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第5話
先輩とキスした日の夜は、やっぱり眠れなかった。
唇を噛むと、あのやわらかな感触を思い出してしまうのだ。
ゆっくりと吸い付いて、離れていった。ほんの一瞬なのに、凄く気持ちよかった。先輩はたぶん、初めてじゃないんだろうなぁ、となぜかちょっとだけ切なくなる。
あんなのを長い時間交わしたら、どうなってしまうんだろう。
悶々とした気持ちは俺の頭をかき乱す。
俺のことが好きといっていたのは、本心なんだろうか。俺があまりにも不甲斐ないから言ってくれただけなのかもしれない。
でも、人間って好きでもない相手にあんなに何度もキスするものだろうか。
考えれば考えるほど分からない。
そうこうしているうちに日が昇り、朝が来てしまったのだ。
頭の中が先輩でいっぱいだった。そのおかげかわからないけど、周囲からの視線はさほど気にならなくなっていた。単純な脳みそだなぁと悲しくなる。
昼時、食堂でラーメンをもったお盆を持ったまま先輩のことを考えていた。
先輩の嫌な思い出って、どんなことなんだろう。
俺から見た先輩は、凄く優しい人、という印象だった。
優しいというか、傷ついている人の心に敏感で、ほっとけないと思う人なんだろう。こめかみにある傷は、その嫌な思い出と関係があるんだろうか。
「ラーメンのびちゃうよ」ふと声を掛けられ「あ、はい」と顔を上げると、にっこり微笑む先輩が立っている。「学食のラーメン美味しいよね。俺一番味噌が好きなんだけど」「そ、そうですね…」
「あっち行こう、窓側」先輩は俺の肩を優しく叩いてそういった。
ちらりと後ろを見ると、バスケ部の先輩だった人たちがやってくるのが見える。
気を遣ってくれたのだ。優しいな、と思った。
「凛ちゃんさぁ、それで足りるの?」先輩が言う。「あ、はい、お昼になる前におにぎり食べちゃったから…」「ふふ、食べ盛りだね」
引退した後もこの食生活はまずいなと思いながらも、食欲には勝てない。
朝ランニングでもしようと思った。
先輩の手を見る。やっぱり綺麗な手をしている。よく見ると、手首のあたりに絵の具がついていた。落とし忘れちゃったのかな、と思いながらみていると「なーにみてんの」と先輩に言われてしまった。
「す、すいてます」「それともあーんしてほしい?」「ハ!?」「うそ、冗談」先輩はくすくす笑っている。
「そういうのは二人の時にしないとね」と色っぽい囁きを添えて。
美術部の人たちは、俺が美術部に来ていることに対して何も言わなかった。
皆心が広いのか、それとも相手にされていないだけなのか、どちらにしても俺にはありがたいことだった。
居場所を提供してもらえる。今の俺には、一番うれしいことだ。
「ア!先輩のオキニの人だ~」宗像さんが俺に声をかけてくれた。
「こんにちは…すいません、部員でもないのに」「いーですよ、あなた悪い人じゃないから。イイヒト、ミナトモダチ」不思議な語り口の面白い人だった。
宗像さんは鳥の絵を描いていた。たぶん、鷲とか大きな猛禽類だと思う。ぎらぎらと目を輝かせ、血だらけの口元を開いている。絵の中で生きているような、生き物を絵の中に閉じ込めたような、
ほんわかした宗像さんからは想像できない、とても迫力のある絵だった。
「凄いですね。絵を描くって俺には絶対できないことだから、尊敬します」
「エ~うれしいな。ありがとうです。皆は怖いって言いますけどネ」
宗像さんは恥ずかしそうに笑っていた。
「でも、珍しいこともあるもんですね。榊田先輩が美術部じゃない人ここに入れるなんて」「そうなんですか」「そーですよ。アノ人、部外者を入れるの大嫌いですから。よっぽど気に入られたんですねアナタ」
宗像さんはしみじみと言う。
「ちょっと、凛ちゃんに変なこと教えないでよ」奥から先輩が顔を出す。
「教えてないですよー、情報提供ですよー」「ほんとかな~」
けらけらと笑いながらそんな会話をしている二人を見て、羨ましくなった。
「先輩、この前借りた美術史の本、面白かったです。どこで買ったんですか?」「あー、あれね。駅近くの裏道に古本屋さんがあるの。そこだよ」
「へー、知らなかった。行ってみます」「先輩、昨日言ってた画家の名前思い出しました。えーと…あれ、なんだっけ…」「思い出してないじゃん」
この部は、先輩後輩関係なく、他愛もない会話を交わせるほどに仲がいいらしい。俺がいたバスケ部ではありえなかった。先輩には絶対敬語。
宗像さんみたいな話し方をしたら、どんなに怒られるかわからない。
俺もこんな風に、先輩たちと話してみたかったな、と今更思った。
「ほら、凛ちゃん、昨日の水張りしたやつ。綺麗になってるよ」
先輩は昨日のパネルを見せながら言う。昨日の時点で中心あたりによっていたしわは無く、白い画用紙はピンと板に張り付いていた。
「よかったね」「はい」思わず触りたくなったけど、先輩が言っていた手の油分で絵の具をはじいちゃうから、という言葉を思い出し手をひっこめた。
先輩の部屋に通され、ソファに座る。
「それじゃあ、話そうかな」マグカップを持った先輩が戻ってくる。
中身はココアだった。
「凛ちゃんさ、昼ドラとかそういうの平気?」
「え?」
「そういうドロドロした話、平気?」
先輩の目は真剣だった。俺は何も言わずに頷くと、先輩は俯いて話し出す。
「凛ちゃん、うちの学校に飾ってあるあの天使の絵、見たことあるよね」
「はい、学校に来ると必ず目にするので」
「あれ描いたの、俺のひいじいちゃんなんだよね」
あの絵は確か、この学校が出来たばかりの頃、当時の校長先生が譲り受けたもので、値段がつけられないくらいの価値があるものと聞いたことがある。
「え、そうなんですか?す、凄いですね…あれって、物凄い価値があって、本当だったら美術館に置くようなものって聞いてたんですけど…」
「そんなたいそうなものじゃないんだ」
先輩は吐き捨てるように言う。嫌悪感みたいなものを感じて、俺はお腹の底がひんやりと冷たくなるのを感じた。
「あの絵の天使は、ひいじいちゃんの愛人がモデルなの」
先輩は、悲しい表情で話し始めた。
あの天使の裏にある、嫌な思い出の話。
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ひいじいちゃんの家に一人で遊びに行ったとき、ひいじいちゃんの部屋から女の人が泣いてる声が聞こえた。
「私だけっていったのに」という言葉を何度も繰り返していて、
ひいじいちゃんは聞いているのかいないのか、うつろな瞳で床を見つめていた。俺はドアの隙間からその様子をじっと見ていた。
女の人はちゃんと服を着ていなくて、裸の上に布一枚かけただけ。
女の人の泣く声はどんどん大きくなった。聞いてるだけで頭がガンガンしてくるほどの金切り声。
こういう時に限ってほかのお客が来ない。女の人の顔は見たことがなくて、若そうな雰囲気をまとっているけど実際いくつなのかは分からなかった。
「遺産は全部私にくれるって言ったよね?二人で別荘で暮らそうって、一生私の事だけ描いてくれるって言ったよね?」
ひいじいちゃんの所に来る人の中には、お金の話を持ち掛ける人もいた。
そのどれもが、美術館を作りませんかとか、資産運用しませんかとか、そんなやつ。
でもこの女の人からは、執念というか、何とも言えない怨念みたいな強い感情を感じた。
女の人はひいじいちゃんの服を脱がせ始める。しわだらけの、枯れ木みたいな腕を力いっぱいつかんで布団の上に押し倒す。一瞬、女の人と目が合った気がした。俺は怖くなって、急いでその場から逃げてしまった。
子供は見てはいけないことが、起きていたという事しかわからなかった。
それから俺は、ひいじいちゃんの家に行きづらくなった。
「最近ひいおじいちゃん来ないね」近所の子供がそういった。俺はこの前見た女の人の事を思い出していた。
なんともいえない嫌な予感。お絵描きも楽しくない。
すると、玄関が勢いよく開け放たれる音がした。お父さんが数人の大人を連れ家の中に駆け込んでくる。「どうしたのそんなに焦って」お母さんが言い終わる前に、「ひいじいちゃんが倒れてた、さっきアトリエにいったら、床の上に…」とお父さんが言った。
それからのことはあまりにも急激な速さで進んでいった。お父さんが呼んだ救急車がひいじいちゃんのアトリエに向かったけれど、病院についてすぐ死んでしまった。
急なことで、誰もひいじいちゃんの死を受け入れられなかった。俺だってそう。
目の前にいるひいじいちゃんは、ただ眠っているようにしか見えない。
お母さん、ばあちゃん、じいちゃん、ひいじいちゃんの弟子、皆すがって泣いていた。
悲しみでいっぱいの病室の空気を切り裂いたのは、病室のドアが勢いよく開く音。
そこにいたのは、あの日俺が見た女の人だった。その人は人波をかき分け、ひいじいちゃんの亡骸に泣きついた。俺たち身内なんてまるで空気のように、そこにいないかのように、大声をあげて泣き出したのだ。
「なんで、こんなにあっさり死んじゃうの?遺産の話はどうなったの?ねぇ、起きてよ、」
狭い病室の中を満たす、悲しみと、愛憎と、戸惑い。
息苦しくて、めまいがした。
その女の人の事を、Aさんとする。
Aさんはひいじいちゃんと体の関係を持っていた、いわゆる愛人というやつだった。あの二人が、映画で目にするような、裸になって抱き合うところを想像したら口の中が酸っぱくなった。
ひいじいちゃんの葬式にも現れたAさんは、泣きはらした赤い目をしたまま事のいきさつを話し出した。
「孝三郎さんとは、展覧会でお会いしたんです。大好きな絵を描いている先生と直接お話ができて、とっても嬉しかったのを今でも覚えています」
遠くを見る目はどろっと濁っていて、寒気がした。
「私先生にお願いしたんです、弟子にしてくださいって。先生のもとで勉強したいって…でも断られてしまったんです。弟子はとらない主義って聞いてたけど、本当だったんだなって思って。だけど私諦められませんでした。だから言ったんです。ならば、愛人ならどうですかって。そうしたらあの人、うなずいたんですよ。愛人にしてくれるって。先生が最後に残したあの天使の絵は、私をモデルに描いていたんです。綺麗だ綺麗だって、先生は私の裸をほめてくれたんですよ。おかげで大きな賞をもらって、先生はさらに名を売って、懐だってぬくもっているはずでしょう、だったら、そのお金は私がもらうべきじゃないですか」
葬儀場の家族控室で、Aさんはつらつらと話し続ける。なにかにとりつかれたようなその異様な雰囲気に、誰も口をはさむことができなかった。
ちぐはぐなAさんの話をまとめると、ひいじいちゃんと愛人になったAさんは、ひいじいちゃんの遺産をもらうはずだったらしい。
自分がモデルを務めた天使の絵で稼いだお金は自分がもらうべきだと何度も繰り返していた。
遺産の話の最中でひいじいちゃんが死んでしまい、夢見ていた幸せな生活が打ち砕かれてしまったことに心を病んだため、俺たち遺族に金をせびりに来たとのことだった。まともに仕事もせず、色んな男の人のもとを転々とする生活を送っていたAさんに、自立心というものは一切なかったのだ。
身勝手な主張を繰り返すAさんに俺のお父さんが激昂し、Aさんを金輪際うちに近づかないよう言い渡した。ただでさえひいじいちゃんの突然の死を受け入れられなくて悲しんでいる中、Aさんが持ち掛けた願望はあまりにも身勝手だったからだ。
一通りの事が済んだ後も、俺たち家族は胸の内に大きなしこりを残したまま生活していた。
お父さんは俺に子供用携帯と防犯ブザーを持たせた。何かあってからでは遅いから、とおまじないのつもりで持たされていたけど、その「何か」はきっといつか起こってしまうと、なんとなく思っていた。
学校の帰り、ひいじいちゃんの家の近くを通ってみた。
もうそこには誰もいないのに、行ってもむなしいだけなのに、足が勝手に動いていた。
この家は誰かが引き取るんだろうかと窓に目をやると、人影が見えた。
人影はひいじいちゃんの部屋を何度も動いている。誰かいる。
俺はこっそりとひいじいちゃんの家の中に入った。軋む廊下を歩いていくと、物音はどんどん大きくなる。何かぶつぶつしゃべりながら作業しているようだった。
ミシッ、と大きな音を立ててしまい、人影がこちらに近づいてくる。
それはやっぱり、Aさんだった。
「あなた、孝三郎さんのひ孫よね。この前、私と目が合ったよね」口元を布で隠し、目がぎらぎらと光っている。
見ていると生気を吸い取られそうで足がすくんだ。
「孝三郎さん、あなたに何か託したりしてないの?大事なものの隠し場所、知らないの?」
Aさんはポケットから小さなナイフを取り出す。そのナイフが俺の左のこめかみにそっと押し当てられた。
「あのひと、あなたの話いつもしてた。ひ孫は自分と違って天使を描く資格があるって。綺麗な心の持ち主だって。本当にそうなら、私の事も救ってよ」
ナイフが皮膚を割いて、血が流れていくのを感じた。
熱くて痛くて怖くて仕方なかった。こめかみに傷を作ったナイフはゆっくりと離れ、俺の眉間につき立てられる。
「子供人質にとるのも、悪くないかなぁ」くひひ、と気持ちの悪い声をあげながらAさんはナイフを握る手に力を込めていく。俺はポケットの中の防犯ブザーのボタンを思いっきり押した。その音に驚いてAさんが一瞬だけひるむ。
その瞬間に俺はAさんの体を力の限り突き飛ばし、一目散に逃げだした。
偶然近くを歩いていた人に事情を話し、Aさんは警察に連れていかれた。こめかみから血を流して泣いている俺を、Aさんは笑いながら見ていた。
ひいじいちゃんがAさんをモデルに描いたという絵をどうするか、家族間で話し合われていた。燃やしてしまおうとか、そういう話もあったけれど、最後のひいじいちゃんの作品をゴミにしてしまう気にはなれなかった。
声を上げたのは、若いころからひいじいちゃんと交友があった人で、
近々学校を設立するから、そこに飾りたいとのことだった。
まさかそれが、俺が進学する高校だとは、その時は分からなかったのだ。
俺の家族をめちゃくちゃにした絵が、願いをかなえてくれる神聖なものとして崇められている。
入学式であの絵を見たとき、俺の中に芽生えた一つの感情は今もずっと燃えていた。
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「俺の目標は、あの天使の絵をひっぺがすことなの」
先輩はそういった。
「あの忌々しい天使を引きずりおろして、俺が描いた天使を飾ってやるんだ」
冷めてしまったココアを一口飲んで、先輩は言う。
今まで見たことがないくらい、沈んだ瞳。そんな表情さえ、今の俺には色っぽく見えてしまう。
「この話したの、凛ちゃんが初めてなんだ」
「そうなんですか」
「重いし、暗いし、人に言ったところでどうこうならないし」
俺の家族は皆平凡で、こんなドラマみたいな過去を持っている人は誰もいない。
「油絵ってね、上にどんどん重ねて描けちゃうの。乾いた絵の具の上に、何度も何度も重ねて、もともとあった絵を塗りつぶせちゃうの」
先輩は自分の絵が描いてあるキャンバスを指でなぞる。
爪先が乾いた絵の具をなぞって、ざり、と音を立てた。
「ひいじいちゃんが描いた天使の下には、何が描いてあったのかなって思うんだ。本当に最初からAさんを描いていたのか、それとも違う誰かを描いていたのか、分からないんだけどね」
「Aさんは、今どうしているんでしょう…」
「さぁね…刑務所にいるのかなぁ」
空を覆う、どんよりした暗い灰色の雲。「俺、油絵好きなんだけど、たぶんそれは、どんどん描きかえられちゃうからかも」
「描きかえる?」
「気に入らなかったら、違う色で、何度も重ねちゃえば、違う絵にできちゃうからさ。気分屋な俺にぴったり」
一瞬部屋が静かになる。
先輩は一呼吸おいて、「年下にこんな話して、ダメな先輩だね」といった。
「俺かわいそうと思ってほしいのかも。凛ちゃんなら、嫌って言わないだろうなって思って話してるんだもん、ずるいよね」
はは、と自嘲気味に笑う。
「そんなの、俺もです」
先輩がゆっくりと俺のほうを見る。
「ここに来れば先輩が優しくしてくれるってわかってるから、来てます。甘やかしてくれるって、優しく慰めてくれるって、わかってるから…先輩の事、ダメな人なんて思いません。俺のほうがダメだから、そんな風に言わないでください」
いいとかダメとかの基準は、俺には分からない。だけど、少なくとも、自分の意志で絵を描き、目標を持つこの人の事を、ダメ人間だなんて思えなかった。
「優しいね」
いつの間にか先輩は俺との距離を詰め、すぐ隣に来ていた。
「でも一個、忘れてる事ある」「え、」「俺の事名前で呼んでって言ったでしょ」「あ」「忘れん坊さん」
くすくす、と先輩が、清介さんが笑った。
「キスして」俺が好きな色っぽい目つきになって清介さんが囁いた。
そっと唇を合わせると、「もっと」と言われた。
ぎこちないキスを、両手の指を使ってもたりないほど繰り返す。
でも清介さんは笑うこともなく、やわらかい唇をそっと押し当てる。
清介さんが俺の手からマグカップを攫い、体がソファの上に倒されていく。
「えっ、」何をされるんだろう、という不安と期待感を、清介さんはちゃんと見抜いていた。
「キス以上の事はしないよ」ふふ、と笑いながら俺の頭をなでる
「そ、そうですか…」
「今はね…」
そういいながら先輩は、俺の首筋あたりに顔を埋める。
鏡を見なくても自分の顔が赤いことがわかる。
ぐすん、と鼻をすする音。
清介さんは泣いているのだ。
俺はぎこちなく清介さんの背中に腕を回して抱きしめた。
驚くほどに細い腰。「もっと強く…ぎゅってして…」清介さんが俺の耳元でいう。
その声が、凄く悲しそうで、俺の視界までじんわりと滲んだ。
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