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第52話 壊すなら、貴方の手で15
遠くで、人が怒鳴る声がする。ぼやけた視界の中で、多くの人が大きく動いていた。けれど黒兎には、誰がどんな言葉を発し、どのような状況なのか全く分からない。
ふわりと自分の身体に何かが掛けられる。そのままそれに包まれ、何かに寝かせられた。
今度はどこに連れて行かれるんだろう、とぼんやり思う。
いずれにしても、雅樹がいないなら、どこにいたって無意味だ。
自分に触れていいのも、甘い声で話しかけるのも、雅樹だけでいいのに、どうしてこうなったんだろう? と思う。
あの現場にいたのが雅樹で、触れたのが雅樹だったら、どんなに酷いことをされてもいいと思った。
雅樹になら、壊されてもいいと思った。なのに……。
黒兎は全体的に白い部屋に連れてこられた。視界はぼやけたままで、声も遠い。何も見たくない、何も聞きたくない、──何も考えたくない。
目の前に誰かがいる。覚えがある気がするのに思い出せない。懐かしい、優しい声。
そっと額に何かが触れた。手も握られているようだけど意識がふわふわしていて、何をされているのか分からなかった。
でも、もういい。何も分からなくても、何も見えなくても、もう、全てに意味は無いのだから。
◇◇
それからまた、目の前に人が現れる。相変わらず誰かは分からなかったけれど、それぞれ違うひとだと言うことは分かった。そのひとたちは毎回何かを話しかけてくるけれど、やはり黒兎には理解できなかった。
時折何かに座らされて、明るい所をゆっくり移動したりしているけれど、やはり黒兎にはどこか非現実的に感じて、手足を動かされることに煩わしささえ感じる。
いつまでこの状態でいるのだろう? もう自分のことは放っておいてくれ、と何とか伝えるけれど、その度に懐かしい声がするのだ。何を言われているのか分からないけれど。
「黒兎、今日はいい天気だよ」
ある日、今まで不明瞭だった周りの音が、突然クリアに聞こえた。その声は黒兎がずっと切望していた、愛しいひとの声だ。
「……」
けれどその後はまた、不明瞭な音に戻ってしまった。けれど黒兎はそのひとの名前を呼んでみる。
「まさ……き?」
自分でも音として、言葉として出すことができたのか、分からなかった。けれどぼんやりした景色の中、スっと正面に誰かが来た気配がする。
「……」
話しかけられている。けれどやはり意識がぼんやりしていて分からない。でもこのひとが雅樹であるなら、黒兎は伝えたいことがある。
「ごめ……、あし、ひっぱっ……て……」
ごめん、ともう一度黒兎は呟いた。ぼやけた視界が更に滲んで、頬を伝って何かが落ちていく。
すると広い胸に抱き寄せられた。不思議なことにこれだけ近付いても、これが誰で、何を言われているのか分からない。
雅樹は許してくれただろうか? もう一度ごめん、と言う。言えているか分からないから、もう一度言う。抱き締める腕が強くなった。このひとは俺を殺すつもりだろうか? もう一度同じ単語を呟く。
いずれにせよ、凌辱された自分は汚れている。雅樹に顔向けできない。もう一度謝った。生きていてごめんなさい。もう一度言う。何度も繰り返す。
すると、口が何かに塞がれた。温かくて、柔らかい感触に思わず手を伸ばし、それを引き寄せる。
「黒兎……」
目の前にいる誰かが、唇に触れながら言った。聞こえる、これは雅樹の声だ。でも、何だか様子がおかしい。
「巻き込んでしまって本当にごめん。でも、もう大丈夫だから……っ」
いつも余裕のある雅樹の声が震えている。どうしたの? と黒兎は彼の顔を覗き込んだ。黒い目と視線が合うと、彼はハッとして黒兎の頬を手で包んだ。
「黒兎、私が分かるのかい?」
彼は泣いていた。どうして泣いてるの? 大丈夫だよ、と黒兎は雅樹の涙を手で拭う。しかし、それだけでは彼の涙は拭いきれなかった。
「俺のせい……?」
「……っ、違うっ、決して黒兎のせいじゃない!」
彼は弾かれたように言う。
「全部私の……私と父親とのいざこざに、黒兎は巻き込まれただけだ。きみは悪くない」
「……そう」
そう言って、黒兎は微笑んだ。雅樹が無事なら何だっていい。しかし、そのあとはすうっと、現実感が遠くなる。
それからどれくらいたっただろうか。黒兎は同じように、意識が現実と非現実を行き来しながら日々を過ごす。雅樹はずっとそばにいてくれて、毎日話しかけてくれた。応えられる日もあれば、応えられない日もあり、それでも雅樹は離れずにいてくれるから、安心はしていた。そして、雅樹の呼び掛けに反応できる日が多くなってくると、彼は優しく抱き締めてくれるのだ。
「愛してる」
その度に雅樹はそう囁く。その言葉を聞くと、胸の辺りがほうっと温かくなる。嬉しいという感情が、戻ってくるのだ。
「雅樹」
感情が戻ってくるのと同時に、現実感も戻ってくる。黒兎は目の前にいた雅樹を抱き締め返した。すると、雅樹はとても嬉しそうにする。雅樹に憧れて見ているだけだった、高校生の時のような笑み。
まだ感情が上手く動かず、コントロールもできない。訳もなく泣いたり、怒ったりもした。けれど雅樹は変わらずずっとそばにいてくれる。そう思ったら、自分はまた病気を患っているんだ、とやっと自覚できた。
「俺はまた雅樹の世話になってるのか?」
そんなことを聞くと、雅樹は微笑む。
「逆だよ。私が黒兎の世話になってるんだ」
綺麗な笑みだな、と思って眺めていると、雅樹軽く口付けをくれる。
「黒兎といると落ち着く。外に出ると出なくなる感情が、沢山出てくる。私はそれが嬉しい」
黒兎のおかげだよ、と言う雅樹の言葉を、黒兎はやはり素直に受け取れなかった。
「何で? 俺何もしてなくて……家事すらしてないのに」
「黒兎」
優しく、雅樹は黒兎の言葉を止める。
「今は身体を休める時期なんだ。全力で休みなさい」
「でも……」
「きみがいるだけでいいって言っても、きみは納得しないだろうね。いいかい?」
前よりずっと回復しているけれど、まだ安静にするべき時期だ。治りかけに無理すると、例えただの風邪でも悪化するだろう? と言われて、渋々頷いた。
「だから、私がいる時はハグとキスをさせてくれ」
それが何よりの私の活力になるから、と言われ、黒兎はそれでいいなら、と再び近付いた彼の唇を受け入れた。
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