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第81話 惚れ惚れする俺の恋人

 心地よい風が頬を撫でた。  いつの間にか肌にまとまりつくような蒸し暑さは消え、とても気持ちよく過ごせる季節となった。  もう秋だ。  空が高く、薄い青に浮かぶ巻雲がゆったりと流れていく。自分も同じようにゆったりとした足取りで向かった。  ドアを引くとカウベルがカラカラと鳴る。  喫茶フェルマータは今日も、穏やかな時間が流れている。 「いらっしゃい」  カップを載せたトレイを持っている野中さんにペコッと頭を下げて、カウンターの定位置に座る。  野中さんは奥のテーブル席に座る常連の老夫婦にコーヒーを出して、そのまま楽しそうに世間話をしていた。  微笑ましいシーンを見ていたら、俺のもとにお冷やが運ばれてきた。 「よ」  ぶっきらぼうに言う十夜は、ちょっと怒っているかのように唇を尖らせている。  それは本音を隠そうとする照れ隠しなのだと最近気が付いた。 「よ、じゃなくていらっしゃいませでしょ。俺だって一応お客さんなんだから」 「何飲む?」 「じゃあ、オレンジジュース」 「ふっ、やっぱ小学生みてぇだな」 「やっぱってなんだよ! 何飲んだっていいでしょ!」  十夜は「はいはい」と適当に俺をあしらって、注文表に文字を記入していく。  黒のシンプルなTシャツに、茶色のギャルソンエプロン。  頭は相変わらず金髪に近い茶髪で派手な印象を受けるけど、こうして店に立つ姿がだんだん板に着いてきたと思う。  古本屋のアルバイトをでクビになってしまった十夜は、野中さんの店で働きだした。 『十夜を雇ってあげてください』と冗談のつもりで言った俺の一言を野中さんは素直に受け取り『べつにいいですよ』と、すぐに採用が決まった。  ちなみに古本屋の店長さんは十夜のお父さんと友人らしく、俺との仲をバラされるのではないかとヒヤリとしたが、『店長がネットオークションで落札した鉄道模型セットが本当は5千円じゃなくて10万円だったってことを奥さんが知ったらどう思うかな』と持ちかけると『互いに知りすぎたようだな』と嘆かれ、このことは秘密にしてくれているらしい。  いつまでも俺の横にいて動かない十夜に、戻ってきた野中さんがちくりと釘をさした。 「ほら十夜くん、まだバイト中なんですから、やるべきことをやってください。終わったら上がっていいから」 「あー、はいはい」 「はい、は1回」 「はーい」  伸ばさない、とまた窘められた十夜だったが、俺に向かってぺろりと舌を出してからカウンターの中に引っ込んで洗い物を始めた。  いつも暇そうな店だし、きっと楽だよなぁと失礼にも程がある発言をした十夜は、その考えが間違っていたことをバイト初日から思い知らされた。 『言葉遣いと接客態度がなってないですね』と、ことある事にチクチク言われたのだという。  どうやら野中さんは仕事に関しては妥協しないタイプのようだ。 『もうめんどいから店辞めよっかな』と十夜はしょっちゅう漏らしているが、その割には遅刻や欠勤もせずに続けてふた月だ。このままずっとここにいて欲しいと思う。  十夜がうつむき加減に黙々と作業をこなす仕草がとても格好いい。  スッとした高い鼻と、眦が切れ上がった目元。  向こうに座る女性2人が十夜をチラチラと見て何かを囁きあっていた。  そういえば最近、女性客が増えたような気がする。きっと十夜目当てで来ているのだろう。

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