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第十四章

第十四章  カイは馬に揺られていた。  疾走する数人の騎士に前後を固められ、人知れず、深い森を月明かりだけを頼りに進んでいる。  身体を丸ごと覆ってしまう片腕と、背後に感じる厚い胸板が時折、馬上にいるせいで激しく振動した。  それを未だに信じきることができず、ただ不意に何かに掻き立てられるように、カイはちらと頭上を見上げた。  そこには、暗闇の中でただ前だけを見つめる、ヴィンセントの姿がある。  カイは言葉も発せぬまま、そうして闇を抜け一行がセレン領土を超えれば、じきに見知らぬ屋敷に辿り着いた。  あれだけ躊躇した肌に戸惑いなく触れたヴィンセントは、カイをその手に奪還した瞬間から、馬に乗っている間も、仲間だと思われる兵士と話す間も、片時もカイを離さない。  しっかりとしなやかな体躯に寄り添われる感触に、カイは狼狽え、ただなすがままその身を柔らかな寝台の上に降ろされた。 「……カイ、詳しい話は後日にします。まずは身体を休めてください」 「っ……?」  相手が初めて声を発したことで、途端に先ほどまでのことが駆け巡り、意識が引き戻された。  咄嗟にその背を追おうと足を出しかければ、カイのそれはぐらりと縺れる。  それを相手は、予測がついていたとでも言うように軽々と受け止め、カイをふたたび柔らかな面に降ろした。 「カイ、大丈夫ですか?」 「…………っ」  今度こそ、夢や幻ではなくこれが現実なのだと一気に心臓が跳ね上がった。  片膝をつき、正面からカイを見る男は間違いようもなく、ヴィンセント・シラー、本人だった。  何が起きているのかわからない不安と、壊れ物でも扱うような仕草でカイを世話するヴィンセントが綯い交ぜになる。  なぜ、彼が今、自分の目の前にいるのか。 「あんた、軽いんですよ。どれだけ好き放題させれば気が済むんだ」 「な……」 「この服も、全然似合ってません。着替えを用意します」  言いながら立ち上がった男は、あの時もカイに一瞬たりとも目もくれず、まるでそれが当たり前かのように堂々と振る舞った。  あの時、エリアスとカイが待機する宮殿の一室にヴィンセントが現れたあの時、エリアスは最初こそ酷く苛立ち、ヴィンセントをきつく詰問した。  カイはそれをただ呆然と見守るしかなく、けれどヴィンセントは一通の書状を男の眼前に差し出たのだ。  ――カイは連れていきます。構いませんね。  その一言を言い放つと、ヴィンセントはぐいっとカイの腕をとった。  カイが口を挟むのを許さないかのように、振り返りもせず迷いのない足取りで扉まで歩いていく。  カイはその時、エリアスが小さく零した声を微かに耳にした。  ――……なんだ……結局君たちの勝ちなのか。  そう言ったエリアスは、一体どんな最後を望んでいたというのか。  いつだったか、彼は言っていた。  ――僕はどんな【結末でもかまわない】と。  あれは、こういうことだったのか。  エリアスほどの男が、何かしらの不自然な動きに気づかないはずはない。  それでも、あの男は傍観していたのだろうか。それほどにエリアスには全てがどうでもいいことなのか。  気がつけばあっという間にセレンの国境を越え、アルテリアの領地を数少なな一行は進んでいた。  カイの知る顔はもちろんヴィンセントだけだったので、他の面々はアルテリアの兵士だったのだろう。軍服の様子や、肌の色、髪や瞳のそれもばらばらだった。 「……おまえ……どういうことなんだ? ……生きてたのよ?」  やっと口にできた疑問の声は、微かに震えていた。  ヴィンセントが動きをとめ、そっと振り返る。  嫌な動悸を紛らわすように、胸のあたりをぎゅっと握りしめたカイを一瞥し、もう一度そこに屈んだ。 「……カイ、説明は後日しますよ。とにかく体力を戻してください」 「そんなのどうだっていいんだよ! なんで国王の書状なんか」 「あれは、陛下のものじゃありません。シャディナ公女からのものです」 「シャディナ公女?」  茫然自失のままカイがオウム返しに繰り返すと、ヴィンセントがこくりと頷いた。  隠遁生活を送っていたと言っても、さすがに隣国の公女様の名前に心当たりがない訳もなく、聞き覚えのないそれに余計に混乱する。  そんなカイを冷静な眼差しで射すくめた相手は、胸の前で白くなるほど握り込んだ指先をそっと解いた。 「カイ、あなたの力を、……呪いをときます。あなたは自由に生きられるようになる」 「え?」 「シャディナ公女はそのことで協力をしてくれる方です。もちろん国王陛下も承知だ」  突然の言葉に、カイは咄嗟に声が出なかった。  にわかには信じられない内容のことで、何をどう質問したらいいのかもわからない。  この力は、今の今まで何百年もの間、絶対のものとしてカイを縛りつけていたのだ。それを隣国の公女様が手を貸してくれたとして、一体何ができるというのか。 「な……何言ってんだ……シャディナ公女がなんだって?」 「カイ、彼女は魔法師です。あなたの力は精霊との契約……魔法師によるものでしょう?」  そう問い返されて、まさかそんなことまで知られていたとは思わず、全く頭が働かなかった。  言葉もなくただ戸惑いから相手を見つめ返すと、ヴィンセントは小さく息を吐く。 「……どんなに魔術のことを調べても、解決策が見つからないはずですよ……シャディナ公女はその契約を解除できます。信じてください」  そう言われても、そもそもがなぜ他国の公女が敵に手を貸してくれる状況になるのだろう。  カイの力が欲しければ、自国に監禁でもして好きなだけ利用出来るはずだ。  聡い男がこうも簡単に上手い話を信じる訳もなく、そうとわかっているのに、この、彼女への揺るぎない信頼はなんなのか。 「なんで……その方がお前に力を貸してくれるんだよ。どういうことだ?」  問題の核心に迫る問いかに、ヴィンセントはわかりやすく一瞬の躊躇いを見せた。  他人にはわからない程度の瞬きをし、カイが寄せる視線から、さらりと逃げる。 「……俺にではありません、カイにですよ。国は力を欲しがってる」 「だったらなおさらだろ?! おかしいだろ! 俺をそのまま利用すればいい話じゃないか。おまえ、何か見返りにおかしなことを約束させられたんじゃないだろうな」 「そんなことあるわけないでしょう。あの人はそういう人じゃない」 「あの人って……」  尚も頑なな態度を変えないヴィンセントに、カイの焦燥は募った。  もしかしたらヴィンセントは、もうずっと前からシャディナ公女を知っていて、心の内側に彼女を住まわせてきたのではないか。  そして同時に、己の特異な身体能力と頭脳を一生捧げる約束をした。  この大国に多数ある属国の一兵士が、ただ愛を貫くだけで、公女様はもとより、国を相手に私的な望みを聞いてもらえる訳がない。  ヴィンセントはおそらく縁談を進めているのだ。  身も心も隷属する誓いを立てるなら、一見唐突に見えるこれらのことも辻褄が合うような気がした。 「とにかく、今日は休んでください。酷い顔色ですよ」  そう言ってカイの頬を撫でた男は、もう普段通りに戻っていた。  カイはすぐに離れた指先を追うように、ヴィンセントの後ろ姿をいつまでも見つめる。  運命はこうして回り始めた。またしても、カイの手の届かないところで。 ***    借り住まいとして宛てがわれた屋敷は、そこに少しの間滞在してみれば王家の所有する古い建物だということがわかった。  カイは、見慣れない様式の、木材で建てられた重厚な一室から春の暖かな陽を浴びた。  そこから見える景色は深い森と、この建物の全容、そして遠くに広がる王城とその周辺の城下街だ。  それを視界に収めたカイは、妙なざわめきを誤魔化すように用意された衣を胸元でぎゅっと手繰り寄せる。  あれから、ヴィンセントとはまともに話もしていなかった。  部屋に引き篭っていたカイとは違い、忙しなく働き動いていた様子のヴィンセントとはそもそもの接点がなかったのだ。  あの男はカイを縛るこの契約を解除すると言ったが、自分が今アルテリアにいるという事実だけで混乱するのに、ましてやそのことを信じろと言われても無理があった。  シャディナ公女に会ったこともなければ、カイはヴィンセントの口からその名前を聞くのも初めてだったのだ。  もとよりヴィンセントにそんなふうに想う女性が居たことにも気づかず、過去を思い返してみれば自分は散々に思い上がったことをしてしまった。  カイは苦虫を噛み潰したような顔をして、小さく頭をかいた。 「…………馬鹿か俺は」  力のことや、これからのこと、考えることはたくさんあるのに、気がつけばヴィンセントと彼女のことばかり考えている。  カイは今さっき自分でしわくちゃにした衣を目の前で広げ、ため息をついた。  きっと自分は不安なのだ。こうして命を助けられて、自由まで与えられるらしいことが。  それを喜びはしても悩む理由なんてない。わかってはいるのに、今さらそこにただの(・・・)自分が一人で放り出されたとして、一体どうやって生きていけばいいのか見当もつかない。 「まぁ……とりあえずはこれを着ろってことなんだろうな」  カイは延々と続きそうな思考を片隅に追いやり、無理やりに意識を衣に移した。  ここへきてじきに合流できたミアは、意外なほどすぐに状況へ適応した。  朝から一度も姿を見せない彼女がどこで何をしているのかはわからなかったが、こうして衣服を見繕い、朝食用にとパンと搾った果汁をきちんと皿に用意してくれているあたり、心配はいらないのだろう。  時たまアルテリア兵士とも世間話をしているようだったので、もしかしたら何かの用事で呼び出されているのかもしれない。  そうと納得できればろくに働かない頭ではあったが、のろのろと身支度を始め、最後にシャツの釦を止める。  ちょうどその時、扉をノックする音が響いた。 「カイ、支度はできましたか?」  突然の訪問に、カイはわかりやすく肩を震わせた。  それを知ってか知らずか意に返さない様子のヴィンセントが、戸惑いもなく歩み寄ってくる。 「大丈夫そうですね。もう聞いてると思いますが、今日、あなたの力を移します」 「は? なに?」 「シャディナ公女の都合がついたんです。聞いてませんか?」  眉唾物の話に、カイは怪訝そうにした顔を見上げ返した。  ぐだぐだと一人で悩んでいたところで、今日、これからこの力は完全に失われるのだという。  ヴィンセントは移す(・・)なんて言葉を使ったが、それさえもカイには初耳だった。 「お前……もう少しちゃんと説明してくれよ」 「兵士に伝えておけと言っておいたんですけど……あなたの契約を他の魔法師に移すんですよ。その儀式をこれから行います」 「なに? これから?」 「そうです。この足で向かいます。迎えにきたんです」  そう言ってカイの衣を上から下まで一度検分すると、男はそっと襟元を直す。  そのさり気ない指先にまで未だにいちいち鼓動が跳ね上がり、咄嗟に視線を逸らした。  ぎゅっと唇を噛み締め耐え難い一瞬を堪えていると、わざわざヴィンセントは覗き込んでくる。 「カイ、緊張してますか?」 「な、ちが、別に緊張なんて……」 「あなたはこれから普通の人(・・・・)として生きていけるようになる。約束します」  それは幸福か。それともカイにとっては不幸の種なるのか。結局今の今になっても答えは出なかったが、ヴィンセントはまるで誓いを立てるように、まっすぐにカイを見た。  赤い瞳。そうしたらこれは、何色に輝くのだろう。 「……エリアスは、どうなったんだ?」  ぽつりと落とされた疑問に、一瞬場の空気が少しだけ冷えた気がした。  ヴィンセントがわかりやすく眉間に皺を寄せ、じろりとカイを睨む。 「今、なんて言いました?」 「エリアスだよ。あの男はどうなった?」  カイはとにかく必死だったのだ。合わさった視線をどこかに逃したくて、けれど、ずっと心のどこかで引っかかっていたことを聞いた。  あの男の運命とも、カイは繋がっていた筈だ。カイの存在を妬み、一方で一度掴んだカイの運命の行方さえも放り出し、己の人生を一度たりとも歩めなかった男。  今さら知ったところで、エリアスが生きていようが死んでいようが、カイにはどうすることもできない。けれどもしかしたらとどこかで思っていた。  ノアは、どの瞬間にもエリアスのそばにいるのではないかと。 「…………言うにこと欠いて、エリアス」  地を這うような声で我に帰ると、信じられないとでも言いたげな表情とかち合う。  カイの喉がぐっとなるほど睨み据え、ヴィンセントは何も返事をせず踵を返した。  出入口の手前で振り返った顔はまだ苦虫を噛み潰している。 「……なんだよ」 「たまにあんたの神経を疑います」  言い終えるのと同時に男が出ていくと、いつだったか嗅いだことのある、ヴィンセントの凛とした香りだけがその場に残された。 ***  国を揺るがすほどの力を【ほか】に移すともなれば、もっと壮大で威厳のある空間でそれは行われるのかと思っていた。  そう感想を抱いたカイは、屋敷の地下から続く、だだっ広い空間に足を踏み入れた。  人一人がギリギリ通れる細い道を緩く下った先のそこは、四壁全てが壁石に覆われ、暗く何もない。  もっとも、こういう運命を左右するような重大な出来事は、いつだってその一瞬で決まってしまう。だからカイのそれがたまたまこの場で行われると言われたらそうなのかもしれないが、それにしてもまったくらしくないその一室を、ヴィンセントはカイを伴って中央付近まで進んだ。  薄らと灯る足元の燭台だけを頼りに下ばかり気にしていたカイは、ふと前の男が足を止めたことで自身も足を止める。  近づいてみれば、棺台のようなものの上に鉄製と思われる円形の器があり、その横で一人の女性が佇んでいた。  髪を結った飾りを見て、カイはドキりとする。 「ヴィンセント、彼の体調は大丈夫ですか?」 「まぁ、万全とまではいきませんが……大丈夫でしょう。この人は我慢強いですから」  ヴィンセントが軽口を叩くと、その女性が顔を顰めた。窘める視線をそっとカイへ移した彼女は、美しい灰桜色の髪を、収穫祭でヴィンセントが買ったあれで編み上げていた。  淡い後ろ姿を思ってカイが選んだものは、間違いではなかった。そう思う。 「カイ、はじめまして。ろくに顔も出せずにごめんなさい。あなたを連れ出す際に、セレンの記録を調べました。ヴィンセントの話も聞き、大体現状は把握しているつもりです」  そこで言葉をきると、彼女はカイへ一歩近寄った。凛とした双眸がカイを見つめ、ふとその指が自分の指先に触れる。  するとそっと手のひらを握りこまれて、そこにしていたあの手袋を酷く丁寧に外された。 「この指先から、あなたの血を少しだけください。複数の契約を、それぞれの魔法師一人一人に移します。すぐに終わりますが、少し、痛みがあるかもしれません」  恭しく指先を掲げられ、自分のそこにナイフの切っ先が沈みこんでいくのをどこか呆然と見守る。  カイは途端にボロボロと蠢き出した指先になぜか怯みそうになって、けれど彼女は意に介した様子もなく何事かを囁いた。  繰り返される言葉はまったく理解ができない。ただ、そのまま腕を引かれ棺台のようなところに連れていかれると、円形の器の上に手を掲げさせられた。 「トール、まずはあなたから。少し寄ってもらえますか?」  彼女の言葉と共に、誰も居ないと思っていた空間から男の魔法師が音も立てずに寄ってくる。  視線を巡らせた先で、その他に数人の魔法師がひっそりと佇んでいたことを知った。  カイは今さらになって、本当に自分はもしかしたらこの力を失うのかもしれないと思った。  彼女が唱え続けたそれで、カイの指先から、赤い血液が滴り落ちたからだ。 「ではカイ、血液を途絶えさせたくないので、出来うる限りナイフを当てておいてもらえますか?」 「え?」 「苦痛を強いますが、術を行うには必要なので」 「シャディナ公女、この人ほとんど頭に入ってきていませんよ」  不意に後ろから掲げた指先を捕まれ、カイはさらに動揺した。  振り返って見上げた先に、ほとんど自分を背中から抱き込むようにしてシャディナを見やるヴィンセントの顔がある。  彼女の前でこんなふうに密着され、その姿を晒したことに、どんな感情を示せばいいのかさえわからなかった。 「ああ、ではヴィンセント、お願いします」  結局、カイがしっかり覚えているのはこのあたりまでのことだ。  別に意識を失ったわけでも、茫然自失していたわけでもない。  ただ、最後に残されたそれ(・・)だけが鮮明に頭に残って離れなかったのだ。  ヴィンセントは、その時ぎゅっと腕で目元を擦ると、下げていた視線をゆっくりと上げた。  翡翠色の瞳が、カイを貫いていた。

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