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第40話 壊すなら、貴方の手で3

 黒兎は遠くで鳴る目覚まし時計の音で、目を覚ました。もう朝か、なんて呟きながらむくりと起き上がると、ベッドから降りて洗面所へフラフラと歩いていく。  洗面所に置いた目覚まし時計を止めると、そのままそこで顔を洗い、ユニフォームに着替えた。寝起きが悪い黒兎が、絶対に起きられる方法として考えたのだが、それにしても今日は眠い。 (昨日は休みなのをいいことに、雅樹が散々遊んでくれたからなぁ)  眠い原因は、雅樹がずっと黒兎を離さなかったからだ。黒兎が疲れて眠ってしまったあと、彼は起こさずに帰って行ったらしい。  気を遣ったつもりだろうけど、少し寂しい。  なんて、忙しい雅樹に言ったら気にするだろう。沢山時間を取ってくれたのに、これ以上望むのは贅沢だ。  黒兎はため息をつく。雅樹とサロンで会うようになってから、もっと雅樹と一緒にいたい、と思う気持ちがどんどん膨らんでいるのだ。自分の仕事もあるからこのマンションを離れる気はないけれど、できるだけ雅樹といる時間は確保したい。  時計を見ると、一人目の客が来るまでに時間がある。財布と鍵とエコバッグを持って、黒兎は部屋を出た。  以前、コンビニのパンばかりを食べていたら、雅樹に仕出しをデリバリーさせると提案された。彼は食にこだわるだけあって、それなりのいい値段の弁当を寄越してくるのは安易に想像できた。だから固辞したのだが、じゃあせめてパンだけじゃなく、弁当か野菜も食べてくれ、と懇願されたのだ。君は人を癒す仕事をしているのに、自分のことはおざなりだ、と。  近くのコンビニに着くと、いつものように一日分の食事を買っていく。もちろん野菜も入っている弁当だ。 「いらっしゃいませ。お弁当は温めますか?」  いつもこの時間に行くと大抵はいる、大学生風の男性。金髪に近い茶髪だが、清潔感があるし店員としての態度は丁寧だ。黒兎が常連ということもあって、時々世間話をする程度だが、朝から頑張ってるな、とこちらもいつも元気をもらう。  朝食分の弁当を温めている間、その店員が話しかけてきた。 「最近、パンは買わないんですね」 「え? あ、ああ。はい……」  完全に気を抜いていたので話しかけられるとは思わず、返事をするだけになってしまった。それでも店員はニコニコと爽やかな笑顔を見せて、話を続ける。 「良かった。最近顔色が良いなって思ってたんです。……ああすみません、俺が勝手に心配してただけなんで、わざわざ話すのも変な話ですね……」  バツが悪そうに後頭部を掻く店員に、黒兎は営業スマイルを浮かべる。 「いえ。俺もあなたにはいつも元気を貰ってますよ」  そう言うと、店員はぱぁっと表情を明るくしながら、頬を赤らめた。その反応に、黒兎はしまった、と思う。電子レンジのアラームが鳴り、店員が慌てて弁当を取り出す間に、黒兎はそっとため息をついた。  店員の反応には覚えがある。少し前に取引先の化粧品代理店の営業もそうなって、それから馴れ馴れしくプライベートなことを聞いてくるようになったのだ。適当に話を合わせて、できる限り刺激しないように躱してはいるけれど。まったく、こんな大人しい男のどこがいいのだろう、と黒兎は思う。  店員に弁当を袋に詰めてもらっている時に、名札を盗み見た。昨今の防犯事情からか、それは片仮名で書いてあったけれど、用心の為に覚えておく。 (モリヤマくん、ね……)  ニコニコと黒兎のエコバッグを渡してくるモリヤマに、黒兎は軽く「ありがとう」と告げて店を出た。  涼しい風が嫌な気持ちを攫っていくように吹く。黒兎は大きく息を吐くと、もう内田さんみたいなのは嫌だぞ、と小さく呟く。  未だに、電車の音には少し身構えてしまうところがあるから、外出は要件だけ、一度に、がモットーになってしまった。まだ完全にトラウマを払拭できていないので、人付き合いだって最小限にしたい。  かと言って接客業を営む身としては、客にどんな態度をされると不快に思うかは知っている。他人を無下にできないところも、内田に付け込まれた原因だというのに。 (いっそ雅樹みたいに、笑顔で完璧に拒否ができればいいんだけど)  その点雅樹は、自分に必要ない人物には容赦がない。黒兎は中途半端な優しさが、自分の首を締めているのも気付いている。けれど、人を癒すことで自分のアイデンティティを確認している節がある黒兎には、雅樹のようには振舞えない。 『誰と繋がればいいか。誰を助けたいかを見極めればいい』  以前雅樹に言われた言葉だ。黒兎は人の苦しみを全部背負おうとしてしまうから、それは相手の為にも黒兎の為にもならない、と言われた。内田のように、全部責任を押し付けるような輩はろくな奴じゃない、と。線引きをしろ、これ以上はやらないと自分で決めるんだ、とやり手の社長は言うのだ。 「それができたら苦労しないよー……」  はあ、とまた大きなため息が出る。困っている人がいたら助けたい。そう思うのは当たり前の感情だし、いいこととされている。でも限度がある。それも分かる。  結局、自分のキャパシティや能力が分かっていないから、全てに手を出してしまう。これも全て雅樹に指摘されたことだ。 (うう……耳が痛いけど、また内田さんみたいなのを引き寄せないためって言われたら、納得するしかないよ……)  でも……。  雅樹はそれを難なくこなしている。やっぱり敵わないなぁ、と黒兎は一人で苦笑した。

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