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第29話

「桐生は、知ってたんだろう?」  掠れた声はまだ戻らない。ハスキーとは違うガラガラ声だ。 「無理に喋らなくていいぞ」  社外に仕事で出ていた桐生が遅いランチを食べるのに一緒にオフィスを出てきた。オフィスビルの向かいにはオープンテラスのダイナーがある。僕は和人に渡されたスープジャーに入れられた雑炊を食べている。  手元のタブレットには先日和人が見せてくれた新規オープンのレストランの資料が表示されている。それを桐生に見せると、「和人兄が言ったのか?」と確認されて頷いた。 『書類は見せてもらったし、会計とかを修正した』 「もう仕事してるのか?」 『違う。ちょっと見てくれって頼まれた』  仕事してるのかってどういうことだ。 「和人兄ものんびりしてるんだな」  桐生はコーヒーを口に運ぶ。 「肝心なお前にはまだ何も言い出せてないのか?」 『何のことだ。僕は和人が向こうを引き払って店を開くとしか聞いてない』  僕に店のマネージャーをしてくれないかとは言ったけど、それも返事はいつでもいいと言って強引な誘いじゃなかった。 「第二秘書はよくやってくれるし、うちの会社には会計士は他にもいる。お前が和人兄とやりたいなら俺はそれを後押ししてもいい」  桐生の表情は真剣だ。和人から話は聞いているんだと分かった。  僕が今までしてきた仕事も他の人が請け負うことができる。僕が仕事を抜けてもいいということだ。 「新しい店のことは和人兄に直接聞いた方がいい。俺から話したって言ったら絶対機嫌が悪いぞ」 『分かった。直接聞いてみるよ』  和人は僕を桐生の家に送ってから仕事に行った。仕事とは言っているけど、新規事業なら個人的なことで、今までの仕事はどうしているのんだろうと心配になった。 『和人は仕事は大丈夫なのか?』 「和人兄はフリーランスだからな。毎日出社する必要もないし、どこでだって仕事はできるんだよ」  プロデューサーと言っていたのはそういうことなのかと納得した。 「お前が俺の元に残るならこれまで通りだし、和人兄のところに行くなら止めない。お前が自分で決めたらいい」 「分かった」  声を聞いて、「早く治るといいな」と桐生は笑った。

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