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第8話
初めて貞操を捨てられた情事は、「情」という言葉を使うのもおこがましいものだった。
痛みと、苦しみと、恐怖と、後悔。それだけが残ったサロンの部屋で、黒兎は膝を抱えて座っている。
『良かったらまたいらしてください。木村さんには特別メニューもありますので』
次に来られた時には最初にお申し付けください、と疲れきった顔で微笑んで、雅樹を送り出した。よく言えたものだな、と思う。
「何が見てるだけで良い、だ。何がこれ以上踏み込まない、だ……」
失恋して弱ってると知った途端襲ってるんじゃ、信頼を無くして当然だ、と呟く。
身体を繋げれば、何かしらの快感を得られると思っていたけれど、それもなかった。ただ痛くて苦しいだけで、痛みを我慢するので精一杯。それで震えていた事に、気付かれていたかもしれないけれど、後の祭りだ。
あのとき、どうしてキスをしてしまったのだろう? 無意識とはいえ、キスのあとにやった行為は自らの意思だ。あの時、正直に謝るか告白でもしていれば、何か違ったのだろうか。
考えても無駄な、たらればばかりが頭を巡り、身体を動かすのも億劫になる。
(さすがにもう、来ないよな……)
そう思っていたのに、次の週、いつもの時間に雅樹は予約を取って来たのだ。
「……なんで……?」
呆然として動かない黒兎に、雅樹は苦笑する。
「先生、中に入っても良いですか?」
そう言われて、慌てて雅樹を案内した。そして、ある事に考えが至り、その場で土下座する。
「すみませんでした! 謝って済むことじゃないですけど、どうか訴えるのだけは……っ!」
そうだ、どうしてそこまで考えが及ばなかったのだろう。相手が報復に出ないなんて、どう考えてもおかしい。
「あ、あとっ、今すぐ死ねも勘弁してください!」
ごめんなさい、と額を床に擦り付けて、黒兎は叫ぶ。すると、感情の読めない声で、頭を上げてください、と言われた。
「……」
のろのろと頭を上げる。しかし顔を見られないでいると、上から降ってきたのは意外な言葉だった。
「……ごめんなさい」
「……え?」
掠れた声がしたかと思うと、雅樹は黒兎の前に膝をついた。恐る恐る彼を見ると、苦しそうな顔をした雅樹がいる。
どうしてそんな顔をしているのだろう、と思っていると、雅樹は苦笑した。
「あれから気になって、卒業アルバム見たんです」
「……っ」
その言葉の意味にすぐに気付き、黒兎はサッと視線を逸らす。
「貴方だったんですね、……綾原くん」
傷付けたかもしれないと思ったら、どうしても謝りたかった、と雅樹は言った。
「きみは気付いていたんでしょう? 私のこと」
黒兎は何も言えないでいると、雅樹は、だからあんな形で、あの時の報復をしたんだろう? と問われ、ますます何も言えなくなった。
正直、高校生の時に言われた言葉はそんなに気にしていなかった。むしろそう言われて当然だと思っていたし、だからずっと見ているだけにしよう、と決めたくらいだ。
けれど、この間の事で気付いたこともある、と雅樹は苦笑する。
「きみも、報われない恋をしているんだって」
「……っ、それは……」
「隠さなくていい。言ったでしょう? 人を見る目には自信があるんだ」
黒兎は嫌な予感がした。しかしうまく言葉が出てこなくて、拳をギュッと握る。
「だから、……お願いするよ、特別メニュー……」
そう言って、雅樹は黒兎に口付けた。
何か大きなものを掛け違えてる、黒兎はそう思うけれど、やってくる波に飲まれて、どうでもよくなってしまった。
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