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第25話

 内田はこの二ヶ月弱の間に、見る影もなく痩せている。前は身なりもそれなりに整えていたはずなのに、今は髪はボサボサ、目の周りは黒ずんでいて、それなのに綺麗なシャツとパンツを履いていた。そのアンバランスさが、黒兎に嫌な予感として警鐘を鳴らす。 「内田……さん?」 「黒兎、もう一度言う。俺と付き合ってくれ」  思わず黒兎は周りを見渡した。誰もこちらを気にしていないらしく、改めて内田を見る。 「内田さん、ここで話す内容じゃ……」 「何でだ黒兎?」  内田は黒兎の言葉が聞こえていないようだ。怒りのような、恨みのような声なのに、彼の瞳には光がなく、本能的に一歩、後ずさりする。 「……もういい」 「え……?」  ボソリと呟いた内田の言葉が聞き取れず、黒兎は聞き返すけれど、直後に電車がホームに入ってくるアナウンスが流れた。 「内田さん?」  内田は酷く興奮したように呼吸を荒らげ、振り絞るように言葉を吐き出す。 「全部お前のせいだ。一生後悔しろ。俺はもう、お前のいない生活なんて、意味がない!」  すると、内田は一目散にホームの後方へ走っていく。あれだけ痩せていて、覇気のない目をしていたのに、一体どこにそんな体力があったのだろうと思うほど、彼は速かった。 「内田さん……っ!」  何をするつもりなのか、と黒兎も思わず追いかける。すると、彼はホームから飛び降り、ホームに入る予定の、まだ減速し始めたばかりの電車と──ぶつかった。  電車の警笛と急ブレーキの耳障りな音、女性たちの悲鳴と男性の叫び。誰かが非常時を報せるボタンを押してくれたのだろう。ブザー音が鳴り響く。騒然とする駅のホーム。  電車が止まっても、ホーム周辺はザワついていた。走ってその場を去る人、逆に動けずに呆然としている人、遠くから様子を窺う人。  内田の身体は車体に当たって、反対側のホームの方へ飛ばされていた。彼が無事か見ようとしてあることに気付き、すぐに視線を逸らして口元を押さえる。  足が震えて立てなくなった。目頭が痛いほど熱いのに涙は出ない。視界が霞む、胸が苦しい。 「──ぁ……」  やっとのこと出せた声は酷く掠れ、両手で顔を覆う。  お前のせいだ。一生後悔しろ。  内田の声が頭の中でループする。 「大丈夫ですか?」  そばにいたらしい男性が強い力で二の腕を引っ張った。顔から手を離し、辺りを見ると、いつの間にか十数人単位の駅員と救急隊員、消防隊員、警察までいる。 「すみません、この方も急病人です」  男性は近くにいた救急隊員に黒兎を引き渡した。事故を見ているかもしれない、という声が聞こえ、寒くなって震えが止まらなくなる。  黒兎は、最後に見た内田の姿を思い出した。  身体が折れてはいけないところであらぬ方向へ折れ曲がり、その首は──黒兎の方へ向いていた。 「──っ」 「大丈夫ー? 自分の名前、言えますー?」  黒兎の様子を見た救急隊員が、大きな声で話しかけてくるが、話しかけていることは理解できるものの、何を聞かれているのかが理解できなかった。 「ぉ……俺の、せい……」  辛うじてそれだけ言うと、駅員と警察も来る。 「監視カメラで見たけど、あなたのせいじゃなかったよ」  ゆっくり、大きな声で話しかけてきたのは警察だ。しかし、黒兎は勢いよく首を振る。そしてそばで、もう少し落ち着いてから話を、というような言葉が聞こえた。そして別の声で、加害者と被害者とか、死亡したのは加害者、とか聞こえる。  黒兎の視界が真っ暗になった。 「とりあえず、息を全部吐こうか? できる?」  苦しい。苦しいのにどうして息を吐けなどと言うのか。手足が痺れ、頭もクラクラしてきた。黒兎は目を閉じる。胸が熱い、痛い。  だめだ、搬送しよう、と誰かの声が聞こえた。 ◇  気が付くと、黒兎は暗い空間にいた。  どこだ、と思って辺りを見回すと、呼ぶ声が聞こえる。 「黒兎」  黒兎は声がする方を見るけれど、やはり暗い空間があるだけだ。 「黒兎」  また呼ばれる。聞き覚えのある、その声は内田のものだ。 「黒兎」  真後ろで呼ばれてハッと振り返る。すると内田が──横たわっていた。  左足が折れ反対に向いていて、腰は向こうを向いているのに不自然に上半身は捻れ、こちらを向いている。腕から骨が飛び出し、服も身体も擦過傷でボロボロ、そして顔は──昏い瞳でこちらを見ていた。  事故現場で見た、内田の姿だ。 「うわぁぁぁぁぁぁぁ!!」  黒兎は勢いよく起き上がる。今度は白い空間にいた。なぜだ? ここはどこだ?  腕が痛んだので見ると、ぼやけた視界に腕に繋がれたチューブが見えた。どうしてこんなものが付いているのか? それに、どんなに目を凝らしても景色はぼやけたままで、物の輪郭くらいしか分からない。一体自分の身に、何があったのだろう?  いてもたってもいられず、黒兎はそれを取った。ベッドから降り、裸足のままその部屋を出ようとすると、あ! と声がする。 「綾原さん、また点滴取っちゃったの?」 「看護師さん? 何で俺ここにいるの?」 「何でって、さっきも説明したでしょ忘れたの?」 「いやだって、俺どこも悪くないし!」  黒兎の語尾が大きくなった。男性二人に押さえられ、再び病室へと連れ戻されそうになったからだ。 「嫌だ!! 帰らないと仕事が!!」 「そんな状態でできないでしょう! あなた、もう一ヶ月も同じこと繰り返してるんですよ!?」 「かと言って、不要な拘束をしていいことにはなりませんよね」  不意に横から声がして、黒兎はそちらを見る。  ダークグレーのスーツに身を包んだその人は、黒兎の記憶にはない、険しい顔をしていた。そして彼の顔が見えたとたん、視界が徐々にクリアになっていく。 「……雅樹……」  黒兎がその人の名前を呼ぶと、彼はそれはそれは美しく微笑んだ。 「迎えにきたよ。さあ、帰ろう」  黒兎は思わずその胸に飛び込んだ。

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