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第2話 ぶっ掛けるのなら水にして
「……つめてー……」
頭にバニラをのせたまま、東さんが手で顔を拭う。
はやく逃げてください。
俺がそう伝えるよりも、東さんが腰高の椅子から飛び降りて彼の胸ぐらを掴む方が先だった。
「おい!! 人に何かをぶっ掛ける時はせめて水にしとけよ!!」
「そうですね! すいません!!」
彼も大声で謝罪する。
そんなことを気にする東さんはちょっとズレているが、突っ込める余裕はない。
目端をつり上げ、今にも殴りかかろうとしている東さんの手を俺は必死に止める。
「東さんっ、とりあえず一旦離れよう? ね?」
子供に言い聞かせるように優しく言うが、東さんは「テメェ!」とか「ふざけんじゃねぇぞ!」などと暴言を吐くのをやめない。
耳が痛い。ビリビリと空気が割れていくようだった。
「男と付き合ってても将来が見えないだとか、マジで余計なお世話ですよ」
そんな緊迫した雰囲気の中、体を揺さぶられている彼は怯みもせず、精悍な顔つきでそう言い放った。
澄んだ瞳。
東さんも長身なのに、それを上回る身長の彼。
決して広いとは言えない店内では、会話は全部筒抜けだったのだろう。
東さんは口元を歪めながらますますヒートアップした。
「あぁ?! てめぇに関係ねぇだろ!!」
「ないですけど、無性に腹が立ったんで。俺も今日、一方的に振られちゃったんで、心穏やかじゃないんすよね。そもそも、遅刻したっぽいのに謝りもしないし、この方が禁煙だってわざわざ教えてくれたのに舌打ちするなんて有り得なくないですか? ついでに言うとドアの開け方とか座り方とか、あなたいちいちドタバタうるさいんですよ。もうちょっと静かにしてくれます?」
次々と出てくる指摘に、こっちがひぇっとなる。
東さんが2時間近く遅刻をしたのに、それについて何も謝罪がなかったこと。煙草の箱を取り出したので、禁煙なのだと教えたら機嫌を悪くされたことや、物の扱い方や立ち振る舞いが少々乱雑なことまで、全部知られていたらしい。
「てめぇ……! そんなにぶん殴られてぇか!」
東さんの拳が振り下ろされようとした時、今度はカウンターの中から大量の水が降ってきた。
冷たい。
気付けば3人とも、ずぶ濡れになっていた。
「あ、すみません。人に何かを掛けるのは水にしろって仰ってたので」
ここの店の鷹揚なマスターが、バケツを持ちながらニッコリしている。
カオス。
呆然とする3人を置いてけぼりにして、マスターだけが泰然としていた。
「他のお客様のご迷惑になりますので、お話は2階で伺います」
口調は優しいが、目が全く笑っていない。
獲物を殺すようなその視線に東さんがたじろいで、彼の胸ぐらを掴んでいた手を離した。
たぶん、マスターには勝てないと思ったのだ。高校までしていたラグビーのおかげで体格も良く、黙っていると凄んでいるように見えるんですよねと、前にお客さんとマスターが話していたのを思い出す。
東さんは負け惜しみのように、頭おかしいなとかブツブツ言いながら出口へ向かい、ドアを勢いよく開けて店を出ていった。
激しく鳴ったカウベルが落ち着くと、静かに沈黙が落ちた。
「迷惑かけて、すいません」
そこにぽつりと浮かんだ言葉。
スーツの彼は苦笑して、頭を軽く下げていた。
後ろへ流していた前髪は水を吸っておでこに張り付き、紺色のスーツも色が変わってぐっしょりだ。
まるでメロドラマのような出来事に呆気に取られていたが、そんな場合ではないとようやく俺は我にかえった。
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