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#5「都合のいい二人」 ④

 九月上旬。長い事暑い日が続いていたが、今日は久しぶりに大雨が降っていた。  時刻は午後四時。特にする事もなく、一人で求人サイトや動画サイトなどを見ながら暇つぶしをしていた。   雨宮が俺の部屋に押しかけてきてから約一ヶ月半。ずっと二人で過ごしていたが、今日は雨宮がバイトの面接があると言い、昼頃から出かけていた。家を出た時には雨は降っていなかったので、傘を持っていかなかった雨宮は今頃ずぶ濡れになっているかもしれない。  …という事に気が付いた数秒後にチャイムが鳴った。ドアを開けると、案の定ずぶ濡れになった雨宮が立っていた。 「…おかえり」 「…めっちゃ濡れた。最悪…」  雨宮が風呂に入っている間に、ずぶ濡れになったコートをハンガーにかけて干してあげた。  海に行った時に外で初めてコートを脱げた雨宮だったが、やはりまだ急にはコート無しで外を出歩くことが出来ないようだ。雨宮曰く、マスク依存症と似たようなものらしい。俺にはマスク依存症の気持ちもコートへの依存も理解できないが、他人がとやかく言ってすぐに治るものではない、ということだけはわかる。 「あ、コート掛けてくれたの。ありがとう」  風呂から上がった雨宮が、タオルで髪を拭きながら礼を言った。 「今日の面接はどうだったんだ?」 「うーん、わかんない。いつも通りって感じ」  雨宮は俺との約束通り、バイトを探すのに専念してくれているようだ。だが、片っ端から気になった求人の面接を受けても、一向にどこにも引っかからないらしい。今日の面接もこれで三回目だ。 「手応え無いし、また落ちるだろうなあ」 「いやまだ三つ目だろ…。そんな気にすんなって」 「普通面接ってこんな短期間で複数受けるもんなの?」 「いや、それはわかんないけど…」  雨宮は半袖の服を一着も持っていないので、俺の服をいくつか貸してあげている。体格があまりにも違いすぎるので、当然サイズは合っておらずブカブカだ。半袖Tシャツのはずなのに、肘下くらいまで袖がある。所謂オーバーサイズのような着こなしになっている。  髪を乾かし終えた雨宮が俺の右隣へ座った。 「何してたの?」 「なんか、テキトーに動画見てた」 「ふーん」  スマホの動画をぼんやりと眺める雨宮。  そんな雨宮のTシャツの袖から覗く、左腕の切り傷。会った当初から変わらず、消える事なく傷痕として残っている。  …やはり、どうしても気になってしまう。  俺と雨宮は今、恋人同士だ。恋人になったあの日、雨宮の事をもっと話してくれと、そう言った覚えがある。  だがしかし…。恋人だからと言って何でもかんでも聞いて良い理由にはなるのか? たとえ家族や友人や恋人であろうと、言いたくない事が一つや二つ、あったって良いはずだ。  だが…、好奇心と言ってしまうと不謹慎かもしれないが、雨宮についてもっと知る為には、この傷について知るのが手っ取り早いと思ってしまった。 「…あの、前から気になってたんだけど」 「んー?」  動画から少し目を逸らし、こちらを見る雨宮。 「あ、いや、別に、聞かれるのが嫌なら答えなくてもいいんだけど」 「うん、何?」 「あの…、その、腕の…」 「ああ、これ?」  雨宮が袖を捲って見せた。肘付近の無数の傷痕が、室内の蛍光灯によって明るく照らされる。 「これは…なんで、こんな…」 「えっと、自分で切ったやつ」  あっさりと答える雨宮に、少し拍子抜けてしまいそうになった。 「これって…所謂、自傷だよな」 「うん、そうだよ」 「…死にたかったのか?」 「まさか、こんなんで死ぬわけないじゃん。普通自殺する時ってこっち切らない?」  そう言って手首を指さす雨宮。言われてみれば、雨宮の手首には傷は一つも無い。傷があるのは、長袖を着たらすっぽり隠れてしまう、肘付近の二の腕だった。 「じゃあ何のためにこんな事したんだ?」 「何のために…、うーん、わかんない。イライラしたらやりたくなるんだよね」  雨宮は視線を下に向け、腕の傷を指でなぞった。 「何かにイライラしたり怒ったりしてもさ…、基本的に人に八つ当たりとかしたくないんだよ。でもどうしてもイライラするからさ、なんとなく切ってみたら、クセになっちゃって。でもこういうのを人に見られて心配されたり、引かれたりしたいわけではないから、長袖を着たらちゃんと隠れるように手首辺りを切るのはやめておいた」  雨宮が淡々と自傷をした経緯について話す。死にたいわけでもなく、誰かに心配されたかったわけでもなく、ただ単に感情の捌け口にする為だけに傷をつけたらしい。 「…理解できない」 「だろうね。僕だってわかんない」  雨宮が伏せ目がちになった。理由を聞いたところで、自傷する心理を理解する事は困難だった。それは聞く前から分かりきっていた事だ。  それでも、話を聞きたいと思った。きっと言葉で表現しようのない、形容し難い感情を抱えているのだろう。 「…痛かったか?」 「…いや、別に。だってさ、見てわかるでしょ。全然深くないよ、こんな傷。剃刀を腕に当てがってもさ、やっぱ思うように力入んないよ。結局死ぬ気なんかさらさらなかったってことだよ」 「…でも、辛かったからやったんじゃないのか?」 「それはそうだね。…人に当たろうとせず、自分に刃物を向けたのは、結局自分が一番嫌いだったんだよ」  雨宮が俺の顔をじっと見つめた。 「でも…浩樹くん、浩樹くんにはさ、僕結構感情的になっちゃってたよね? 人に当たりたくないとか言っておいてさ、浩樹くんには散々わがまま言ったり怒ったりしてたんだなって、浩樹くんに叱られて初めて気が付いた」  次第に雨宮の目に涙が溜まってきた。 「こんなに感情が抑えられなくなったの、浩樹くんと出会ってからかもしれない」 「…出会った当初のお前はこんなに泣き虫じゃなかったもんな」 「うん。浩樹くんのことを思うと、愛しすぎて涙が出る」  涙が雨宮の頬を伝う。 「…こうやってすぐ泣くのって、やっぱウザいかな」 「…別に、泣きたい時は泣いて良いんじゃないの?」 「男のクセに、とか思わないの?」 「思わねえよ。そもそもそんな考え方自体もう時代遅れだろ」 「…ふふ、優しいんだね。自傷の痕も、怒られるんじゃないかと思ってたんだけど」 「…なんで俺が怒るんだよ」 「だって自分でも馬鹿な事したなってわかってるもん。メンヘラだって言ってバカにしたりする?」 「するわけねえだろ。何言ってんだよお前さっきから…」 「…別の男には言われたことあるけどね。メンヘラとか女々しいとかオンナ男とか、なんでそんな既存の言葉に当て嵌めたがるのか、僕にはわかんなかったけど」  雨宮が俺の身体にそっと抱きつく。 「浩樹くんがそんな事言ってこないなら、もうそれでいいや。浩樹くんって僕には結構怖いところも見せるけど、やっぱ基本的には優しいよね。さすがお人好し」 「お前それ…褒めてんの?」 「褒めてる褒めてる。良いところとか悪いところとか、いろんな面を見せてくれる人の方が僕は信用できるかな」  涙が引いたのか、少し落ち着いた様子の雨宮。 「…でも浩樹くんに出会ってからは、一回も切ったりしてないよ」 「…これからも、しない、か?」 「うん。しない、と思う」抱きついてた雨宮が、顔を上げて俺の顔をまた見つめる。 「もし浩樹くんと別れてしまったら…、もしかしたら、またしちゃうかもしれないけどね」  雨宮はそう言って小さく笑い、俺の唇に唇を重ねた。

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