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第十三章
第十三章
あの後少しもしないうちに、身柄をエリアスの私的な宮殿に移されたカイは、じきに手足の拘束も解かれた。
荷物のように運ばれ、それでもろくに抵抗もしかった様子を兵士らに気味悪がられたが、ボロっと零れ落ちた自分の靄を視界の端に捉えると、痛みすらもう他人事なのだと自覚し、そのあたりで記憶は途切れている。
その時はもう何もかもが現実のものとは思えず、ただ無心に眠っていたかったのだ。
夢も見ず、昼夜も問わない生活を気がつけば何日も過ごして、誰がそばにいたのか、それとも誰もこの世界にはいなかったのか、それさえもわからない。
「なぁ、これから俺はどうなるんだ」
カイは、自分を甲斐甲斐しく世話する男に問いかけた。
返事を期待しない音量でそうしたのは、この男が決して口を開かないと知っていたからだ。
自分の服を今日も淡々と折り目正しく身につけさせていくノアを視界に捉え、カイはまた視線を足元に落とす。
こうしてノアがカイの着替えや食事、湯浴みにいたるまでの生活のほとんどを自分の代わりにしてくれるようになったのは、ただそれのどれもをカイがやらなくなったせいだ。
人形のように過ごすカイの為に、誰かが温かい食事を豪華なテーブルに並べ、湯浴みにはわざわざバスタブに湯を贅沢に溜めてくれた。
袖を通したこともないような高価な衣服を見繕われ、髪を梳る香油まで用意されている。
そういったことの全てが、身体の傷だけが回復してくるのと比例して億劫でならなくなった。
思考はほとんど働かず、何も考えられない。ただ身体中を支配するどこまでも暗い孤独に寄り添い、けれど一方で、カイの世話を任された何の事情も知らない従僕たちは、その現状に酷く戸惑ったらしかった。
次期国王直々に下された仕事を疎かにはできず、そしてある日ノアがその任を任されたようだ。
黒装束の男が、黒髪の黒い瞳の自分へ今日も黒い服を着させる様子を、遠くで傍観する。
これではまるで誰かの葬儀に出向くようだと。
「あんたは誰かの葬式に出たことはあるか」
意識の外側でぽつりと零れた声は、誰に向けたものでもなかった。
けれどノアがふと動きを止め、カイを見やる。
初めて対峙したその瞳は、自分が思った以上に自分を強く、まるで責めるように貫いていた。
「……っ……なぁ、誰かを亡くしたことはあるか? 主は? お前の本当の主人はどこにいる?」
カイは堰を切ったように言葉を繋げる。
ぐっと、相手の胸ぐらを掴み、ふらりともしないその視線を捉えた瞬間、もう、何も止められなかった。
「おい、何も思わないか? 思わないのかよ! こうして毎日黒い服を着させて、食事させて、身体を洗ってやって! それでもどこかで誰かが死んでる! 俺は生きてるのに!」
それが子供じみた八つ当たりだとわかっていた。
ただ、目の前では表情のない金色が、未だ静かに自分を見据え、まるで何も意味がないといわれているようで腹立たしかったのだ。
全てが憎くて疎ましくて悲しい。悲しい。怖い。苦しい。辛い。
「なんとか言えよ……っ」
掠れた言葉は、顔を背けたせいできっと届かなかったはずだ。
俯いて床だけの視界に、不意に相手の手のひらが静かに伸びてくる。
あの時もこうやって、彼 はカイにそれを渡した。
土産だと言って自分にはそんなもの何一つ与えはしないだろうに、あの男はいつだってカイに色んなものを明け渡してきた。
翡翠の欠片が、エリアスに毟り取られてそのままだった翡翠の欠片がそこで輝いていた。
「あの方がこれを返しておけと」
そう呟いた声は、存外に高く澄んでいた。
いつまでもそれを受け取らないカイを見て、ノアはそばの机に上に置く。
男はそれ以外何事も発しないまま部屋を出ていき、カイは反射的にそれを握り締め振り上げた。けれど、その拳はぶるぶると震え、微動だにしない。
「…………っ!」
頭では分かっている。こんなもの、こんなもの今さらなんになる。
ミアが誂えた衣が恋しかった。細かく均一で、存在を小さく主張するような控えめな縫い目。繊細で、丁寧に考え抜かれた装飾の煌めき。
家の前の大木、壁一面の本、部屋を柔く灯す燭台、宝石の欠片。
赤い瞳。
「…………っくそ!!」
結局、カイは何も守れなかった。
自分が選んでしたこの行為は無駄だった。間違いだったのだ。
漆黒の闇が攻めてくる。漆黒の闇で光る、翡翠。ウィンター。
「くそったれ!!」
お前は酷い。
それでも言うのか。生きろと。
お前は言うのか。
***
長い時間 をこの王宮で過ごしてきたが、まさか自分が、本当にこの宮殿に足を踏み入れるとは思ってもみなかった。
カイは大国アルテリアの使者が訪れると言う場に同先を求められ、その宮殿内にある謁見の間へ向かっていた。
前を歩くノアは今日もカイの髪を丁寧に梳り左下で緩く括ると、最後に一滴だけ香油を垂らした。
服は自分で着替えられるという言葉を無言のまま制され、エリアスが用意したと思われる上等なものを身につけている。
脛ほどまである淡く透けた漆黒の羽織りに、胸元は同布で作られた紐で結ぶ作りをした黒いチュニックとこれも同布の下衣という姿だ。
紗衣の上着には金糸で袖と裾にだけ細かな刺繍が施され、下衣を上衣にしまい、腰には太い金紐で編まれたベルトをつけた。ほとんど実用性のないその飾りと同じ紐で編み上げる形の靴は、靴底を硬いなめし革が覆っている。
カイはその、まるで踊り子のような、一見してまさに出来うる限りの装いをさせて、誠意と忠誠、そしてこちらに抵抗する力はない といった意志を示すための装いに、おおかた、自分は隣国にこれから売られるのだろうと思った。
結局カイの運命はこうして大きな渦に巻き込まれ、自分の手には落ちてこない。いつだって、過去もこれからも自分に与えられる自由はないのだ。
そうして絶望と苛立ちを胸に抱えノアの背を追っていれば、じきにそこへたどり着いてしまった。
恭しく頭をたれ、美しく荘厳な彫りの扉を押し開けたノアがその脇に引き下がる。
カイはそれを一瞥して、この期に及んで特別に躊躇することもなく足を踏み入れた。
「ああ……君はやっぱり黒が似合うな」
部屋の中央辺りにまで行けば、自分の選んだ衣を着たカイを見て、エリアスがそう呟いた。
通常は大広間の空間を抜け、段差を数段上がった場所にある玉座から来訪者を出迎えるはずだが、今日はその下辺りに佇んでいる。
「ノアに世話を任せてよかった。少しは元気になったかな」
悪びれるふうもない男の言葉に、カイは睨みあげるだけでそれに応じた。
今さら一言だって言葉を交わしたくなかったのだ。
ゆっくりと近づいてくる足取りに、わかりやすく視線を逸らす。
この男が、全てを奪った。あの慎ましく穏やかな生活も、ミアの笑顔も、ヴィンセントも。
カイは一時もエリアスの姿を視界に入れていたくなくて、懸命に拳を握り込んだ。
この男のそばにいるくらいなら、自分が敵国のために利用されようとどうでもよかった。
どうせ自分はもう一人だ。
なんでもいい。
「このたびアルテリア帝国より、エリアス・エンデ・ハインリヒ殿下に拝謁する赦しを得、馳せ参じました。こちらが陛下より頂戴した書状になります」
その声にエリアスは優雅に視線を上げる。
そしてそれは同時に、この国に搾取されるカイの人生の終わりを告げていた。
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