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第41話 壊すなら、貴方の手で4
本日一人目の客は、個人で家電代理店を営む、四十代の男性だ。
「馬場さん、今日は気になる所はありますか?」
最初は腰が痛いと訴えてやってきたけれど、最近は予防のためにと定期的に通ってきてくれる。あまり話すのが得意じゃないようで、黒兎が尋ねても短い言葉でしか返ってこない。
「特に……。寝たいのでお任せします」
「かしこまりました」
勝手知ったる様子で施術用ベッドに乗ろうとする馬場。施術用ベッドに乗るのも、余分に付いた脂肪が邪魔そうで、普段から横着していることが予想される。腰を痛めたのも、そのせいじゃないだろうか、と黒兎は手助けをした。
話さなくてもいいなら、と黒兎は声を掛けてから施術を始め、あとは黙っていることにする。
始めは右手の指先から。一度肩まで施術したら次は左手。そして顔、頭と施術していく。顔や頭は人間にとって触られると気になる部分だけれど、整膚は副交感神経を刺激するので、そこを施術し始めると、眠りにつくひとが多い。この馬場も例外ではなく、早々に眠りについてしまった。
(……少し胃腸の動きが鈍い気がするけど、気にする程ではないかな)
施術が終わったら、消化がいい食べ物を摂るように伝えよう、そう思って胃腸の動きを助ける施術をする。
血液とリンパ液の流れを良くして、副交感神経を刺激してリラックスしてもらう。治療とは違うけれど、スッキリすると黒兎の施術は評判だ。皮膚を摘んで戻しての繰り返しで、施術される方もする方も比較的負担が少ない。
(だからか、雅樹には無理をしがちだと言われるんだけど)
黒兎は人知れず苦笑した。何をしていても考えが雅樹に繋がってしまうのは、自分も青いな、と。
初恋が実ったのだからしょうがない、と言うにはいい歳すぎて、だからと言って落ち着いた関係になるには、二人はまだ生まれたばかりの関係だ。雅樹も同じような感じなのかな、とか考えて、また雅樹のことを考えてしまっている自分に笑う。
もう三十代も後半に入る歳だ。けれど二人とも高校生時代に戻ったかのような、初々しい所を見せる瞬間がある。そしてそれを、お互い嬉しいと感じているから、両想いってここまでバカになれるんだ、とニヤニヤが止まらない。
(ダメだ、いくら馬場さんが寝てるからって、顔が緩んでちゃ)
毎日声を聞くか、顔を見るかをしているのに全然飽きない。別れたあとすぐに次はいつ会えるか、なんて考えている。要するに、浮かれているのだ。
嬉しいから生活も心の余裕ができる。前は自分のことをおざなりにしていたけれど、少しは気を遣おうなんて思えてくる。
恋愛ってすごいな、と思った。
馬場の施術が終わり、ベッドに座った状態の彼に「お疲れ様でした」と声を掛けると、彼はほとんど何も話さずに料金を支払い、次の予約を取る。
「あ、馬場さん。少し胃腸が弱っているので、消化がいいものを食べてくださいね」
「そうですか……」
馬場はそう言うと、ありがとうございました、とだけ言って黒兎のマンションを出ていった。
馬場を見送ってサロンの部屋を整頓し、次の客に備える。次まで少し時間があるなと思っていたら、雅樹からメールが入った。
『朝ごはんはきちんと食べたかい?』
いいタイミングでの連絡に頬が緩む。黒兎はすぐに返信をした。
『食べたよ。何なら証拠写真送ろうか?』
そんな軽口を送ると、すぐに電話が掛かってくる。どうやら黒兎が休憩中だと察したらしい。
『やあ、調子はどうだい?』
「朝は眠かったけど、仕事してるうちに目が覚めたよ」
『ああ。昨日は無茶させてしまったかな?』
そう呟く雅樹の声は甘い。スマホを通して聞くと、また違った雰囲気に聞こえる彼の声に、黒兎はクスクスと笑う。
こうして、二人の手が空いた時に少しでも電話をするようになった。お互い経営者で自分の裁量で仕事ができるのをいいことに、黒兎たちは甘い日々を過ごしている。本当に、視線すら合わなかった頃が嘘かのようだ。
そこへ、インターホンが鳴る。黒兎は通話したまま雅樹を待たせ、玄関へと向かった。
ドアを開けると予想通り、宅配のお兄さんがいる。いつものように荷物を受け取って、そのままドアを閉めようとすると、声を掛けられた。
「あのっ、普通はこんなことやっちゃいけないんですけど……Aカンパニー、好きなんですか?」
どうやら荷物を見てそう言ったらしい。黒兎が曖昧に返事をすると、男は笑顔で話し始める。
「俺、大好きで。時々荷物が届くから、綾原 さんも好きなのかなって……」
理由を聞いてなるほど、と思った。Aカンパニーの公演グッズなどを時々通販で買っているから、話が合うと思ったのか、と納得する。
「ええ。今度の公演のTシャツを買ったんです」
「やっぱり……! しかも今回|月成《つきなり》監督も役者として舞台に乗るじゃないですか。俺、チケット争奪戦に負けて……」
恐らくこの会話を、雅樹はスマホ越しに聞いているだろう。こんな身近にAカンパニーファンがいるとは、と黒兎も嬉しくなる。
「最近、月成監督も舞台に乗ることが多いですね。役者復活するのかな?」
「えっ? 月成監督って役者もやってたんですか?」
話題に上がった月成とは、Aカンパニー専属の脚本演出家だ。元々役者だったが大御所演出家に潰されかけ、だったらそんなジジイを潰してやる、と転身した話は有名だと思っていたけれど。
「そうなんです。有名な話だと思ってましたけど……」
「ああ。俺、まだファン歴浅くて……。通りで月成監督、演技も上手いと思ってました」
男はそう言うと、いきなりすみませんでした、と仕事に戻っていく。まさかこんなところでAカンパニーのファンに出会えるとは思わず、黒兎はまた名札を盗み見たら「佐々川」と書かれていた。
またよろしくお願いします、と去って行く彼を見送ると、持っていたスマホを耳に当てる。
「ごめん雅樹、立ち話しちゃった」
まさかAカンパニーのファンだったとは思わなかったよ、と嬉しく思ってそう言うと、雅樹はため息をついていた。
『黒兎……きみは良くも悪くも人を惹きつけるから、気を付けた方がいい』
「そんな……買いかぶり過ぎだし、今のひとはAカンパニーのファンだよ?」
俺のことが好きなわけじゃない、と言うと、雅樹は分かってないようだね、とまたため息をつく。
『そういう共通点から近付く輩だっているんだ』
「はいはい」
黒兎がまともに取り合わないでいると、雅樹はあからさまに不機嫌になった。普段、感情を表に出すひとではないので、黒兎もついムキになってしまう。
「まさか嫉妬? 俺だって、雅樹以外とAカンパニーの話したいよ」
内田の件があってから、強制的に仲が良かった数少ない友達も、切らざるを得なかった。だから趣味が合う、話が会うひとはそれだけで貴重で、少しくらいいいじゃないか、と思う。
『黒兎……今日は何時に終わる?』
「は? 今日は雅樹も忙しいって言うから……」
『そっちに行く。終わりは何時だ?』
いつもの柔らかい口調がすっかり取れてしまった雅樹は、はっきり言って怖い。黒兎は正直に上がりの時間を教えると、分かった、とだけ言って通話は切れた。
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