3 / 4

第3話

「悪ふざけじゃなきゃ、嫌がらせだろ」 「光はそう受け止めたんだ」 翔は氷のように表情を固めたままでそう言った。 俺には、こいつが何を考えているのかさっぱりわからない。 でも、開けてはいけないものの蓋を開けてしまったのではないか、という気がしていた。 翔は、それをこじあけようとしているのではないか。 開けてしまってはいけない箱。中身は見えない。とりかえしのつかなくなることになるとだけ、わかっている。 俺は、急に、怖くなった。逃げ腰になる。 何とか、ここをやりすごさなければいけない。無理やり口を開いた。 「……え、へへ。何か、怒らせた?」 つうか、でも、怒りたいのは、こっちだよね? 何で睨む? 「光は、何もわかってない」 絞り出すような声。 げ、こええー。 どうすれば、そんな怖い声出るの? ノドで腹筋? 「……何がだよ。はっきり言えよ」 そう言いながらも、はっきりさせるのが怖くなっていた。 これ以上、翔と関わると、とんでもないことになりそうだ。頭で危険信号が鳴っている。 翔は、何かを言いかけようとしたまま、黙り込んだ。 その睨みつける目は、怒っているというよりも、暗く翳っている。 「翔……。お前、何か悩みでもあんのか?」 そんな言葉が口から出てしまっていた。 幼いころ、まだ小さくて、俺の後ばかり追いかけていたころの翔。とても小さかった翔。 普段は俺を小馬鹿にする翔に、弱さを、垣間見た気がした。 「大丈夫か?」 俺の問いに、翔は、俺をじっと見たあと、俺の腕を突き放した。 「早く出て行け。俺の部屋が、イカ臭くなる」 いつもの小馬鹿にした口調に戻っている。 「何だよ、翔のせいだろ」 俺もつい言い返して、立ち上がった。 「初デート楽しみだな。捨てられないようにしろよ。次はないかもしれないもんな」 背後に、からかう声。いつもの声に安心する。 「うるせー」 俺は、ドアを乱暴に閉めた。 俺は、こそこそと洗面所に降りて、脱衣所で着替えると、濡れた下着を見下ろした。 なんでこんなことになってしまったのだろう。 やばいな。おばさんに見つかると恥ずかしい。 絶対、俺、いろいろと、疑われる。 いや、やってるよ。いろいろ、やってるよ。年頃だもん、やるだろ、ふつー。でも、下着を汚すのは、ナイよな。始末の仕方知らないガキじゃないんだから。 何で、俺がこんなかっこ悪い思いしなきゃなんないんだよ。 あんたの息子が悪いんだ、とは絶対に言えないし。 洗わないとモロだし、洗うのも怪しいし。でも、洗わないわけにはいかないだろ、やっぱ。 ジュースでもこぼしたことにするしかないか。 明日の約束どうしよう? 行く場所決めておかなきゃ。映画とか、時間調べないとな。 いろいろ考えながら、ふと、鏡に映る自分の顔を見た。 心なしか、唇が、いつもより赤い。あいつに吸われて腫れたのか? 翔の唇が触れて、舌が入ってきた俺の唇。 あいつ、俺の首にも、胸元にもキスしてきた。 留めているシャツのボタンをはずして、直接肌に触ってきた。あんな触り方で。 いつの間にか、鏡の中で、俺の顔が変な顔になってる。ああ、エロ妄想、爆発させるときの俺って、こんな顔してるんだ。 何で、自分の顔見て、恥ずかしがってんだ。 下着を洗い終えて、俺は、手で水をすくった。 口の中も洗っておこう。 何で、今頃、気づくんだ、さっさと洗っとけよ。気持ちの悪い。 俺は、翔が残していった唾液を吐き出すために、必死で、口をゆすいだ。 必死で口をゆすがなければ、何か、いけないだろ、こういうときは。じゃないと、おかしいだろ。 あれ、そしたらあいつも必死でゆすがなきゃなんないんじゃないの? あーもう疲れた。 翌朝、財布を取り出して、中から、銀色の小さな包みを取り出してじっと見た。中の液が漏れないようになっていて、薄ければ薄いほどイイ?みたいなアレ。イボつきだったり、潤滑剤ついてるのもあるが、これは、そんなオヤジが好きそうなものじゃない、世界エイズデーに、街角でティッシュと一緒に押し付けられたもの。 こんなの、持ってたら、一花ちゃん、引くよな。でも、もしもそういう流れになったら、「あ、忘れた」なんてあまりにも残念だし。まさか、清純な彼女が持っているとは思えないし。でも、清純派だから、そこまでの展開は、ありえないし。だが、でも、もしもってこともあるし。 いろいろ考えて、一応持っていくことにした。で、財布の中身が空なことに気づく。 げ、これ、財布が、○ンドーム入れになってるだけじゃん。 どうしよう。今月発売のゲームのせいで、ピンチなことを忘れてた。おばさんに借りようか。でも、休日出勤とかで、さっき出て行ったっけ。 うそだろ? 翔、まだいるかな。金、貸してくれるかな。 廊下に出て見て、まだ部屋にいるらしい気配を感じ、部屋をノックする。 ドアを開けると、中は、薄暗いままだった。 あれ、いないのか。 部屋を見回すと、翔はベッドに寝転がっていた。 「どうした? 具合悪いのか?」 今日も部活があるだろうに。いつもはもっと早く家を出ている。 俺は、少し心配になって、そばに寄った。 寝ころんだ背中は、きちんと着替えているし、机の上には、部活の用意をしたバッグが置いてある。 「何? キスの特訓?」 声もいつもと同じで、安心した俺は、翔の後頭を小突いて言い返す。 「違うわッ。つうか、金持ってない?」 「持ってるけど、貸さねー」 やはり、憎たらしい奴。 「ケチ」 翔は、背中を向けたまま尋ねてきた。 「お前さ、その女のこと、好きなの?」 「え? 一花ちゃんのこと? そりゃ、好きだよ。彼女のことを好きじゃない男、俺の学校には、1パーセント未満だ。俺は常に多数派だ」 「もし、他の奴が、お前のことを好きだって言っても、間違いなくその女を選べるの?」 俺を好きだと言ってくる珍しい奴などそうそういないだろうが、一応、喋ったことのある女子を思い浮かべる。多分、一花ちゃんが一番だ。一花ちゃんが、希少種で本当によかった。 「まあね」 「断言できないなら、行くなよ」 何で? 何で、お前に、そんなこと言われなきゃいけないんだよう、え? 俺は、何か言い放ってやりたかったが、薄暗い部屋の中、翔の表情は見えないが、低く囁く声には、俺に絡みつくような力があった。 「お前に関係ないだろ?」 他人の恋路を邪魔して、何が楽しいんだ? ホント、根性腐ってるやつ。自分はモテるくせに。 「関係なくない」 その声には、どこかしら、俺を戸惑わせる響きがあった。 俺の恋愛を邪魔したいのなら、どうして、もっといじわるな口調で叩きのめさないんだよ、こいつ。 「デートになんか行くな、光。そんな女のものになんか、なるな」 え? はい? 翔は、不意に起き上がり、俺の手を掴んできた。ぐいと引っ張られて、俺は、バランスを失って、翔に倒れこむ。倒れ込んだ俺を、翔は、引き寄せて、胸の中に拘束した。翔の匂いに包まれる。そして何だか安心してしまう俺。 はいぃぃ? 昨日感じた危険信号が、急に、頭の中に浮かんできた。俺は、間抜けなことに、開けてはいけない蓋を、またもや無防備に開けてしまったのではないか。 翔が、急に怖いと感じる。 でも、振りはらうこともできない。 どうして、抱きしめたりする? 俺たち子どもじゃ、ないんだぜ? くっつきあって遊んだのは、もう昔のことだろう? こんな風に抱きしめてくるのって、変だろ? 「離せよ」 次第に早鐘を打つ自分の心音を、これ以上聞きたくない。何か喋らねば。喋ってしゃべって喋りまくらねば。 だが、何を言えばいいんだよ。 翔は、そのまま、俺を、翔のベッドに倒して、のしかかってきた。 「な、何だよ、これ。また、昨日みたいなことするつもり? ふざけんな」 心臓の拍動が高まっている。怖いせいだ。おい、年上を怖がらせんな。 「ふざけてない」 翔は、上体を起こし、俺を、真上から見下ろした。 そして、驚くようなことを真顔で言った。 「光、好きだ。ずっと前から、好きだ。誰よりも好きだ」 い? これは、素直に、ありがとう、と言っていいのか。 俺は、翔の低い声を聞きながら、記憶に何か蘇るものを感じていた。 ああ、そうだ。前にも、こんなことがあった。 俺は、長いこと、忘れたふりをしていたのではなかったか。 小さい頃、俺から僅かばかりも離れようとしなかった翔。俺にしがみついて離さない様は、お気に入りの毛布を離さないのと同じだった。それがないと、夜も寝られない。肌身離さず持ち歩かないと安心できない。 光お兄ちゃん、好き。光お兄ちゃんは、僕のだ。 子どもらしい素直な表現で、独占欲を示してきた。俺もまた、翔といるのが当たり前で、二人でいつもくっついていた。 いつのころからか、翔の独占欲に支配されそうになる自分の心が不安になり、無意識のうちに、親戚の集まりを避けていた時期がなかったか。冠婚葬祭で会うたびに、俺を捕える翔の眼差しに、胸をギュッとつかまれたような気がして、それに縛られるのが怖くて、目をそらしたことはなかったか。 「光、お前も、俺が好きだろ? 俺は、お前をずっと避けてたのに、どうして、昨日、俺の部屋に入ってきた? 彼女を自慢するためじゃないんだろ? 俺に引きとめてもらうためだろ?」 そうなのか? いや、違う。俺は、確かに、自慢しようと思っていた。俺は、翔が気に食わなかっただけだ。 「俺のものになれ、光。光お兄ちゃんは、翔ちゃんのもの、そうだろ?」 翔は、わざと、子ども時代を想起させる言葉を吐いた。 ――まるで光ちゃんは、翔ちゃんのものね。 小さな俺たちに向かって、いつも周りの大人が、微笑ましそうに言った言葉。 俺を見る翔の目を見ていると翔に吸い込まれそうになる。 翔が怖い。逃げなきゃ、と思うのに、足ががくがく震えて抵抗できない。今から翔にどうしようもないことをされるのではないかという恐怖が沸き起こる。 「やめろ……翔」 翔は、いきなり、俺から離れて、俺の横に寝そべると背中を向けて、丸くなった。 ククク……。 低い声が漏れる。 翔? 次第に、その声は大きくなる。 笑い声だった。

ともだちにシェアしよう!