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【スピンオフ】ワケあり医者は狼青年を大事にしたい/2 狼の過去

 僕は一人で広い森を歩いていた。木の葉っぱは凍っていて、お日様の光を反射してキラキラ光っている。 (あぁ、これは夢だ)  すぐにそう思った。だっていまは冬から春に向かっている季節で、森がこんなに凍ることはないからだ。 「なんでこんな夢……」  聞こえた自分の声にドキッとした。いまの……、子どもの声に聞こえたけど、僕の声、だよね?  おそるおそる手を見て、今度こそガッチリと固まった。  目に映った小さな獣の手はボサボサでところどころ毛が抜けてしまい、爪はボロボロになっていた。慌てて後ろ足を見たら、あちこちから血が滲み出ている。ちょっと曲がった右足の小指は爪がグラグラして、ドス黒い何かが固まってくっついていた。 「これ……、僕、は……」  昔の記憶が一気に蘇った。  僕は、国境の森から少し離れた丘に住む狼の群れで生まれた。  お父さんは、僕が生まれてすぐに死んだそうだ。……国境の森近くで大型の毒ヘビに噛まれて、呆気なく。お母さんはお父さんとつがいになったばかりで、生まれたての僕を抱えて途方に暮れたに違いない。  半年後、お母さんは群れでも五本の指に入る強い狼とつがいになった。お母さんは雌のなかでも体が大きくて強かったから、結構な人気者だったそうだ。だから一悶着あって新しいつがいが決まったのだと聞いたのは、たしか僕が四歳になったくらいのときだ。  その頃は弟が二人いて、お母さんのお腹には三人目の弟か妹がいた。  弟たちは両親のいいところを受け継いだらしく、すでに僕より大きな体でとても丈夫だった。それに比べて僕は生まれつき病弱で、体も小さくみすぼらしかった。お母さんは「そのうち強くなるさ」と頭を撫でてくれたけど、父親が弱い僕を嫌っているのには薄々気づいていた。 「おまえ、ほんと母親に全然似てねぇのな」 「おまえの母親は群れの雄たちにも負けないくらい強いのに、子どものおまえはチビで弱ぇなんて変なの」 「こいつの父親、小さくて弱っちぃやつだったって俺の親父が言ってたぜ」 「じゃあ、こいつは死んだ父親に似たってことか」 「うっわー、最悪」 「これじゃあシュンカンもレッカもかわいそうだよなぁ」 「兄貴がこんなんじゃ、あいつらも大変だな」  丘の原っぱで花を咥えていたら、年上の狼たちに囲まれた。難しいことはよくわからなかったけど、僕のことをよく思っていないのは雰囲気で理解できた。 「花なんか咥えて、おまえ本当弱っちぃんだな」 「おい、こんなやつと一緒にいたら弱いのが移るぜ」 「そうだな、行こう行こう」  年上の狼たちがいなくなってからも、僕は白くて小さな花を何本も口で引っ張って集めた。これはお母さんが大好きな花で、部屋に飾ると喜んでくれるんだ。だけど……。 (もう花集めはしないようにしよう)  じゃないと、たぶんお母さんを困らせてしまう。そう思った僕は、それから一度も丘の原っぱで花集めをすることはなかった。  僕は同じ年くらいの狼たちの輪に入ることができなかったから、お母さんが外に出ている間は弟たちの面倒を見るようにしていた。面倒を見ると言っても、危ないことをしないか様子を見ているだけで何か特別なことをするわけじゃない。  それでも「おまえがいるから安心できる」とお母さんが笑ってくれるから、これが僕の役目だと思って、その日も弟たちと三人で留守番をしていた。 「あぶないよ」  上の弟のシュンカンが棒を咥えて振り回している。それじゃあ近くにいるレッカに当たったらケガをしてしまう。僕はそっと棒を取り上げて、代わりに庭に咲いていた大きな花を頭に載せてあげた。  シュンカンは花が好きで、頭に載せるとワフワフと笑って喜んでくれる。それを見たレッカもワフワフと笑ってくれるから、僕はいつも庭で大きな花を探すようになっていた。  もう一つ見つけていた花をレッカの頭に載せてあげよう、そう思って花を咥えたとき、部屋のドアが開いて父親が入ってきた。 「花なんか載せるな! おまえみたいな弱い狼になったらどうしてくれるんだ!」  父親は咥えていた花を奪い取って床に叩きつけ、シュンカンの頭に載せた花と一緒にぐちゃぐちゃに踏みつけた。  そのとき僕は、これ以上ここにいちゃいけないんだと悟った。 「僕、修行に出たい」 「修行?」 「うん」  その日の夜、僕はお母さんに修行するために家を出たいと話した。まだ成人するのはずっと先だったけど、狼は修行のために群れを離れることがあるからおかしくないと思った。  僕が家を出れば、お母さんはきっと困らなくなる。いまは仲良くしている弟たちにも、嫌われなくて済む。いつもイライラしている父親だって機嫌がよくなるに違いない。  だから、僕が家を出るのが一番いいんだ。 「……おまえはとても頭がいい子だ。父親に似たんだろうな」 「お父さんに?」 「そうだ。あいつは少し体が小さかったが、そのぶん頭が良くていろんな薬を作っていた。それに優しくて、わたしはそういうあいつだったから心底惚れたし、つがいになったんだ」  お母さんの顔がキラキラしてる。本当にお父さんのことが好きだったんだ。そう思ったら、すごくホッとした。 「あの日も……、毒ヘビに噛まれた日も、解毒薬の材料になりそうなものを探しに森に入っていたんだ。強い解毒薬が完成すれば、わたしたちは毒ヘビの多い森にも恐れることなく入っていけるからな。……でも、そのせいで大型の毒ヘビに噛まれてしまった」  お母さんは少し笑ったままだったけど、すごく悲しそうだ。僕はそんなお母さんの顔を見ながら、お父さんはどんな狼だったんだろうと想像した。 「……そうだな、このまま群れにいても、おまえにとっていいことは少ないだろう。成人すればわたしが守ってやることもできなくなる。その前に外に出るというのも悪くない」  お母さんが考え込んでしまった。もしかして、僕が言ったことで困らせてしまったんだろうか。いいことを思いついたと思っただけで、お母さんを困らせたかったわけじゃない。  やっぱり修行に出るのはやめると言いかけたとき、お母さんが「そうだな」と僕を見た。 「トウカ、医者になりたいか?」 「ええと、お医者さん?」 「そうだ。お父さんと同じ医者だ」  お父さんと同じ……、それはとても素敵なことに思えた。  僕はお父さんのことを知らないけど、お母さんが大好きになったお父さんと同じことができるのなら、すごくうれしい。それに体が小さい僕でも、お医者さんにならなれるかもしれない。 「僕、お医者さんになりたい」  そう返事をしたら、お母さんはとてもうれしそうに笑ってくれた。  それからすぐに修行に出る準備をした。  カバンには念のための保存食と、お母さんがくれたきれいな模様が入ったペンを入れる。このペンは、お父さんがお母さんにプレゼントしたものだって教えてもらった。お医者さんになるなら必要だろうって、とても大事なものなのにお母さんは僕にくれたんだ。  僕が修行に出るって決めてから、父親はとても機嫌がいい。やっぱり家を出ることにしてよかった。  そうして七日後、お母さんが作ってくれたお弁当を鞄に入れて家を出た。  僕が向かうのは丘から少し離れた国境の森だ。そこには有名なお医者さんがいて、狼の弟子が何人もいるんだってお母さんが教えてくれた。それに、お父さんも少しだけ薬のことを教えてもらった人らしい。  それを聞いて、僕はとても楽しみになった。だって、お父さんと同じ先生に教えてもらえるなんて素敵だって思ったんだ。  浮かれていた僕は、森の近くまで送ってやろうと言った父親が、お医者さんのいる西側の森とは反対のほうに歩いていたことに気がつかなかった。「あれ?」と思ったときには二つの国の国境に近い森の中にいた。「同じ国境の森だ、あとは自分でなんとかしろ」と言って父親が消えたあと、しばらく途方に暮れてしまった。  それから僕は、大きな森の中をウロウロ歩き回ることになった。もともと体のあちこちが弱かったから、すぐに手足はボロボロになって傷だらけになった。  あちこちの毛が抜けて、尻尾だってボロボロになってますます見すぼらしくなった。木の枝に引っかけてしまった耳は内側に血の塊やゴミが付いてしまっていたけど、自分できれいにできなかったからそのままになっていた。  お母さんのお弁当も保存食も食べ尽くして、ずっとお腹が空いてつらかった。途中で見つけた湧水を飲んだけど、それが悪かったのかお腹を下してもっとひどいことになった。  どこかでぶつけてしまった右足がすごく痛くて、気がついたら足を引きずるようにしか歩けなくなっていた。そのときに小指が曲がってしまって、その後、足は元通りに動くようになったけど小指だけは元の形に戻ることはなかった。 「これは、夢だ……。夢なんだ……」  僕が森に置いていかれたのは秋で、木が凍るような冬じゃなかった。だからこれは絶対に夢なのに、全然目が覚める気配がない。  必死に起きようと思っているのに、重い体を引きずるように冷たく凍った地面を獣の姿で歩くことしかできなかった。それはとても恐ろしくて、早く目が覚めて、早く覚めてとたくさん祈りながら歩いた。 「……そういえば、あのときもこんな気持ちだったなぁ」  父親に放置され、体はボロボロになり、どのくらい森をさまよっているのかわからなくなっていたあの日、僕はほとんど絶望していた気がする。  きっと死ぬんだ、僕は一人で森の中で死んでしまうに違いない――それはとてつもない恐怖だった。見つけた洞窟で小さく小さく丸くなって、そのうち頭がぼんやりしてきてうつらうつらした。きっとこのまま死ぬんだと思いながら、ずっと目を閉じていた。 「誰かいるのか……って、おい、こんなところでどうした」  どこか遠くで聞こえたそれは、僕が初めて聞いたラスキエンテ先生の声だった。 「……い、起きろ、おい、トウカ」 「…………あれ?」  先生の声がして、それから体を揺すられているような感覚がして目が覚めた。まだどこかぼんやりしたまま、パチパチと瞬きをする。 「ようやく起きたか。おまえ、うなされてたぞ? …………勝手に祝福のリンゴを食わせていたのが、そんなにショックだったか?」  祝福のリンゴ……? ……そうだった。リンゴジャムに使われているリンゴは魔女の祝福を受けたリンゴなんだって、先生から寝る前に教えてもらったんだっけ。僕が大人になったときから、僕をつがいにしてくれた誕生日の日からずっと、祝福のリンゴを食べさせていたんだって教えてくれたんだ。  先生の弟子だから祝福のリンゴのことは知っている。というより、この国の狼たちはみんな知っているはずだ。僕だって小さい頃に寝物語でお母さんに聞かされていたくらいだ。  人のお姫様に恋をした白い狼の物語、それに登場するリンゴを食べると狼と人でもつがうことができる。  そんな話を聞いたときは「ふぅん」としか思わなかった。だって、僕が人とつがうなんて思っていなかったから。でもいまは、祝福のリンゴがあって本当によかったと思っている。だって、そのリンゴがあれば僕と先生は本当のつがいになれるからだ。  これまでみたいに、ただ触りっこするだけじゃない。先生と一つに交わって本当のつがいになれる――それはとても素敵なことで、僕がずっと待ち望んでいたことでもあった。  だから、リンゴを食べさせられていたことにショックを受けたりはしない。いつも自信満々な先生なのに、眉を寄せて自信なさげな声を出す姿に思わず笑ってしまった。 「ショックなんてありません。僕だって、……先生と交わりたいってずっと思ってたから。だから、すごくうれしいんです」 「……はぁ。おまえってやつは……。そんなことを言ったりして、どうなっても知らねぇぞ?」 「先生になら、何されたって平気です」  先生がおでこを押さえて俯いている。……耳がちょっとだけ赤い、ような気がする。  いつもと違う先生の姿にきゅんとするようになったのは、先生に拾ってもらって割とすぐだったなぁなんてことを思い出した。それに、先生とキスしたいと思ったのだって大人になるより前のことだ。僕がそんないやらしいことを思っていたなんて、きっと先生は知らないに違いない。 「先生、僕、早く本当のつがいにないたいです」  そう言っておでこにある先生の手をそっと退けて、への字になっている唇にキスをした。そうしたらヒゲがチクチク当たって、ちょっとだけ笑ってしまった。

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