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第46話 壊すなら、貴方の手で9

「綾原先生?」  数日後、馬場に呼ばれて黒兎はハッとする。  どうやら仕事中にボーッとしてしまったらしい。すみません、と謝って施術を再開する。  あれから、雅樹や光洋からの連絡はない。黒兎が拒否しているから当然だけれど、昼間のワイドショーで雅樹が報道陣に追い掛けられているのを見てしまい、少し心配になっていたのだ。  画面越しに見る雅樹は相変わらずの美丈夫で、報道陣の不躾な質問も笑顔でスルーしていた。加熱していく雅樹への取材に、気持ち悪さを感じる。 「今日……というか、最近上の空なことが多いですね」  普段話さない馬場がそんなことを言ってくる。彼に心配される程、そんなにも今の自分は自分らしくないのか、と落ち込んだ。  まるで雅樹が失恋した時みたいだ、と思って、こんな時でも雅樹が出てくるのか、と失笑する。これだけ、深いところに入り込んでいた彼が抜けると、不安定になるのも頷けるな、と思って馬場に謝る。 「……彼氏は、最近忙しいみたいだね」 「えっ?」  あまりにも唐突に言われ、黒兎は思わず聞き返した。すると馬場はニヤリと笑う。それが、だらしなくついた脂肪で余計に粘着質な笑みに見えて、一気に寒気がした。 「ワイドショーで引っ張りだこじゃないか。寂しいんだろう? あんなに泣いて……」  そう言って、馬場は黒兎の手首を掴んだ。ひっ、と悲鳴を上げると、慰めてあげるよ、と腕を引っ張られる。 「なん、ですかっ!? 止めてください!」  目の前の男は何を言っているんだ、と黒兎は逃げようとした。けれど体格のいい相手に体重を掛けて引っ張られたら、黒兎はあっという間に馬場の腕に収まってしまう。 「ああ、先生はやっぱりいい匂い……」  馬場のふくよかな身体の体温が気持ち悪い。それは少し湿っていて、なぜか既に彼の呼吸は早まっていた。 「先生の指は気持ちいいから……いつもは我慢してるけど」  ほら、と馬場は腰を押し付けてきた。体温より明らかに熱く、硬い感触がして黒兎はゾッとする。 「嫌だ! 止めてください!」  そう言ってもがくけれど、手首を掴んだ馬場は黒兎の手を股間に持っていき、触らせようとしてきた。 「先生、ここも気持ちよくして? そのあと俺がもっと気持ちよくしてあげるから」 「……っ、嫌だ!」  ぶわっと涙腺が崩壊して涙が溢れ出る。どうして馬場が雅樹のことを知っているのかとか、手紙の差出人は馬場なのかとか、色々聞きたいけれど、上手く言葉が出てこない。 「ああ、泣いちゃったの? 可愛いねぇ先生は」  痛くしないから大丈夫だよ、と手の甲が馬場の股間に当たった。もがいて逃げようと暴れるけれど、馬場の力はなぜか強い。 「はぁはぁ、先生? 彼氏とシてる時も可愛い声を出すけど、今の泣き顔も可愛いね」  カッと顔が熱くなった。どうしてそこまで知っているんだ、と思いながらも、手の甲に股間を擦り付けて来る馬場は止まらない。 「ふふ、不思議かい? 俺は電気屋だよ?」 「……っ、まさか……っ」  考えたくなかった。自分の生活も、雅樹との甘い時間も、全部盗聴されているなんて。  唯一安全だと思っていた場所が、そうではなかった。 「嫌だ! 誰か……!」  そう叫んだ瞬間、黒兎の耳に生温かい、ヌルッとしたものが這う。多くの水分を纏ったそれは耳の穴に入ってきた。頭がクラクラする程の嫌悪感に、黒兎はなりふり構わず暴れる。湿った吐息と肌が気持ち悪い。 「あ……っ」  思い切り暴れたのが功を奏したのか、二人の足がもつれて派手に転んだ。肩を強く打ち付けたけれど、その弾みで馬場の手が離れたので、痛む肩を押さえながら起き上がり、スマホを引っ掴んで家の外に出る。 「おっと。……綾原さん?」  知った声に思わず縋りついた。偶然次の枠に予約を取っていた牧田だ。 「どうしたんですか? って……」  黒兎の様子にハッとした牧田は、同じく部屋から飛び出して来た馬場を止めようと、手を伸ばした。けれどあと少しというところで届かず、馬場を逃がしてしまう。 「すみません……警察を……」 「えっ? は、はいっ」  右肩が痛くて動けない。黒兎は吹き出る脂汗と痛みに吐き気がして、これはまずいぞ、と思った。  自分は人の身体を診る仕事をしている。だから自分の身体がどうなっているか、ある程度は分かるのだ。骨にヒビが入ったかもしれない、と。 「ちょっと……綾原さんマジで大丈夫ですか? すごい汗……」  牧田が通報しながら黒兎の様子も伝えてくれる。救急車も呼ぶと言われたけれど、大袈裟だと断わった。  ◇◇  その後、警察に通報したおかげで馬場はあっという間に捕まり、案の定黒兎の自宅に盗聴器が仕掛けられていることが分かった。サロンのソファー裏のコンセントに、ひっそりと付けられていて、普段見ない場所だから仕掛けられたことも気付かなかった。人が家にいる時は、そばを離れないようにしないと、と警察に注意を受ける。  そして黒兎の怪我は、検査をしたら骨折していたことがわかった。幸い手術はせずに固定するだけでよかったものの、しばらくは休業せざるを得なくなり、またか、と黒兎は肩を落とす。 「利き手だから生活も不便でしょう? 手伝えることがあったら遠慮なく言ってください」  牧田はその日のゴタゴタが落ち着くまで付き合ってくれ、別れ際にそんなことを言った。その場では礼を言ったものの、黒兎は彼に頼る気はない。  リビングのソファーでぐったりと座る。ボーッと部屋を眺め、ポツリと呟いた。 「いっそ、もう誰も知らない土地に引っ越そうか」  雅樹もいないし、リセットして一から出発するには丁度いいタイミングだ。怪我が治ったら、サロンは再開せずに引っ越して、今度はのんびり整膚師をやろう。Aカンパニーのファンも、未練が残りそうだから辞めて、極力ひとと関わらない生活がしたい。  大丈夫、質素な生活をしていれば金銭面も何とかなるだろうし、そもそも何に対しても拘りはない。  ひとを癒すことで自分を保っていたけれど、どうもそこでばかり問題が起きる。もっと目立たないように生きるには、どうしたらいいのだろう? 「……何かもう、考えるの、面倒だな……」  できれば、自分の趣味嗜好を理解してくれる人に好かれたい。これが異性愛者だったら、何か違ったのだろうか?  いや、もう考えるのは止めよう。  黒兎はその場で目を閉じると、すぐに眠りに落ちた。

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