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ロマンチスト
虫かごの中で動かなくなった褪せた茶色の翅。それが羽化する前までは皆大切にそれを育てていた。だがそれが美しくないものだと知ると興味を無くしたように『お前が面倒みろよ』と陽向に押し付けたのだ。
「…ごめんね」
か細い声で名前の無いその子に声をかける。悲しくはない。陽向だってそれが美しくないものだったから残念に思っていたのだから。
学校の裏、少し行ったところに薮がある。そこに穴を掘って、せめて埋めてあげようとは思ったのだ。穴を掘って、後はその子を埋めるだけだったが陽向は虫に触れない。かと言って虫かごの中身全てひっくり返すのも違う気がした。
どうしようかと迷っていると、「何してるの」と声をかけられた。振り向くと、同じ学年の雨辻和一がランドセルを背負って立っていた。
それが陽向が和一と言葉を交わした最初の日だ。
彼は陽向が困っていることに気がついて何も言わずに駆け寄る。
「虫、触れなくて…」
「死んじゃったんだ。この穴に入れるの?」
「…うん。」
和一は優しい手つきでその子を拾い上げてそっと穴の中に寝かせる。そして二人で土をかけて、そこら辺に生えている野花を供えた。きっと浮かばれたはずだと陽向はじんわりと胸が暖かくなった。その隣で穏やかに手を合わせる礼儀正しい少年の横顔は陽向に憧れのような感情を抱かせた。
「―ちゃん!ひーちゃん!起きて」
肩がガタガタと揺すられる。ゆっくりと開けた視界の先には汗をかいたグラスと太い腕。間接照明は焦点が合っていないせいで二重にも三重にも見えた。
今日の予約の客は全て捌き終え、陽向は酒を一人寂しく飲んでいた。考えることが多すぎていつもよりペースが早かったのだろう、カウンターで堂々と眠っていたようだ。
「……あれ、俺寝ちゃった?」
「そーよ。強くもないのに馬鹿みたいに飲まないで」
呆れたように健二郎はため息をついた。そして直ぐに水の入ったグラスを陽向に渡した。
「ありがとう。」と一言告げて、陽向はそれを喉に流し込む。冷たい液体が体に染みて、陽向は今日一番聞きたかった事を口にした。
「…和、どうしてる?まだ怒ってた?」
陽向は和一とその嫁に酷い態度をしたきり会っていない。嫁の方はどうだって良かったが、和一との関係がこれ以上悪化すると何かと気まずい。顔を合わせる度そんな思いはしたくない、ただそれだけだ。
落ち着きなく陽向はキョロキョロと視線を巡らせて健二郎の言葉を待つ。出来れば"もう気にしていなかった"と言って欲しいものだ。
「それは本人に聞きな。…これからあたし、出かけるから」
「え?…店どうすんだよ」
「和一に頼んでる。ま、一時間くらいしたら帰るから」
「………え〜。」
噂をすれば、和一が裏口からやってきたようだ。薄情にも健二郎は「じゃ!」とウィンクを飛ばしさっさと裏に引っ込んでしまう。そして入れ替わるように和一がカウンターに立った。
「………」
「………」
まず和一は陽向がいることを確認すると、何とも言えない微妙な顔をして視線を逸らした。別ににこやかに接しろ、とまでは言わないが少しくらい普通の対応をして欲しいものだ。それなら陽向も大人の対応が出来る。
「…………」
無言の時間は諍いを始めるよりはマシだ。今日の陽向は無理に絡みに行く勇気はない。それは"痛い目"に合った後だから物事に慎重になっているのだ。
「…なにか飲むか」
「…あ、うん。」
沈黙を破ったのは和一で、陽向は拙くそれだけ返した。何故こんなにも不自然に体がソワソワするのかは分からない。手際よくカクテルを作る男は見慣れている。そして陽向の好きなマルガリータを差し出した。
和一は変わらず眉間にシワが入っているがこれは譲歩されているのだ。謝るならここしかないだろう。
「和〜、その、…」
陽向は中々『ごめん』の一言が言えない。その切れ長の目がこちらに向けられたなら尚更だ。ポリポリと頭を掻いて、品なくマルガリータをごくごくと喉に流す。酒の力を借りなければ陽向は謝ることすら出来ないのだ。
「この間は…あの、なんだ…ごめんな」
視線を下げたまま、モジモジと情けない謝罪をする。体に酔いが回って顔が焼けるように熱くなるのだ。変な汗まで吹き出してくる。ちょうど店のBGMが途切れ、陽向は不安になって和一に視線を向けた。
どうしていいのか分からない、そのような顔をして和一も視線が下を向いている。
「…何かの聞き間違いだろうか」
「はあ?んだそれ」
「お前が俺に謝るなんてこと今まで無かったからな」
「別にそんな事ねーだろ。俺は悪いと思ったらちゃんと謝るから」
「…どうだか」
再び険悪ムードになりそうで、モゴモゴと落ち着かない口元は次の言葉を必死で探している。好感度は上がらずとも、気まずさは取り払っておきたい。
「えーっと、だから!…俺別にお前と喧嘩したい訳じゃねーのよ」
「まあ、それには俺も同意見だが、外崎が一体何に謝っているのか分からない」
「そりゃ、お前を侮辱したこと?」
和一は再び眉を寄せ首を左右に振った。和一は自分の事より玲実に対する態度について謝罪を求めているのだろう。その黒い瞳に再び軽蔑が滲む前に陽向は口を挟んだ。
「悪いけど、お前の嫁には謝んないから」
「…疑問なんだが、なんだって彼女に不必要に絡む?…あの噂は本当だったのか?」
「あの噂?なんの噂よ」
「お前が人のものを取るのが趣味っていう噂だ。」
「………あー、なるほど。昔そんな噂あったね…ってまさか俺が和の嫁を寝取ろうとしてると思ってる?」
疑いの目、…和一はあからさまに何か勘違いしているようだ。確かに学生時代そのようないざこざに巻き込まれたことがあった。当時陽向に気があった女が、今いる恋人と別れるため付き合ったのだとホラを吹いた、それが発端だったように思う。
「違うのか」
「違う。俺、金以外で人のものキョーミ無いから」
「…確かにそれは説得力がある。」
普段スウィンドーで陽向の行動を目撃しているからか、和一は納得したように頷いた。だがそれは陽向が玲実を寝とるつもりがないと言うだけで、嫌がらせの理由にはなっていない。「じゃあ尚更なんであんな事した」と和一が疑問に思うのは普通のことだ。
「…えっと、単にムカついてたんだよ。…お前に結婚なんて似合わない」
言葉を選ぼうとしているがどうしてもそこに嘘はつけなかった。和一はムッと口を曲げて「お前に関係ない事だ」と切り捨てる。何故かそう言われて胸の奥がジクジクと痛むが、きっと酒のせいだろう。また視界にそのリングが光るせいで、仲直りしようとしていたのに邪魔をされる。
「あっそ、確かにかんけーないね。でも俺が文句言うことも関係ない。」
「…お前なあ―」
「ただいまぁ〜!帰ったわよ〜!」
上機嫌な声が和一の言葉を遮った。どうやら健二郎が早々に帰ってきたようだ。陽向はその声にホッと胸を撫で下ろした。くるりと椅子ごと後ろを向くと、健二郎はウキウキで両手に袋を抱えている。そしてそのすぐ後ろに、つい最近会ったばかりの高身長の男が花束を抱えて立っているではないか。
「叔父さん、今日はもうラストオーダーの時間が…」
「もう!いいのよ!和一、裏からペンと紙持ってきて」
「…はいはい」
和一は呆れたように裏に引っ込んだが、取り残された陽向は目を合わさぬよう視線を逸らした。健二郎は「アタシ荷物片付けてくるわ!」とドタドタと和一に続いた。
(なんでケンジくんとこいつが一緒にいるんだ…?)
「陽向さん、知らんぷりなんて傷つきます」
阿形雨音はそう言いながら陽向の隣に腰掛けた。そっと陽向の腕を人差し指と中指で歩き回ってちょっかいをかけてくる。それでもそっぽを向いた陽向の頬を軽く突くのだ。
「…調子にのんな」
「えへへ、やっとこっち見ましたね」
あのクソダサメガネの奥、いたずらに笑う雨音は可愛らしい花束を「どうぞ」と陽向に手渡した。赤やピンク、白などの色鮮やかな花は綺麗だ。だが正直貰って反応に困る。
「えーっと?…なんのつもり?」
「あなたを惚れさせたくて」
情熱的にその両手は陽向のフラフラとした手を握る。その時陽向は『直ぐに飽きる』だろうという考えに疑問を持った。
「…あらヤダ…」
何かの雑誌とペンを持ったまま直立する健二郎は、口元が明らかに緩んでいる。その後ろで少し驚いたような顔をした和一が見えて、陽向は(しまった!)と握られた手を振りほどいた。
「なに?ひーちゃんレインとそういう仲なの??」
「はあ?ちげーよ。つーかレインて何」
聞きなれない名前に眉を潜めると、健二郎はその目をガっと見開いて声を裏返す。
「ええ!?レインよ!あんた知らないで手繋いでたわけ?」
陽向は大袈裟な反応の健二郎に肩をすくめると、「なに?ケンジくんこいつのこと知ってるの?」と雨音に視線を向ける。すると健二郎は手に持っていた雑誌をバッと陽向の目の前に突き出した。そこには阿形雨音が気取ったポーズで表紙を飾っている。
「阿形レインよ!!月曜日の『指の行先』の主演よ!?うそだろ!?あんたどんだけ疎いのよ〜!!本業はモデルだけど多彩な演技とその甘〜いマスク、可愛い笑顔!女だけでなくあたしもイチコロよ〜」と捲し立てるように健二郎は説明する。前のめりになって、余程そのレインとやらが好きなのだろう。
「…は、はあ。そうなの?」
陽向は健二郎の勢いに押され、今一状況が掴めていない。だが隣にいる阿形雨音がそこそこ有名な芸能人だということは分かった。陽向が雨音に視線を向けるとわざとらしく恥ずかしがってみせる。
「…言おうと思ってたんですけどタイミングなくて…あ、その雑誌にサインすればいいですか」
雨音は健二郎の雑誌にスルスルとサインを書いた。油性ペンがキュッと音を立てて止まる。それを健二郎に「どうぞ」とにこやかに渡すのだ。
「陽向さんは俺のサイン要ります?」
「バカ、いらねーよ。調子乗んな」
正直クソダサメガネのせいか、本当にこいつが人気があるのか疑わしい。確かにしょんぼりとそのでかい体を縮こませているのは愛嬌があるとは思うが。
「やだあ、『陽向さん』だってぇ〜。可愛い〜。ちょっと和一も『外崎』じゃなくて『陽向』って呼んだらァ??」
健二郎は酒も入っていないのにウザ絡みを始める。それ程雨音に会えて嬉しいのだろうが、甥が複雑そうな顔をしていることに気がついているのだろうか。
「すみません。…叔父があなたのファンだったみたいで少しテンションがおかしいみたいです」
和一は眉を寄せながら雨音にそう詫びを入れて、健二郎をギロリと睨んだ。
「いえ、俺は構いませんよ。この店に用事があったので」
雨音は陽向に「ね?」と謎の同意を求める。覗き込むように彼は意味深に微笑むと、それにまた健二郎が悲鳴を上げるのだ。その五月蝿さに陽向は耳を塞いだ。
(せっかく和と話が続いてたのに…)
和一は雨音に対してにこやかに接しているが、何故それを陽向に向けないのだろうか。熱い視線に気がついた和一はちらりとこちらを見て直ぐにそっぽを向く。彼はいつだってそうだ。高校の時も今も…友達候補にもなり得ない、そう言われているようで胸の奥が針で刺されるように痛くなるのだ。
(あー、この感じ…嫌)
「…俺帰るわ。余ったら明日返して」
和一に一万円差し出して、雨音がくれた花束片手に陽向は気持ちがこれ以上落ち込まぬようさっさと退散することにした。
(…コンビニにも寄れねえ)
左手に握られたそれを陽向は疎ましく思う。ネオンライトで何色かも分からぬ花に罪は無いとしてもだ。
周りは陽向と同じように酒に犯された人間がフラフラと歩き回って、一時だけ現実を忘れる。
「陽向さーん!」
と背後から声をかけられ足が止まると直ぐにそいつは追いついた。さり気なく肩に手を置いてその感触を確かめるように軽く指に力を入れる。その手を振り払うと陽向は距離を取った。
「お前しつこいよ。怖いんだけど」
「俺、あなたに会いに行ったのにすぐ帰っちゃうから…」
「それはお前の都合だ。」
「もー、怒らないでくださいよ。そうでもしないとあなたは逃げちゃうでしょ」
人目をはばからず雨音は陽向の腰を撫で回す。この男は相当手馴れているのだろう。女に困らなそうな男が何故陽向に固執するのか分からない。それに芸能人ならば男にベタベタとしている所を撮られでもしたら大変だろうに。
「うぜぇな。…つーか大丈夫?撮られたら大変でしょ」
「うーん、確かにそうなんですけど…好きな人にはどうしても触りたくなるんですよね。俺も頑張って抑えようとしてるんですけど…」
(…う、俺こういうの弱いんだよなあ)
好き、と真っ直ぐに伝えられると単純だが心が揺れ動く。それを見破ったのか雨音はふっと不敵に笑うのだ。ようやく少し離れた身体に陽向は胸を撫で下ろした。
「…そう言えばなんでケンジくんと一緒にいたの?」
「ああ、俺がスウィンドーの道を偶然彼に尋ねたんです。まさかオーナーだとは思ってなかったけれど。…そう言えばもう一人のあの人、陽向さんのお友達ですか?」
「あー?和?…友達じゃねーよ」
陽向は自らそう口にして胸がまたムカムカしてきた。さっさと家に帰って早く寝なければ、この嫌な気持ちを引きずったまま過ごさなければ鳴らないだろう。
(くそ、どうしたら普通に喋れるんだろ。こいつとは話せるのに…って)
一メートル程進んで隣を見ると、雨音が付いてきていないことに気がつく。振り返ると、彼は寂しそうに眉を下げて立ち尽くしている。思わず駆け寄ったのは無意識だった。
「おい、…どうかした?」
「…いえ。なんでもないですよ。俺こっちなんで。」
「…あー、そっか。そういえばそうだったな」
名残り惜しい、彼はそう言いたげにきゅっと唇を結ぶと口を噤んだ。「何かあるならハッキリしろ。」、その言葉に雨音は純粋な瞳をこちらに向ける。
「あなたが好きです。…だからまた会いに来てもいいですか?」
それに陽向は「…ま、まあ。」と曖昧に返してしまう。ハッキリしないのは陽向の方であるが、雨音は嬉しそうに「じゃあまた伺いますね!」と手を振って振り向くこと無く帰っていくのだ。
(……参ったな…)
陽向は貰った花束をぼんやり眺めて、とぼとぼと自身も家に帰ることにした。何故か心臓がバクバクと脈打って落ち着かない。やはり早めに眠ることが良さそうだ。
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