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第14話 コンドームの近藤さん
「先ほどは失礼しました。避妊具の近藤です」
誰か「は?」と言わなかった俺を褒めてほしい。どう考えても助詞で繋がりようのない固有名詞が繋がっている。避妊具と近藤。ヒニングとコンドウ。避妊具とコンドー……。
「えっあっ、コンドーム⁉」
「そうです」
素っ頓狂な声と共に近藤さんを指さしてしまったが、当の本人は鷹揚に頷くだけだ。
あの後近藤さんは藤さんの隣に腰を下ろし、俺と油崎とはL字のカウンターの短辺と長辺という不思議な位置関係になった。
「お前、オレの名前の由来何だと思ってたんだ」
「え? 油崎って……あ、油ってそういう⁉」
「今更かよ」
「いやいやいや待ってくれ、何、お前っていうローションの精だけじゃなかったのかよ⁉」
「別に私はコンドームの精というわけではありませんが……精……なのか……?」
なぜか近藤さんの方が考え込んでしまった。藤さんはその隣でにやにやしているだけだ。
油崎が呆れかえった調子でストローを弄る。
「逆に何でローションの精がいて、コンドームもそうだが他の精がいないと思えたんだ」
「え俺が悪いのこれ」
「で? そこの空見君? は何したのさ」
「誰もかれもがあなたと同じような不逞の輩だと思わないでもらえますか?」
からかうような笑みをそのままに問いかける藤さんを、近藤さんがぴしゃりと叩き切る。辛辣だ。この二人の関係は、つまり俺と油崎みたいなものなんだろうか?
「そうですね。不本意ですが、契約者に当たります」
「不本意って言うけどなコンちゃん、お前が勝手に契約したんだろうが。そっちから迫っといてそりゃないなあ」
「別に私が選んだんじゃない、あなたが色情狂だからこっちの判定に引っ掛かったんです!」
近藤さんの口から威力の高い単語が飛び出しすぎだ。さっきの蘭さんと藤さんの言い合いとは全く違う、容赦のなさが漂っている。蘭さんと言えば、鹿さんと一緒にカウンターの中から「仕方ないなあ」みたいな目線を送って来るだけだ。
驚いたことに、この油崎のお仲間らしい近藤さんの存在と正体は、蘭さんにも鹿さんにも知られているらしい。
何でも藤さんが、近藤さんが出現したその日に二人に紹介してしまったからだというのだから凄い。俺だったら考えられない。中村さんにも浅井にも相談できなかった俺には。よっぽど二人を信頼してるんだろうな……とちょっと胸を熱くしていると、違う違う、と蘭さんに手を振られた。
「なんか妙なところで思い切りがいい馬鹿なだけよ」
「とんだ言い様すぎないか」
「事実でしょう」
近藤さんから追撃を食らっても藤さんの余裕そうな態度は崩れない。苛立ちの一つも蟀谷に浮かばせないのだから、これはこれである意味尊敬できる。
「でもまさか、望美ちゃんの言ってたお友達がこいつと同じ境遇……同じ……じゃないのよね、コンちゃん? さっきこいつとは別、みたいなこと言ってたものね?」
蘭さんの顔が引き攣りかけるのに、近藤さんが「ええ、間違いなく」と大きく頷いている。ほっと表情を緩めた蘭さんが「そうよね、さすがにね」と繰り返せば、後ろから鹿さんが「ママ、その子高校生だしさすがにないでしょうよ」と苦く笑った。
快適な室温の中、俺はじんわり冷や汗をかいてきていた。
どうしよう。オナニーで死ぬって、相当まずい契約理由なんだろうか。高校生がオナニーしてて死ぬのはおかしいんだろうか。まあ確かに普通じゃないだろうけど。言いだしづらいにもほどがある。
……藤さんもオナニーしてて死んだのか? な、なんかそれはそれで想像がつかない。なんていうか、そういうちょっとかっこ悪いこととは縁がなさそうな雰囲気だ。
「そうか? 人は見かけによらないって言うしな。案外俺と同類だったりしないか」
「ありえないと言っているでしょう。第一、人に訊くより先に自分から情報を開示しなさい」
身を乗り出す藤さんを睨む近藤さん。親と息子、先生と生徒っぽくも見えてきた。そう言われちゃ仕方ないねえ、とコーヒーを一口啜る藤さんに、蘭さんが「教育に悪い……」と額を片手で覆った。そこまで言われるなんて、やっぱりオナって死んだなんて実は相当――
「ゴムなし百人斬りに挑んでたんだ」
かちゃ、と上品な音を立ててコーヒーカップがソーサ―に座った。――何て?
「だから、百人斬り。血を見る方じゃないぞ、R18Gに興味はないし、Gが外れても出血させるような真似はしない」
「ドヤってんじゃないわよ」
「だが、いざ百人目というところでこいつの邪魔が入った」
こいつ、のところで近藤さんを指す。
「そんで俺は、百人とゴムありでヤるまでこいつと契約解除できなくなっちまったんだ」
「感謝してほしいぐらいですけどね」
「出てきていきなり張り手はなかったんじゃないかコンちゃん。暴力はよくないぜ」
「あなたを止めるにはあれが最速と判断しました」
「出来の悪いAIみたいになってるぞ」
また藤さんと近藤さんが口での殴り合いを始めてしまった。
そんなことを考える余裕があるほど、俺は全然話を飲み込めていなかった。ひゃくにんぎり? え? オナニーで死んだんじゃなくて?「オレ達は」大混乱に陥っている俺の耳に、近藤さんが現れてからずっと静かだった油崎の声が入り込んでくる。
「オレ達は、それぞれが人間と契約するトリガーを持ってる。オレにはオレの、あいつにはあいつの、固有のトリガーがある。オレはあの藤って奴が百人目とヤろうとする現場に現れることはないし、あいつもお前がオナって死んだ場面に現れはしない。実際、お前のオナニーセットにはゴムもあっただろ」
そう言えば、そうだ。確かに俺の秘密セットにはゴムもあった。近藤さんが油崎のような存在だとしたら、そのゴムから現れていてもおかしくはない。でも出てこなかった。ていうかオナニーセット言うな。
「トリガーが違うから、生じる効果も違う。あいつがやたら否定しまくってたのはそういうことだ」
「成程なあ。そんな仕組みなのか。……それはそれとして、信じがたい言葉が聞こえたからもう一回言ってもらってもいい? すんごい物騒な単語っぽかったけど気のせいだよな?」
やり合っていたはずの藤さんと近藤さんの顔が、いつの間にかこっちを向いていた。藤さんはひっそり窺うような、近藤さんは目頭に力を込めた何とも言えない表情で俺達を見ている。
「え、ええと……」
どうしよう。言うのは恥ずかしい。でも、藤さんは自分の契約理由を話してくれたわけだし……。第一、俺はここに明日の相談だけじゃなく、変態エネルギー回収の糸口を探しに来たんだ。近藤さんと藤さんというお仲間に相談できるのはきっと大きいはずだ。
……それに、藤さんの話のインパクトが大きすぎて俺の話なんか薄れる……かも、しれないし。
「実は――お、オナニーしてたら、死んじゃったんですけど、こいつが――まあその、生き返らせてくれて」
藤さんと近藤さんが真顔になった。左からも視線を感じて振り仰げば、蘭さんと鹿さんが仕込みの手を止めて口をぽっかり開けている。
――駄目だったようだ。
「……まあ、そうなるよな」
油崎だけが冷静だ。わかってたんなら止めてくれ。俺がアホみたいじゃないか。
「しっ……えっ……え⁉」
鹿さんは目を白黒させ、蘭さんは完全にフリーズしてしまっている。
「お前、俺が死んだら生き返らせられる?」
「……まあ、私がそういう風になっていたらできるでしょうけど」
「今は?」
「無理ですね」
藤さんと近藤さんの会話がむしろありがたい。
近藤さんはちらと油崎を横目で見やると「あなた」と何かを言いかけてやめる。油崎の顔の僅かな上下から、目で先を止めたことがわかった。
「……すごい、ファンタジーと言うか、魔法なのね」
何とか復旧した蘭さんに、油崎は「違いない」と他人事のように返す。この調子だと復活方法とかは言わない方がよさそうだ。いらない混乱と動揺、もしかしたらからかいを生むかもしれないし。
「つまり油崎君? は、空見君の命の恩人だと。聞くだに契約解除条件は厳しそうだが、どうなんだ?」
「あー……それがここに来たもう一つの理由というか。……変態エネルギーを集めないといけないんです」
「へん……何だそりゃ凄い名前だな」
ぱちくりと藤さんの瞼が上下する。いや俺が考えたんじゃなくて! と言い募る俺の横で油崎が震えながらカウンターに突っ伏した。おい名付け親。
ええとだから、人間には二本ゲージがあって、カルマゲージとムラムラゲージ……いやいやネーミングセンスは俺じゃなくてこいつのです! わたわたするほど滑っていく感覚に陥る。顔が熱い。何でもっと冷静に話せないんだ俺は。大真面目に話すのが難しい内容ではあるけれど。
「ああ、もしかして『性癖メーター』と『色情メーター』のこと言ってる?」
「へ……何ですかそれ」
ぽん、と手を打った藤さんは「こいつが言ってた」と近藤さんを指さした。「人を指ささない」と即行ではたき落とされていたが。
近藤さんが溜息を吐く。
「あまりセンスに口出すものではないとは思いますが、あなたなんて名前をつけてるんですか。人前で出しにくい名前にするのは悪手だと思いますけど」
「人前で出すってどんな時だよ。ないだろ普通」
「こういう時ですよ、空見さん恥ずかしがってるでしょあれ」
「お前らとエンカウントする予定なかったんだよ」
窘める近藤さんは兄、油崎が弟みたいだ。
確かにカルマだのムラムラだのに比べれば、性癖と色情の方がまだマシだ。特に色情が式場に聞こえるところがいい。
現在の俺の体の仕組みと変態エネルギーについて、油崎の茶々も入りつつ説明すると、藤さんは随分感心したようだった。
「はー、そんな機能があったのか。てっきり性癖と欲望の博覧会だとばかり」
「認識自体は間違ってませんよ。あなたとの契約において特に意味がなかったので伝えていなかっただけです」
「成程なあ……」耳たぶを摘まみかけた手を藤さんはそっと下ろした。「……おや、気にするんですね」
「いたいけな高校生の前だし、一応な」
「さっきあれだけ暴露しておきながら……第一、いつもやっておきなさいと言ったじゃないですか」
「お前が暴露させたんだろうが。いつもはいらないだろ、さっきの油崎君じゃないけど遭遇予定なかったんだから」
「やだもー、度肝抜かれまくりだわ、すんごい日ね今日」
蘭さんはコップに水を汲むと、ごきゅごきゅ喉を鳴らしながら一息に飲み干した。俺も同じ気持ちだったが、恋バナの相談をされるだけだと思っていた蘭さん達の方が衝撃度合いは上だっただろう、とすみませんの気持ちで頭を下げておいた。
「でもなんか賑やかになって楽しいじゃん」
鹿さんは鍋を混ぜながら何だか嬉しそうだ。一番順応しているかもしれない。
「それは間違いないわね。ところで空見くんの当初の来店目的は変わってないのよね?」
「え? あ、はい」
「よかったー、やーっと聞けるわー」
「なんかすいません……」
「いいのよ、半分は事故、半分はこいつのせいだから」
「何、俺の悪口?」
ひょいと藤さんが入って来る。そうよ、とにべもなく言ってから、でもねえ……と蘭さんは苦虫を嚙み潰したような顔になった。「アドバイスに関してはこいつが一番適任なのよね……」
「へえ、落としたいやつでもいるのか? 男? 女?」
「あんたマジで話聞いてないわねほんと」
「男」
「何でお前が答えてるんだよ!」
勝手に答えた油崎が、ぢゅーっとオレンジジュースを吸い上げる。
「油崎君も知ってる人なの?」
「この前見た」
ローションボトル越しに、と油崎の含みが聞こえるようだ。頼むからいらないことを言わないでほしい。何で俺より話してるんだこいつは。
「クラスメイトでイケメンで、ドーナツが好きで人間に優しくて、もう大好きなんだよな?」
だから何でお前が話すんだよ! 薄い笑みが憎らしい。あと最後のはいらん恥ずかしい!
「ほー」
「あらあらあらあら」
「純ですね。いいと思います」
「可愛いなあ~」
熱い。耳まで熱い。中村さんに話すのとはまた別の恥ずかしさがある。俺を見る目が保護者っぽいからかもしれない。うう……でもここを乗り越えなきゃ明日のデートに立ち向かえない……。
「明日、お昼ごはんを一緒に食べることになって……だから、何着てったらいいかとか、話題とかアドバイスあったら、その……」
「あーもー可愛い! あたしもこんな頃あったわー」
「何世紀遡るのやら」
「聞こえてるわよ!」
俺のどんどん小さくなる声に被さる蘭さんと、おちょくる藤さん。なんだか、俺も鹿さんの気分がわかって来た。確かにちょっと楽しい。こんな話ができる相手、今までいなかったから。
「でもまずは、その愛しの彼のことを知らなきゃアドバイスも何もないからなあ」
「そうね。さ、空見くん」
「えっ」
「惚気ればいいんだよ、惚気れば」
ずいずい藤さんと蘭さんが迫る。鹿さんがさらっと言うが、まだ惚気るような関係性にはなっていない。「そこは気分よ!」……蘭さんが逞しい。
「え、えっと、ええと……」
押される俺に近藤さんが諦めろという目をする。油崎は、珍しくにやにやしていなかった。あの苛つく顔をしなければ、わりに幼く見える。油崎もちょっと楽しいんだろうと思うと、まあいいかと思えた。
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