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第5話
瞠目して声のするほうを振り向くと、目の前にレヴェントの顔があった。
金色だと思っていた瞳は、黒い瞳孔の周辺だけ薄青で、真っ黒な太陽が力をみなぎらせているように見えた。その目を縁取るまつげが、瞬きとともに白鳥の羽のように動いた。
帝国一と謳われるその美貌を前にしては、死を覚悟していたユスフでさえ胸を高鳴らせてしまう。
しかし、嘘つきとは――。
そう問う間もなく、臀部にまふっと何かがまとわりついた。
びくっと身体を硬直させ、ゆっくりと振り向くと、臀部に金髪の男児が抱きついていた。
「おしり、しっぽない」
レヴェント皇太子が養子にしたルウだ。ルウは自分の放った言葉が面白かったのか、キャッキャと声を上げてユスフの尻に再び抱きついた。
「し、尻……?」
ユスフがどうしたらいいのか分からずにいると、イーキンが声を震わせていた。
「ル、ルウさまが、おしゃべりになった……」
「……ほう」
ユスフの目の前にいるレヴェントも、感心したように口の端を引き上げる。
ルウはてこてこと歩いてユスフの前に回り、顔を近づけてきた。ぶるるるる、と突然馬のように唇を震わせて音を出し、「わ」と驚いたユスフを見てまたキャッキャと笑った。
その様子に、イーキンが感心していた。
「殿下に保護されて以降、初めて出会う人間ですから刺激されたのでしょうね」
聞けば、ルウは拾われてから一度も言葉を発していなかったのだという。
「人間は鼻があまり利かないと聞いていたが、同族のことは本能で分かるのだろうな」
レヴェントに頭を撫でられて満足そうにしたルウは、ユスフの膝にどすっと腰を下ろし、キョロキョロとあたりを見回した。
「何をしているのだ?」
レヴェントの問いに、ユスフがおずおずと答えた。
「おそらく……話し合いに自分も参加しているつもりになっていらっしゃるのかと」
孤児院の子どもたちが、まさにこんな行動をしていた。大人が真面目に話し合っているところにやってきて、まるで自分もその一員かのような顔をするのだ。
ぴょこっとレヴェントの耳が動く。
「ユスフ。そなた、子どもが?」
「いえ、妻も子もおりませんが、十五歳まで孤児院で育ちましたので、年下の面倒は見ておりました。その子らの様子に似ていたので……差し出がましいことを申しました」
「そうか、孤児院にいたのか」
レヴェントはなぜか安堵したようにうなずく。
そして、うーむ、とわざとらしく唸り「よし!」と立ち上がった。
「イーキン、この者の後宮入りの準備を」
へっ、と声を上げたのはユスフだけではなかった。側近のイーキンは、頭から帽子が落ちてしまうほどの驚きようだ。
「あの、おれは処刑では……」
「過去に皇族を謀った罪で処刑されてきた者もいるが、私は放蕩の皇太子だからな、前例など踏襲しない。不問とする。もちろん妹にも干渉しないと約束しよう」
ユスフは床にひれ伏そうとしたが、膝にルウが乗っているので叶わない。
なんと温情のあるお方だろうか、騎士団に戻れたら身命を賭してお守りしよう――などと胸に誓いかけたところで「その代わり」という言葉が降ってきた。
「せっかく花嫁衣装で来てくれたのだ。私の側室となり、ルウを育ててもらう」
イーキンが悲鳴に近い声で「殿下!」と叫んでいる。
「そ、側室と申しますと……しかし……おれは男ですので……」
「男ならより好都合だ、私に惚れることはあるまい。後宮では私と相思相愛の演技をしてもらうがな」
後宮、演技、相思相愛……と言葉は知っていても理解が追いつかず目を回していると、レヴェントの長い指がユスフの顎を持ち上げた。
「それとも……今ここで私に〝花嫁喰い〟されたいか? 人間を喰ったことはないがお前はうまそうだ、いい匂いがする」
ちくりと喉に触れたのは、再び鋭利に伸びた爪だった。さっと顔から血の気が引く。
「い……いえ……そんな」
いつのまにか爪が形を変えて、人のように丸みを帯びる。
帝国一の美貌をたずさえた皇太子が、太陽のように笑って信じられないことを口にする。
「なに、騎士の任務だと思えばいい。後宮で子育てしながら、私と睦み合う簡単な任務だ」
ルウは自分が話題になったことが分かったのか、ぱちぱちと拍手をしている。
「ほら、ルウも賛成だそうだ」
何が「ほら」なのだ、と思いつつ奥にいるイーキンに視線で助けを求める。
そのタヌキ獣人・イーキンは、目の周りを真っ黒にして「後宮に……男の……花嫁……」と白目を剥いていた。
謁見の間から応接用の部屋に移動すると、レヴェントの着替えを待っている間に、ぷりぷりと怒ったイーキンが後宮の仕組みを教えてくれた。
宮殿と白い橋でつながっている後宮には、皇族の寵妃たちが生活している。
男子皇族それぞれに正室が一人、側室が複数人いることが多い。さらに後宮の外にも妾と呼ばれる女性たちがいて、正式な妃ではないものの皇族に囲われて暮らしている。
その妃たちにも、主人の位などによって序列があり、現在の最高位は皇帝の正妃――つまり皇后だ。次いで皇帝の側室、皇太子の正妃――となるはずが、レヴェント皇太子だけは、これまでに一人も妃を迎えていないのだという。
外で遊び歩き責任を持たないろくでなし――などの噂も流れ、うつけ者、放蕩者と印象づける一因となっているのだとか。
「その待望のお妃が、まさか男だとは……前代未聞じゃ……」
イーキンがこめかみを押さえてため息をつく。本来、後宮には皇族と妃の後見人以外の男は足を踏み入れてはならず、一方の後宮の寵妃たちも宮殿に渡ることは禁じられているのだという。
「本当におれが後宮で暮らすんですか? ルウさまを育てるなら、別のお屋敷ではだめでしょうか。男が入るとなるとお妃さまたちが不安になるのでは」
「私も後宮でなくとも、とは思っておる。殿下は何をお考えなのやら……」
ユスフとイーキンの会話に、低い声が割って入る。
「虫よけだよ、虫よけ」
近衛兵が開けた扉から、軽装に着替えたレヴェントが入ってきた。女官たちをぞろぞろと引き連れて。彼女たちはたくさんの反物や道具箱のようなものを抱えている。
「今からそなたの後宮入りの支度を調える」
本来なら、後宮入りする際は妃の親や後見人が衣装や宝飾品、調度品を準備するが、騎士団入りしたとはいえ庶民であるユスフにはそれが叶わない。
お針子たちがわらわらとユスフに集まり、郡主が用意した花嫁衣装を脱がしていく。
「う、うわ、自分で脱げますから」
「本職に任せておけ……ふむ、しかしさすが騎士。我々獣人から見ると多少は貧弱だが、人間にしてはよく絞れているな」
薄着の上下になったユスフを、レヴェントがぶしつけにじろじろと観察する。何かを思いついたようで、女官やお針子たちにあれやこれやと指示していた。
「服の基礎は男物とし、後宮の妃たちに劣らぬよう華やかな意匠にしてくれ。動きやすさも重視するように」
レヴェントはてきぱきと指図しつつ、ユスフのぱさついた髪を一房つまんだ。
「見た目は悪くないが栄養状態はあまりよくないな? 髪や肌も念入りに手入れしてくれ。この髪には宝石が映えそうだな」
あんぐりと口を開けたまま、ユスフはお針子たちに採寸される。
足下にとことことルウがやってきて、すとんと腰を下ろした。持っていた革袋をひっくり返して、一個ずつユスフの足下に何かを並べていく。
「ルウ? 何をしているのだ?」
レヴェントの問いかけに笑みだけで答えると、ユスフを見上げて両手を広げた。
「すきなの、どれ?」
気に入ったものを選べということらしい。ユスフは屈み込んで即席市をのぞき込む。
翡翠の飾り玉、極彩色の鳥の羽……などおそらくどれもルウの宝物だ。
「ひとつ、おれにくださるのですか?」
「どーじょ」
ユスフは胸がほっこりと温かくなり、自分が皇族を謀った身であることを忘れ、思わず笑みがこぼれた。
「お優しいのですね、ルウさま。おれはこれが好きです、温かみがあって」
他の宝物に比べると出来は見劣りするが、動物をかたどった木のおもちゃだった。
「まるまると太ったかわいい犬ですね」
「それぼくの。ほかのやる」
ではなぜ並べた、と思いつつ、花の折り紙をもらった。
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