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#1「とんだお人好し」 ⑧
頭が真っ白になった。
遥ちゃんに見られてしまった。こいつとの関係。
「泉くん…雨宮くん…、何してるの…?」
「違う! 遥ちゃん! これはその…」
「私と雨宮くんが付き合ってるって話したよね? 泉くん…」
「違うんだって! 誤解! 誤解だから!」
「こんな状況で…誤解も何もないでしょ…」
雨宮が口を挟む。
「僕が好きなのは泉くんなの。遥ちゃんが告白してきたときは断ろうと思ったけど、それだと仲の良い泉くんとくっつきかねないから。泉くんが遥ちゃんと付き合うなんて絶対許せない。泉くんは一生僕とだけセックスしてればいいの」
「お前何言って…、遥ちゃんごめん、今謝らせるから…」
「…私のこと騙して付き合ってたってこと? 雨宮くん…」
「そうだよ」
「……っ!」
遥ちゃんが泣き出す。そのまま走って教室を出て行ってしまった。
「遥ちゃん!」
「駄目、行かないで」
雨宮が俺の服にしがみつく。
「離せ! 大体お前が悪いんだよ! 遥ちゃんに謝ってこい!」
「どうせまともに取り合ってくれないよ。こんなとこ見られちゃったんだから。もちろん君も、もう相手にされないと思うよ。運が悪かったね。こんなタイミングで好きな子が現れるなんて。まあ、ここに来るように連絡したのは僕なんだけど」
「お前…、マジでふざけんなよ…」
「…目障りだった。あの女がずっと泉くんの横にいるから。他にもたくさん友達がいるのに、泉くんに思わせぶりな態度ばっかとって。その上僕にすっごいアプローチしてくるしさぁ…。とんだクソビッチだよ。大っ嫌いだよ、あんな女」
聞くに耐えない侮辱の言葉を絶えず並べる雨宮。
頭に血が上った俺は、咄嗟に雨宮の頬を思い切り叩いてしまった。
「うっ…!」
雨宮が床に倒れ込む。頬が赤く腫れ上がり、鼻からは血が垂れていた。自分の手のひらもジンジンと痺れている。
相手に怪我をさせてしまった事と、思わず手が出てしまった事で頭が混乱し、掛ける言葉がすぐに浮かばずただ呆然と立ち尽くす。雨宮も、あまりの衝撃と痛みで放心している様子だった。
本来ならすぐに謝るべき場面だろう。だがつい先程起こった出来事を考えると、素直に心配し、謝罪する事が出来なかった。
「…絶対に許さないからな。お前のこと」
雨宮を放置し、遥ちゃんの後を追いかけた。
「待って! 遥ちゃん!」
俺の呼び掛けに反応し、立ち止まる遥ちゃん。振り返ったその顔は大量の涙で濡れていた。
嗚咽が止まらない様子を見るに、とても話し合える状態ではない。
号泣している様を見て、取り返しのつかない事をしてしまったと痛感した。狼狽えて言葉に詰まっている俺から目を逸らし、遥ちゃんは早々に立ち去ってしまった。
◆
終わった。なにもかも。
遥ちゃんに雨宮とキスしているところを見られてしまった。遥ちゃんを傷つけてしまった。怒りに身を任せ、雨宮を本気で殴ってしまった。
築いた交友関係を一瞬のうちに失い、平穏に過ごせると思っていた大学生活は、夏季休暇を待たぬまま崩れ去ってしまった。
気分が重い。吐き気がする。とても授業どころではない。今日は二人と会う火曜日。教室の前に来たところで足が動かなくなり、立ち往生する。
…やはりダメだ。まともに授業を受けられる気がしない。踵を返したその時、遥ちゃんが女友達と楽しそうに話しながら向かってくるのが見えた。思わず立ち止まる。立ち止まるが…。
いつもは挨拶をしてくれた遥ちゃんだったが、俺の顔を見るなり笑顔が消え、目を逸らし、横を通り過ぎていった。
その瞬間、世界から取り糺された感覚に陥った。たった一人の友達に絶交されることがこんなにも辛いものだったなんて。
そう。たった一人だった。大学で俺と関わってくれた友達は、遥ちゃんただ一人。
泣きたいのを堪え、校門へと向かう。すると、校門の向こうから黒い影が向かってくるのが見えた。雨宮だった。…雨宮ともあんなことがあったんだ。もう流石に関わってこないだろう。そのまま通り過ぎようとしたその時。
「あれ、帰るの」
雨宮が声を掛けてきた。
「単位平気なの?」
「…」
「まあ留年はしないように気をつけてよ」
雨宮はそう言って、早々に俺の横を通り過ぎて行った。
まだ関わってくる。まだ話しかけてくる。何も残っていないこの俺に、唯一気を掛けてくれた。自分に怪我を負わせた人間に対して、何故何事もなかったかのように接してくるんだ?
俺は振り返って、雨宮を追いかけた。
「雨宮…」
歩みを止めて、こちらを振り返る雨宮。
「…どした? 泉くん」
雨宮の頬には、小さな傷跡が付いていた。一度叩いだだけで傷を負わせてしまうなんて。罪悪感が俺を苛む。
「あのさ、お前…、あの時のこと、忘れたわけじゃないよな?」
「…あの時のこと?」
「…お前のこと、思いっきり殴っただろ。怪我させたのに…気にしてないのか?」
「…気にしてるっていうか、まあ、すごい痛かったし、ちょっと怖かったかな」
「…それだけ? そんなことされたら普通嫌いにならないか? なんでまだ関わってくるんだよ?」
「嫌いにならないよ。僕泉くんのこと好きだもん。泉くんも、僕のこと友達だって言ってくれてたじゃん」
「……」
特に気にしている素振りを見せない雨宮に、思わず言葉が詰まる。俺が気にしすぎてるだけなのか…?
「泉くんは僕のこと好き?」
「……!」
「…嫌い?」
…何も答えることが出来ない。こいつが一体何を考えているのかが全くわからず、自分の思考もまとまらなくなってくる。
好きかと問われて、肯定も否定も出来なかった。こいつは遥ちゃんを騙し、裏切り、傷つけ、俺と遥ちゃんの仲を掻き乱した張本人だ。自分勝手で人の気持ちを考慮しない、はっきり言って最低な人間だと思う。なのにどこか無邪気な、子供の様な面も見せてくる。掴み所のない人間性に、抱く感情も複雑化してくる。
殺してやりたいと思った。怒りに身を任せて思い切り顔を打 ってしまった。それくらい憎悪を抱いていたはずだ。それなのに、何故か雨宮を無視することが出来ない。
「…泉くん、どうしたの? 黙りこくっちゃって。ていうかさ、もう授業始まっちゃってるよ。遅刻だけど一応出席はしとこうよ」
そういって俺の手を引く雨宮。雨宮に連れられるまま、俺は出ないつもりだった授業の教室へと向かった。
誰も居ない廊下を二人で歩く。
教室へ着くと生徒は皆席に着いており、教授が教卓の上で講義をしている最中だった。その中に二人でこっそり入り、扉付近の一番後ろの席へ並んで座った。ふと、別の列の前方の席に遥ちゃんが座っているのを見つけた。先週まで二人で並んで座っていたはずなのに、今日の席はあまりにも遠く、関係性の決裂をひどく痛感した。
横に目をやると、雨宮もこちらを見ており、目があうとニヤリと笑った。
◆
「ねえ、なんでさっき帰ろうとしてたの?」
授業が終わるや否や、雨宮が俺に問いかける。
「…体調、悪かったから…」
「そうなの? 今は大丈夫?」
「…うん…」
帰ろうとしていたのは、昨日の遥ちゃんと雨宮のことで気まずくなり、行きにくさを感じていたからだ。なのに何故こいつは、昨日の事など何もなかったかのように、こんなに平然としているのだろうか。
ふと前方を見ると、遥ちゃんが友達と教室を後にする姿が目に入ってきた。ついつい目で後を追いかけてしまう。昨日まで何気なく会話していたはずなのに、こんな形になるとは思ってもいなかった。
すると、目の前にコートを羽織った身体が立ち塞がった。顔を上げると、俺の頭を見下ろす雨宮の顔が目に入ってきた。
「遥ちゃんのこと気になる?」
俺のことを見下ろした状態で、雨宮が話しかける。
「…は?」
「だって今日一緒に授業受けてないし。もしかして拒絶されちゃった?」
「いや、元はと言えばお前が…!」
「じゃあさ、今度から僕と二人で授業受けようよ」
「…え?」
「そんでさ、昼ご飯とかも一緒に食べようよ。放課後とかも一緒に帰ったりとか。都合良ければでいいんだけど」
「あ、えっと」
「だってさ、友達だから。いいよね?」
「……」
「じゃあ、またね」
俺に有無を言わさず、雨宮は立ち去っていった。
肯定も否定もできず、半ば強引に大学生活を共に過ごすことになった。普通なら友人と共に学校生活を謳歌するのは悪いことではないはずなのに、やはり引っ掛かりを感じる。
雨宮のせいで、今まで仲良くしていた遥ちゃんと関われなくなってしまった。
雨宮のしたことが許せないはずなのに、それでも雨宮と絶交してしまうのはどうしても気が引けた。雨宮からの好意を無下にするのは悪いと思っているのか。
それとも、独りになってしまうことを恐れているのか。
次の授業を受けている最中にも、あの二人のことが頭からずっと離れなかった。
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