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第39話 壊すなら、貴方の手で2
季節は夏。しかし今年はなかなか気温が上がらず、七月に入ったというのに雨もあまり降らない。恵みの雨が来そうな曇り空を、黒兎はしばし眺めていた。
「黒兎、どうしたんだい?」
恋人に呼ばれて、黒兎は振り返る。寝起きだと言うのに、彼の髪は整えられたかのように綺麗で、その美しさに少し見蕩れた。
「……シーツ。洗って干せるかなって」
「これから天気は雨だそうだよ」
「そっか、残念」
窓の外を眺める黒兎の後ろから、雅樹はそっと抱きしめてくる。黒兎は前に回された雅樹の手を、優しく握った。
「外に干せないなぁ」
「だから、買ってあげると言っただろう?」
「いいよ、まだ使えるし、買う時は経費で落とすから」
黒兎の仕事は整膚師 だ。仕事に使う洗濯乾燥機を購入したものの、乾燥の仕上がりが納得いかず、洗濯機能だけを使っている。前々から仕事の効率を上げるために、新しい洗濯乾燥機を買ってあげると雅樹から言われているけれど、何となく人から施されるのが嫌で、断っているのだ。
「そう言えば、あの話は考えてくれたかな?」
しかし雅樹は気にした感じもなく、黒兎の耳に唇を寄せた。少し息を詰めた黒兎に気をよくしたのか、腰に回った腕に力が込められる。
雅樹の言うあの話とは、店を畳んで雅樹の経営する舞台俳優事務所、Aカンパニーの専属トレーナーにならないか、という話だ。ついでに雅樹の自宅で一緒に住もうとも言われているけれど、黒兎にはその気がない。
黒兎は少し振り返って苦笑した。
「俺はここを畳む気はないって言ってるだろ?」
そう言うと、雅樹は耳たぶを甘噛みする。びく、と肩を震わせると、雅樹の舌がそこを撫でた。
「ちょ……っ」
「まったくきみは……落としがいがあるね」
「だってやっぱり、人の世話になるのは落ち着かないし、何よりこの仕事が好きだしお客さんもいるし」
「私も客だけれど?」
拗ねたような雅樹の声。両想いになるまで、こんな風に甘い仕草をするひとだなんて思わなかった。それはそれで嬉しいけれど、雅樹はひとたび外に出ると、笑顔で鉄壁のガードを作る社長になる。決めたひとしか心に入れない、そんな雅樹と両想いになるのは簡単ではなかったのだ。心理的にも、物理的にも。
ひょんなことから、黒兎のサロンへ客として来た雅樹。けれど当時、彼には別に好きな人がいて失恋した後だった。一向にこちらを見ない雅樹を慰め、そのショックから彼が立ち直ってきた頃、黒兎に言い寄る元同僚が現れる。
どうして未だに、と正直思った。しかも奴は黒兎のことが好きだと言いながら、付き合わないとアウティングするぞと脅し、それでも黒兎が応じないと知ると、暴行を加えて逃走する。
その後、執行猶予がついた奴だったが、後をつけていたのか駅のホームで遭遇し、黒兎の目の前で電車に向かって飛び込み自殺をした。振り向いて欲しいが為の、身勝手で歪んだ愛情表現に、黒兎は大きなショックを受ける。
黒兎は入院し、奴の悪夢、幻覚、幻聴……電車や電車が走る音などに苦しむ羽目になる。その頃の黒兎を、雅樹は献身的に支えてくれた。けれど奴の、責任を黒兎になすり付ける言葉、「好きなのにどうして分からないんだ」という奴の言葉もトラウマとなり、雅樹に想いを告げられた時、黒兎は「好き」という言葉を発することができなかったのだ。
そしてそこからも紆余曲折あり、回復してきた黒兎が、ようやく雅樹にきちんと想いを告げられたのは、事故からほぼ二年が経った頃だった。
体重を掛けてくる雅樹が、大型犬に懐かれているみたいで、黒兎はクスクスと笑う。
「大体、俺は整膚師であって、整体とかマッサージは専門じゃないよ?」
「……そこは口実に過ぎないんだけど」
「んっ、ちょっと……!」
雅樹がうなじや首筋に唇を這わせてくる。逃げようともがくと、彼の腕に、更に力が込められた。
分かっている。雅樹は好きなものを周りに置いておきたいのだ。自分の気に入った俳優は事務所に引き抜くし、スタッフも然り。社長としてはとてもやり手だけれど、黒兎の場合は十中八九、私情だろう。
「でも、私は黒兎の整膚師としての腕を認めているよ? キャストやスタッフの癒し要員として、最適だと思う」
しかも歩合制ではなく、給料制だよ、と諦めない雅樹。顎を掴まれ優しく雅樹の方へ向かされた黒兎は、それでも首を縦に振らないと、そっと唇を啄まれた。雅樹は苦笑する。
「……やはりダメか。出張までに口説き落とそうとしていたのに」
「え、出張?」
驚いた黒兎が声を上げると、彼は腕を離してくれた。向き合って雅樹を振り返ると、恋人は綺麗な顔で更に眉を下げる。
「そう、次の公演。日本公演に先駆けて、中国でやることになったんだ」
出張の期間は七月の残りの三週間。日本のお盆の公演は見込みの収益上、絶対に外せないと言ったら、七月しか空いていないと、向こうの協賛スタッフは言い張ったそうだ。何としてでも日本より先に、と言うのはそれだけAカンパニーの公演が、中国でも人気があることの裏返しでもある。けれど、足元を見られていると感じたので、スタッフとキャストの負担が大きいという理由で、五日間、十公演に抑えたそうだ。
「本当は、七日間、十五公演と言われたんだけどね。向こうの言い分を全部聞ける訳じゃないから」
そう言って微笑む雅樹。押しの強い相手に公演数を減らして納得させるのは、大変だっただろう。
「でもよくそれで通ったね。中国人に限らず、外国の方の情熱はかなり強いって聞くから……」
「ああ。だから稽古とリハの大詰めを中国でして、インタビューや取材も多めにできるようにしたよ」
打ち解ければ最大限の協力をしてくれる、と雅樹は言った。そこに辿り着くまでに、雅樹はかなり前から相手とコミュニケーションを取っていたようだ。一体どのような手段を使ったのか、黒兎はいつも不思議でならない。
「ん? 食べることが好きだから、オススメの店を教えて、とお願いしただけだよ」
予定が合えば一緒に行って、好きなだけ語ってもらう。そうじゃなければ機会がある時に行って、次に会った時に話題にする、と雅樹は言った。
「簡単そうに言うけど……普通女性と会った時に、彼女が前回何を着てどんなネイルをしていたなんて覚えてないし、ほんの少しの会話の中で、そのひとの好きなものの傾向を知ることなんて、できないから」
黒兎はため息をつく。雅樹は息をするように、相手との関係をウィン・ウィンにもっていくのだ。人付き合いが得意ではない黒兎からすれば、よくやるなぁ、という感想しか出てこない。
「でも、どうして私が人と会った時の会話を知っているんだい?」
仕事をしている姿は見せていないよね、と言われ、黒兎はうっ、と息を詰める。その様子に、雅樹の機嫌が良くなっていくのが分かり、そばを離れようとするけれど、すぐにまた捕まえられた。
「本当に、ずっと見ていてくれてたんだね……嬉しいよ」
「や、だって……同窓会の度にあんなに女性に囲まれてたら、そりゃ目立つ……っ」
黒兎の言葉は途中で途切れる。
黒兎のサロンで出逢う前、黒兎と雅樹の接点は師走の同窓会だけだった。ずっと見ていたからこそ、雅樹が人と会った時、特に女性と会った時に、何を話していたのか、知っているのだ。
雅樹が何か耳元で囁く。
「……もう……」
黒兎は顔が熱くなるのを自覚しながら、そうため息をついた。けれど返事をする前に、その唇は塞がれたのだった。
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