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第47話 壊すなら、貴方の手で10
何か、どこからか、声がする。
泣いているような、懇願するような。
どうして泣いているの? 黒兎は声の主を探した。
辺りを見回すと薄暗い自分の家の寝室。閉められたカーテンからは、早朝なのか少しだけ光が入ってきていた。
ベッドを降り声がする方へ歩き出す。リビングから聞こえるようだ。
その声は弱々しく、消え入りそうな声で何かを訴えている──男性の声だ。
(ちょっと待て、どうして俺の家に他人がいるんだ?)
今更ながらその考えに至り、黒兎は一度玄関へ行き、両手で箒を握りしめて息を殺して再びリビングへと向かう。
リビングのドアの前に来た。やはり声はここから聞こえる。
心臓が大きく早く脈打っていて痛い程だ。箒の柄を握り直し、そっとドアを開けた。
「痛い……痛いよ……」
ドアを開けると声は鮮明に聞こえ、隙間から視線を巡らせ声の主を探すけれど、ここから見える範囲にいない。
黒兎は思い切ってリビングに入った。
「たすけて……痛い……」
泣くような声が更にハッキリ聞こえる。どうやらソファーの影に声の主がいるようだと、箒を構えて忍び足で近寄った。
「黒兎……たすけて……」
なぜ声の主が黒兎に助けを求めているのか分からない。けれど、ひとの家に勝手に忍び込むこと自体違法だ。箒で殴って追い出すぐらいなら正当防衛になるだろう、と思い切って一気にソファーに近付き、箒を振り上げた。
「黒兎……」
「……っ!」
そこにいたのは、内田だった。
左足が折れ反対方向に曲がり、腰がありえない方向に捻れて上半身がこちらを向いている。腕から骨が飛び出して身体中が血だらけで……薄く開けた瞼から、開いた瞳孔が見えた。
二年前、黒兎の目の前で自死した内田の姿だ。
ビシャ、と足元で音がした。思わず後退りした足が、赤黒く広がる血を踏んだ音だと分かり、たたらを踏んで内田から離れようとするけれど、ドロドロと血溜まりは大きく広がっていく。
「黒兎……痛い。たすけて……」
「……ッ! 嫌だ!」
ぐちゅぐちゅ、と音を立てて内田が動き出した。おおよそ人の動きではないそれに、生理的な嫌悪感が湧き上がり、箒でそれを叩く。
「嫌だ! 近寄るな!」
──べちゃっ。
皮膚だけで繋がっていた腕の一部が、血溜まりに落ちる。そして擦過傷でボロボロだった彼の顔が、突然腐ったように溶けだしたのだ。
ぼた、ぼたぼたぼた……。
皮膚が溶け、肉が溶け、赤黒い海に落ちていく。
やがて頬骨が出てきて目が窪み、支える筋肉がなくなった眼窩から目玉が落ちた。
「どうして……? 俺を殺したのは、黒兎だろ……?」
落ちた目玉がこちらを見ている。黒兎は声も出せずその目を凝視してしまった。
「あ……、ちが……」
辛うじて出せた声は言葉として内田のようなモノに届いたらしい。
すると彼の腕が飛んできて、真っ赤な手で黒兎の顎を掴む。腕は肘から先がちぎれているのに、この力は一体どこから来るのか、と黒兎は両手でその手を離そうと掴んだ。ぬるぬるしている。生温かい。気持ち悪い。
しかしその手は顎を掴みながら、黒兎の口の中に侵入しようとしてくる。
「違わないだろ? 嘘をつく奴の舌は、俺がちぎってやる」
「んんんんー!!」
「お前が、俺を殺したんだ」
ずるりと喉奥にまで指を入れられ、思わず嘔吐 いて身体を折った瞬間──。
「……ッ!! はぁ……っ!」
バッと目を開けると、黒兎はリビングのソファーに座っていた。夢かと思うのと同時に、今しがた内田がいた景色を思い出してしまい、嘔吐く。しかし何も出て来ず、何度も何度も嘔吐いた。
「……っ」
嘔吐きが治まって涎で濡れた口と顎を腕で拭うと、今度は目頭が痛くなる。目を閉じるとボロボロと涙が落ちて、黒兎は脳内で呟いた。
ああ、傷口が開いてしまったんだ、と。
「ああ、ああああああ……っ」
左手で頭を掻きむしる。その勢いで髪の毛を掴んで引っ張ると、ぶちぶちと音がして抜けた。
「俺、……俺じゃない。俺じゃない俺じゃ……」
「綾原さん」
突然呼ばれてハッと声の主を見た。いつの間にか景色が変わっていて、また夢でも見ているのかと思って、早く醒めないとと自分の髪の毛を掴んで引っ張る。
「綾原さん、こっち。こっち見て」
声の主は女性だ。聞いたことがある。
「皆川 です。綾原さん」
「みながわ、さん?」
そう、とその女性──皆川いずみは微笑んだ。ぼんやりしていた景色がハッキリしてきて、女性の顔も認識できるようになる。
サラサラのミディアムストレートに、華奢な身体。そのひとは黒兎と目が合うと、ホッとしたように息を吐いた。
「よかった。綾原さん、ここどこだか分かります?」
そう聞かれて、黒兎は視線を巡らせる。自分はベッドに寝ていて、白い天井と壁、テレビが見えた。
「……病院?」
「そう。綾原さん、部屋で倒れてたんですよ」
「部屋で……?」
それならばどうやって病院に来たのだろう? と思っていると、失礼します、とカーテンを開けて男性が入ってきた。牧田だ。
「ああ、大分顔色もよさそうですね」
黒兎は牧田といずみから経緯を聞く。黒兎が牧田と別れてから一週間経っているらしく、その後連絡が取れなくなった黒兎を心配して、マンションの鍵を大家さんに開けてもらったそうだ。リビングのソファーで、虚ろな顔をして失禁していた黒兎を発見して、呼び掛けにも応じないので救急車を呼んだ。いずみは大家さんから、保証人として呼ばれたそうだ。
「心配しましたよ。まさかとは思ったけど、本当に連絡が来ないなんて」
そう言ったのは牧田だ。そこへいずみが「まあまあ」と苦笑する。
「綾原さんがひとに頼らないのは、今に始まったことじゃないんで」
カラッと笑ういずみに、なぜか牧田は眉根を寄せた。
「……随分、綾原さんのことをご存知のようですね」
「ええ。長い付き合いですもん。ねー?」
黒兎は眉を下げた。いずみがわざと明るく黒兎との仲を仄めかして、牧田に嫉妬させているのだ。いずみは敏いひとだから、牧田が黒兎に好意を寄せているのも気付いているのだろう。
「あの、牧田さん。本当にありがとうございます。皆川さんは友人で……」
「友人、ねぇ」
そう言って腕を組む牧田。信じていないぞ、と態度で示されて、「助けて頂いたし、ちゃんと話しますから」と言うと、彼は組んでいた腕を解いた。
「俺が整膚師をやる前から、お世話になってる保険屋さんです」
いずみと黒兎は前職からの付き合いだということ、その時に厄介な相手に絡まれた所を助けられたこと。そして牧田が黒兎を発見した時の状態は、黒兎にトラウマがあるせいだということ、その辺りの事情もいずみは知っているということを説明する。
しかし牧田の顔は晴れない。逆にいずみはニコニコ……いやニヤニヤしていて、牧田が知りたい肝心な情報を伝えていないことに思い至る。
「皆川さんは旦那さんとお子さんがいますよ。本当に、彼女とは友人です」
「本当ですか?」
「んもう、綾原さんモテモテですねぇ」
まだ半信半疑な牧田に対して、いずみはまだニヤニヤと笑っていた。黒兎は彼女の態度に思うところがあったものの、牧田の前なのでとりあえずスルーすることにする。
「……で、綾原さんは療養の身なので、さっさと牧田さんはお帰りくださいな」
いずみはその笑顔のまま、容赦なく牧田を帰そうとする。二人の間に何があったか知らないけれど、落ち着いてからいずみに聞いてみた方がよさそうだ、と黒兎は思った。
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