。好きな人の額が地面に擦りつけられるのを見て楽しむ趣味はない。あと、ここじゃ尚更困る。顔もよけりゃ成績も部活でも優秀な男を土下座させたなんて知られたら、何がどうなるかわからない。 俺が脅したと思われるかもしれないし、天野が土下座するほどヤバいことをする人間だと思われるかもしれない。想像するだけでどちらも嫌だった。いや、もしかしたら天野のやったことは土下座するほどのことかもしれないけれど。でも、俺からすればそこまでじゃない。傷付いたけど、土下座ってほどじゃ。 天野は顔を上げる気配がなかった。 食堂の横と言っても結構奥の方だから多分まだ誰にも見られていない……はず。現に振り返れば校舎との間を行き来する生徒達が見えるものの、誰もこちらに気付いた様子はない。 何でこんな場所を指定したんだ。人がいる方が、目立つのを嫌がって俺が許しそうだから? じゃあ何でこんな奥の方なんだろう。謝罪している姿を見られたくない? それはそうだろうけれど、それなら体育館横とかの方がいいと思う。 全然天野の真意が見えない。案外食堂で昼ご飯を食べていたから、謝罪も近くで済ませてしまおうとかいう考えだったらどうしよう。……うっなんかありえそう……。 勝手に落ち込みながら、俺は何とか天野に頭を上げさせようとわたわたした。このままじゃ話もままならない。もしかして俺が許しの言葉を言うのを待っているんだろうか。だとすれば天野の頭は一生この位置だ。まだ何と言えばいいのか俺が決めかねているから。 天野は俺が顔を上げるよう言っても、肩を押し上げようとしても、頑として体勢を戻さなかった。誰かに見られるかもしれないという焦りと天野が何を望んでいるのかわからない不安が、俺の胸に苛立ちを芽吹かせる。 だって天野は、なにも言わないから。 以前までなら天野に自分から触れるなんて考えられなかった――正しく言えば、考えても実行に移すなんて絶対無理だったのに、昨日の一件から俺の感覚はバグってしまったのか、勝手に聳え立たせていた壁を破壊したのか、べたべた無遠慮に天野の肩を触りまくった。 触りまくって押したり引いたりしたが、やっぱり天野は微動だにしない。途方に暮れた俺はその場でしゃがみ込んだ。天野より自分の頭を下に置く作戦だ。通りを行く人間には天野のつむじが見えてしまうことになるが、もうどうだっていい。九十度に腰を曲げている人間とその前でしゃがんでいる人間の取り合わせは意味わからないだろうけど。 顔を上げれば、天野と目が合った。驚いている顔だ。自分の体で日陰になった天野の目はハイライトがなく、ぼうっとしているように見える。と、その顔を歪め、もう一度「ごめんなさい」と言った。 「あーえーと、取り敢えず顔を上げてもらえると……」 助かる、と言外に滲ませると、天野は渋々姿勢を戻した。やっと普通に話ができる。俺も立ち上がる。何だか、どっと疲れた。これも天野の作戦の内だったりするのだろうか。 「本当に、昨日は申し訳ないことを」 顔を上げて早々、また伏せようとする天野を押しとどめる。天丼をやっている場合じゃない。 天野の表情は悲痛としか言いようがなく、俺は微かに困惑した。いや、何もおかしくはない。謝罪にはこれ以上なく相応しい顔だ。でも、昨日の天野とは全然結びつかない。 傲慢で、意地が悪く、残酷で楽しそうだった天野とは。 「何で」 気付けば口から転がり出ていた。頭を下げようとした際の名残で足元を見ていた天野の目が、ゆっくりと上がる。 あ、と思った。昨日と逆だ。 天野の黒目が、日差しを受けて煌めいた。昨日とは違う、健全的で綺麗な輝き。思い出して悲しくなるかと思ったけれど、あまりにもかけ離れていたからそうでもなかった。 「何であんなこと」 天野は、ぐっと喉を詰まらせた。目が泳ぎかけ、口を開いては閉じるを繰り返す。やがて決心したように一つ息を吐くと「実は」と言った。 「病気……みたいなもので」 「びょ、病気?」 思わず声が大きくなった。天野が病気? 何の、いつから? 俺の頭が一瞬でクエスチョンマークに支配される。天野は額に手をあて、何度か顔をこすり、どもりながら続けた。 「発症したのは最近、なんだけど。時々リミッターが外れるというか……それだけじゃなくて、暴力的というか、狂暴……になる感じで」 「はあ……」 だからあんなことを? 俺はぽかりと開けていた口を閉じた。正直、意味が分からない。でも説明を聞く限り、何だか……「狼男みたいだ」と呟くと、「そんな感じかもな」と弱々しく笑われる。初めて見る天野の弱った姿に、そして昨日の酷い男だった時とのギャップに、思わずきゅんとしてしまう。 その後、天野にホルモンバランスがどうとか、かなりマイナーな症例で前例が少ないとか、神経に影響する何々と説明されたが、殆どわからないにも関わらず、俺の脳みそは天野が狼男もどきであることを受け入れつつあった。 我ながらなんてちょろいんだろう。 そいつが適当に吐いてる嘘かもしれないぞ、と頭の中の油崎が言うが、俺の頭は全然その忠告を素直に飲み込みそうにない。油崎に言わせるなら、俺は滑落中なんだ。俺にも誰にも止められない。脳内の油崎は呆れたように鼻を鳴らした。 ちなみに、本体は俺の家で留守番中だ。 「その、症状はどんな時に出るんだ?」 「そう、だな……色々だ。時間帯が決まってるわけじゃないし、場所も」 「それってめちゃくちゃ大変じゃないか?」 天野は神妙に頷いた。事実だとすればとんでもないことだ。時間も場所も条件ではないというなら、いつでもどこでも突発的に起こるということになる。その度にあんなことを? 日常生活に支障が出てしまうのは容易に想像できる。教室なんかでやらかせば、社会生命が終わりそうだ。 俺は眉根に皴を寄せた。はっとした顔で天野が口を開く。 「ただ、かなり厳密な条件が一つあるんだ」 「条件?」 「……男性と二人きりになった時しか発動しない」 「な、るほど……?」 「家族は含まれないみたいだから、父親とかは大丈夫らしい」 どういう判定基準なんだそれは? しでかす内容的に性の匂いがするから、無意識の内に身内を除外するんだろうか。でも何で男性限定? 「え、じゃあもしかして、ここを指定したのって……」 天野は頷いた。 「謝罪されてる姿を見られるのは嫌かと思ったんだけど、二人きりになるとまた同じ轍を踏むだろうから」 「そうだったのか……」 何だか色々腑に落ちた。しゅんと伏し目になる天野にドキドキが止まらない。やっぱり天野は優しい。つまり、昨日のあの残酷な天野は本来の天野ではなかったのだ。 症状が出ないようにこんな微妙な場所を選んで、それでも不安だろうにわざわざ謝罪することを選んでくれたのだ。 思えば口調も全然違った。あんなのほぼ別人だろう。 俺はほっと息を吐いた。天野は症状が出ることを恐れているだろうけれど、俺は昨日からずっとぐちゃぐちゃだった感情がようやく収まって安心した。 「でも何で男限定?」 「わからない……」 途方に暮れた顔で首を捻る天野に、楽になっていた気持ちがふっと急降下する。待てよ。天野の様子を見る限り、彼はこの症状に困っている。うんざりしているようにも見える。 そりゃそうだ。時間帯も場所も問わずだなんて迷惑が過ぎる。それに加えて、相手が男だなんて――。 『……かわいくて大胆な子』 好みを訊かれて、天野はそう答えていた。 そうだ、天野はかわいい子が好きなんだ。俺に迫ってしまったなんて、キスしてしまったなんて、天野からすれば事故にもほどがある。 天野が酷い男じゃないということは、天野のあの行為は彼の意志ではないということを意味している。 優しくて俺にキスしない天野と、酷くて俺にキスする天野とどちらがいいのか、俺に選ぶ権利はないのに選べないことに混乱している。とんだ馬鹿じゃないか。 黙り込んだ俺に何を感じたのか、天野は少し慌てた様子で「普段はあそこまでじゃないんだ」と言った。珍しく早口だ。 「あんなに酷いことをしたのは初めてで。だから戸惑――いや、俺が言うのはおかしいよな」 途中で苦く笑って首を振る。「気にしてない」俺の口は勝手に動いていた。 「俺は気にしてないから。そりゃ、びっくりはしたけどさ。でも天野の方がつらいんだろ?」 「……だけど、泣かせてしまった」 「だ、だからそれは驚いたんだよ。気にしなくていいって。天野の方こそ大丈夫なのか?」 天野を呼び捨てにしている。俺達は今まで大して会話をしていないから、天野のことを名前で呼んだことなどなかったのに。頭の中でずっと天野と呼んでいたから、咄嗟に口から出るのもそうなった。 びっくりするぐらい、口先から嘘がぽんぽん出て来る。聞きたくない。俺への行為を天野がどう思ってるかなんて、そんなわかりきったことは聞きたくない。たとえそれが自責や俺への気遣いだとしても。 「俺の心配って……奇特だね」 天野は呆れと気恥ずかしさ、それから多分罪悪感の混じった顔を緩ませた。俺の頬が熱を持つ。必死さを気取られたかもしれない。頼む、ちょっと気遣いが行き過ぎたやつぐらいに思ってくれ。 そっと天野を窺うと、彼はすっと笑みを引っ込めた。それから僅かに硬い表情で俺を見据える。 「――でも、もしよかったらご飯は奢りたい。……もちろん、小竹君が嫌じゃなかったらだけど」 「嫌じゃないよ」 嫌なわけがない。むしろ浅ましく喜んでしまっている。 昨日同じ内容のメッセージを受け取った時は警戒したのに、今は嬉しさしかない。デート。凄い、本当にデートだ。天野から面と向かって誘われた。 違うだろ、天野は謝意を示したいだけだ、という冷静な声は声量が小さすぎて全然だめだ。 天野は小さく息を吐くと、「お店を調べて、また連絡する」と言った。 俺は何とか頷いて、軽く礼をして去って行く天野の背中を見つめた。ここに来る際に感じていた不安や何やらが、殆ど消え去っている。昨日あんなに混乱していたのが、嘘みたいだ。 しばらく夢見心地で立ち尽くしていたが、不意に気付いた。 (何着て行こう――それだけじゃない、何を喋れば) 天野とデート、その文字面にばかり気を取られ、その中身に考えが及んでいなかった。ど、どうしよう。今まで交際経験なんてない。ネットで調べるべきだろうか? でも、自分が男、相手も男の場合のアドバイスって、すんなり出て来てくれるんだろうか。 スマホを取り出し、ぎょっとする。昼休みがあと三分で終わろうとしていた。俺は大急ぎで校舎へと駆け戻った。

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