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悪手

今日は不愉快の原因が居ない。それなのに和一の眉間には深くシワが刻まれている。 「…ありがとうございました」 その声もいつも以上に沈んで客の背中に届きそうもない。真面目な和一が仕事にまで支障を来す原因は、ついこの間籍を入れた玲実の事だ。 『ごめんね、今日も残業なの』 そう届いたメッセージはいつもの事で、和一が不安を抱くことなどなかった。いつも通り自宅のパソコンで一人仕事をして、軽く仮眠を取って後は叔父の店を手伝いに行くだけ。 ふと目についたのは、少し隙間の開いたウォークインクローゼット。和一が閉めようと手をかけた時、その隙間の奥でキラリと光るものがあった。普段ならば気にもしないのに、今日に限ってわざわざ中に入ってそれが何か確認してしまったのだ。 ただ、その日たまたま何かの拍子に指輪を外さなければならない事があって、そしてたまたまつけ忘れただけ。 (くそ、外崎が変なこと言ったからじゃないのか…) グラスを洗いながら和一はため息をついた。ちょうど客がいないからできる事だが、職場に私情を挟むことはあまり望ましくない。 静かなピアノの音は、和一に思考の余地を与える。それはとても気分を落ち込ませる考えだ。客さえ来てくれれば少しは気が紛れるのだが、今のところそのような気配はない。グラスを磨き始めた時、ようやく店の扉が開かれた。 「いらっしゃいませ…って、あなたは…」 スラリとした長身、一見地味に見えるがセンスのいい服装、男は被っていた帽子を脱いで一礼する。 「こんばんは。…今大丈夫ですか?」 「はい、こちらの席にどうぞ」 阿形レインとかなんとか健二郎が騒いでいたか、彼はゆったりとカウンターの席に腰を下ろした。愛想の良い笑顔と綺麗な姿勢はやはり芸能人という感じだ。 「この間はうちの叔父が失礼しました」 「いえ!とんでもないです。メガネを掛けていてバレたこと無かったので驚きはしましたけど、純粋に嬉しかったですよ」 人間もよく出来ているのだろう、彼はファンサービスもいいらしい。 おしぼりを差し出し、彼は長い指を布で包む。無骨な和一とは正反対、という印象である。 「何になさいますか?」 「あ、えーっと…あんまりこういう所来たことなくて…何か飲みやすいものがあれば」 「かしこまりました。」 和一はロングタンブラーを取り出して早速作業に取り掛かる。氷を素早く入れ、ジンを半分、トニックウォーターを注いでライムを絞り…手馴れた作業を淡々とこなし、あっという間に完成だ。 彼はそれを口に含むと「美味しい」と愛嬌ある笑顔を向ける。 「そういえば、今日は陽向さん来てないんですか?」 「ええ。そうみたいですね」 今日は間切されたカーテンが閉じたままなので予約が入っていなかったのだろう。それとも陽向を崇拝している信者に金をせびっているか。 「…残念だなあ…。和一さんは陽向さんとお友達なんですか?」 「…友達という訳では無いです。」 「じゃあ恋人?」 その突拍子もない問いかけに、思わず和一は顔を顰めた。 「俺、一応結婚してます。彼とはただの同級生で」 一体何故そのような発想になったのかは分からないが、和一はしっかり否定した。それを見て彼は「なぁんだ、良かった」と呟いた。 (…何が良かったんだ?) その疑問を解消するかのように、彼は少し俯いてジントニックを一口。 「俺、あの人のこと好きなんですよ。」 「…えーっとそれは…」 「友人とかじゃなくて、あの人を恋愛対象として見てるんです」 まだ会って間もない和一に何故そのような事を話すのか理解できない。最近の若者は、もしかしてそのように軽く人に話せるものなのだろうか。 「…そうですか。」 「あれ?驚かないんですね。偏見あんまり無いんですか?」 「…まあ」 驚いていない訳では無いが、陽向に限ってはありえない話ではない。彼は学生の頃から様々な噂の中心人物だったので、その中の一つに『外崎は女も男もイケる口』というものがあった。だから意外でもなんでもないのだ。それにどこか妙な色気がある、と一部の男子生徒が言っていた事を思い出す。 (いや、…だからといって噂を鵜呑みにしてはいかんな)と真面目に自分を戒めた。 「同級生、ということはあの人の好みとか知ってますか?」 「さあ?…本人に聞いた方がいいかと」 「そうなんだけど、あの人はお金って言うじゃないですか」 (…確かに) 彼はしょんぼりと肩を落として落ち込む。それを気の毒に思って、和一は「分かっているならやめた方がいいと思います」と助言した。彼のように容姿も良くて有名で、才能溢れる若者がわざわざ人を騙して生活するような人間と関わるのはマイナスでしかない。 「それでも好きなんです。和一さん、お願いがあります。どうか俺と陽向さんの仲を取り持ってくれませんか?」 真っ直ぐに向けられる顔に思わず視線を逸らす。そのお願いは和一には荷が重い。そもそも人にどうこう言える程手馴れていない。 「いや、俺は…」 「お願いします!」 断ろうとした和一の言葉を遮るように彼は頭を下げた。そんなことをされても和一は困ってしまう。あまりそれが表情に出ないが、内心(どうすればいいんだ)と慌てふためいているのだ。 「俺は何も出来ないぞ…あいつと仲良くないし…」 「うう、そうですよね…。すみません、いきなりこんなこと言って」 酒のせいかもしれないが、彼はぐす、ぐす、と鼻をすする。気まずい沈黙は苦手だ。考えが纏まっていないのにそれを破りたくなる。大体そのような時に行動すると悪手であることが多いが放っておく訳にもいかない。 「…分かったから顔を上げてくれ」 「協力してくれるんですか?」 彼は濡れた瞳をこちらに向ける。外崎陽向が余程好きなのだろう。このまま帰るまでめそめそされるのは和一が嫌だ。 「…止むを得ずだが」 「よかったぁ」 「じゃあ早速ですけど…連絡先交換しましょう?相談乗って欲しいので」とスマートフォンを差し出す男は薄らと口元を引き上げて微笑んだ。 それに違和を覚えたが、気にしすぎだろうと言うことにしたのだった。 「いやあ、八尾さんが連れてってくれるお店って全部美味しい」 「君のために調べたんだよ」 陽向は張り付いた笑顔のまま接客中だ。八尾は一年ほど陽艶時のところに通う常連客で、今日は『美味しいイタリアンをご馳走するから相談に乗って欲しい』という、言わば店外営業だ。スーツを良く着こなしいかにも金を持っていそうな中年男性で、毎月何十万も簡単に使う。正直乗り気ではないが、今のところ一番金になる客だ。蔑ろにする訳にはいかない。 「ところでこの後の予定はあるのかな?」 「…他の予約が入ってるんですよね。」 「またまたそう言ってはぐらかす。」 馴れ馴れしく腰に回された腕に、陽向は嫌悪感が顔ににじみ出る。やんわりとそれを退かし、「セクハラですよ」と諌めた。 (最近特にしつこいんだよなぁ) 初めは金払いが良く紳士的で扱いやすい客だったが最近はその目的を隠さなくなっている。あと数十メートルでスウィンドーに着くのでそれまでの我慢だ、そう思っているといきなり腕を力の限り引っ張られ薄暗い路地裏に連れ込まれる。 ギラついた目は紳士的な面影などないただの雄だ。ギリギリと爪が陽向の手首にくい込んで痛いが、振り払っても中々外れない。 「えっと、冗談キツいっすよ…。」 「君も望んでたろ?」 八尾は荒い息を吐きながらニタニタと気持ちの悪い笑みを浮かべる。陽向は最悪その股の間を蹴り上げる準備を始めた。 「…はあ?きっしょいこと言ってんじゃねーよ」 「抵抗したら君が詐欺師だって世間に公表しようか。僕はこう見えてメディア関係に顔が広くてね。」 (…ぐ、それは困る。) 引き攣った表情を読み取った男は「だったらどうすべきか分かるよね」と勝ち誇ったように恍惚する。(最悪だ)と気分が落ち込みかけた時、ほうき片手に仁王立ちする人影が現れた。 「おい、こんなとこで何やってる。」 「か、和…」 低く抑揚のない声は怒っているのか呆れているのか分からないが、陽向にとってとても有難いものだった。 「合意には見えないが…どうなんだ外崎」 「合意だよね?」 八尾は陽向に合意を求める。なんて卑怯な奴!と自分を棚に上げて睨みつけた。ここで合意でないと言えば世間に詐欺師だとばら撒かれるかもしれない。それは絶対に避けたいが、かと言って客と寝て得た金は陽向にとってゴミ屑だ。 「とりあえずその腕を離せ」と和一はジリジリ距離を詰める。間合いの取り方はさすが元剣道部と言ったところだろうか。ほうきを竹刀のように持つ姿は凛々しく美しい。 その姿を見て陽向の脳裏に思い浮かんだのは、高校時代の記憶だ。部室で剣を振るう彼を何故か陽向はよく目で追っていた。それは誰といても、なにか別のことをしていてもだ。面を被っていようがいまいが、それが和一だとすぐに分かるくらいには。 (なんか、…随分前のことのように感じるもんなんだな)と懐かしさで胸が絞られる。 陽向の意識が過去に向いている間に、八尾は諦めたのか陽向の腕を離して、「…君、覚悟しときなさいね」と捨て台詞を吐いてその場を去った。 ヘナヘナとしゃがみ込んだ陽向に、「大丈夫か?」といつもより優しい声色で手を差し伸べた。それを素直に握ると、何故かとても安心した。ゆっくり体を起こして目線の高さが近くなると、彼の瞳を見ることは出来ない。 その手のひらが当たり前に離れていくが、陽向の指先は無意識にそれを追っていた。だがすぐ光る指輪が目に入って、行き場がない指を丸め込む。 「…血が出てるな。あの男どれだけ爪たててたんだ。とりあえず店に絆創膏位はあったと思うから、さっさと行くぞ」 和一の言う通り、陽向はその背中の後を追った。 『お前、…嫌な奴だな』 渋い顔をしてそう言った彼に、当時の陽向も素直に『おめでとう』が言えなかったのだ。それは周りに和一の友人達がいたからだけではなく、恥ずかしかったのかもしれない。だからといって、何も言わない選択肢は陽向にはなかった。『周りが大したことなかったんじゃない?』彼が大会で優勝したと聞いた時、陽向も本当は嬉しかったのに口をついて出た言葉はいつもの皮肉だ。 簾のように俯いたまつ毛は、近くで見ると意外に長い。男らしい彫りの深い顔は相変わらず眉を寄せてはいたが、その無骨な手は優しく絆創膏を傷口に貼る。まだ営業まで随分時間があるからか、和一は陽向を椅子に座らせてコップ一杯の冷えた水を手渡した。 「和、悪かったよ、巻き込んで…」 「…謝られても困る。偶然通りかかっただけだしな」 和一は「掃除するから、落ち着いたら帰れ」といつもの素っ気ない態度でキッチンに引っ込んだ。それにまた気分が落ち込んで、実に心細くなる。貰った水を口に含んで飲み下すが、チラチラとその背中を探してしまうのだ。 「和ー?」 陽向は不安を解消したくてその名前を意味もなく呼んだ。「…なんだ。」と少し面倒くさそうに頭を出した彼に、次の言葉を適当に探す。 「俺もなんか手伝おうか?」 「遠慮する。」 和一は即答してまた奥で作業を始めた。長く会話が続けられないのはいつもの事だ。彼は根本から陽向と関わりたくないと思っている。 「和?」と性懲りも無く呼びかけると、大きなため息をついて頭だけ見せる。 「今度飲み行かん?…今日の礼も兼ねてさ!」 「…悪いが」 陽向は断られる事を分かっていたので、逃げるように「明後日お前休みじゃん!良い店予約しとくから!時間はケンジくんに言っとくね!」と店を後にする。きっと来るだろうと淡い期待を抱いて。 「いやあ、今日も流石だったよ。こりゃまた話題になるぞ〜」 静かな車内、弾んだ声で話すマネージャーの飯田は雨音の疲れた様子に気が付かないで話し続ける。それに「そうですかね」と気のない相槌をうって、窓の外の流れる光をぼんやり眺めた。 (…あの人に一週間も会ってない) 雨音は少し不機嫌に眉を寄せる。最近ドラマの撮影やらなんやらでなかなか時間が取れていない。その間に心変わりされても面倒だ。 (まあ、相手は既婚者だからそこまで焦る必要は無いのかもしれないけど) 「―にしても、まいちゃん!あれ絶対レインに惚れてるよ。頼むからスキャンダルは止めてな」 飯田にそう言われ、雨音は(誰があんな尻軽。)と心の中で唾を吐き捨てた。だがスキャンダルに関しては心に引っかかるものがあるのは確かだ。もし雨音が男を好きで、更にそれが詐欺師となると色々大変なことになるだろう。きっとこの仕事を続けることは難しくなる。それだけは避けなければならない。 (金がなければ見向きもされなくなる…。) 「…もちろん、分かってますよ。俺今仕事楽しいんで」 世間が求める爽やかな笑顔を浮かべて、お利口にしている。そうすれば大抵上手く事が進むのだ。今日は時間が出来そうなので、陽向に会いに行くつもりだ。カバンからあのダサいメガネを取り出し躊躇いもなくかける。 「飯田さん、いつものとこで」 雨音は大通りで下ろしてもらうと、早足でスウィンドーに向かった。 扉を開けた時、雨音はガッカリした。それは間切された紫のカーテンに吊るされた『CLOSED』の看板のせいだ。 (スマホでちゃんと確認すればよかった…)と後悔する雨音に 「いらっしゃいませ」と恋敵が挨拶をする。今日はどうやら先客がいるようで、雨音はそこから一つ開けた席に案内された。座ると同時にその先客は早速絡んでくる。 「何〜?君、見ない顔だねぇ」とテンション高めのサラリーマン風の男に雨音が抱いた印象は(胡散臭い)だった。 「おい、やめろ。…すみません」 和一はすぐに詫びを入れてその男を睨みつける。それに動じることなく男は「いいじゃーん、話し相手いないんだもの」と軽口を叩いた。 「お知り合いなんですか?」 雨音の問いかけにあからさまに和一は眉を寄せる。顔に出やすいのは接客としてどうなのかとは思うが雨音には都合がいい。陽向がいないのなら、周りから固めていくべきだ。 「…いや、」 「マブのダチじゃーーん?高校も一緒だったし」 「やめろ。…何にします?」 どうやら彼らもまた同級生らしい。その関係値は目に見えて溝が深そうだが。雨音はとりあえずこの間飲んだ酒を注文すると、隣の騒がしい客に声をかける。 「じゃあ、陽向さんとも知り合いですか?」 「うん、そーだけど。君、陽向の知り合い?」 ガシャン、と和一が分かりやすくトングを落とす。きっと彼は雨音が陽向への好意をペラペラ話してしまいそうに見えたのだろう。 「はい。俺、あの人に世話になってて」 「へぇ〜!あ、俺陽向のマブのマブダチだからなんでも聞いていいよ」 「んん〜、じゃあ陽向さんって学生時代どんな人でした?」 「今とあんまり変わんないかも。お金大好きで、人にあんまりキョーミないと言うか。あ、でも一人例外もいるんだっけな?」 ニヤニヤと唇を釣り上げてからかうようにその男の視線は和一に向けられる。それに気がついているのかいないのか、和一は酒を作って雨音に差し出した。雨音はそれを受け取って、だが話を止めるつもりは無い。 「例外って?」 「え〜?それ聞いちゃう?」 回りくどい男に、雨音は「もしかして和一さんだったりして」と笑顔を作る。内心穏やかではないが、まだお利口でなければならない。自分に話の焦点を向けられ、戸惑ったように俯いた和一は一体どのような心境なのか。 「え!なんで分かった?まだあの癖治ってなかったんかあ」 「…癖?」 「雨辻君をずーっと見る癖。チラチラ恋する乙女見たいに〜?まあでもお前は気づかんよなあ〜」 男はわざとぱちぱちと瞬きをして両手を胸の前でぎゅっと結んだ。それはただ酔いが回って見境が無くなっているのか、元々の性格かは分からないが、和一にとっては不快そのものなのだろう。 「山下、お前酔い過ぎだ。今日はもう帰れ。他のお客様のご迷惑になる」 和一は山下と呼ばれたその男の両脇を抱え、半ば無理やり退店させようとする。彼は抵抗することなく「はいはいわかったわかった!陽向によろしく言ってな〜」とあっさり帰っていった。 当日何を着ていくか、かれこれ三十分も時間が過ぎている。クローゼットの中、ハンガーに掛けられている服は三着ほどで、どの服も"いつもの"ワイシャツやジャケットだ。 「うーん、ネクタイで違いを出すか?…いや、飯食いに行くのにネクタイはなあ…」 このワンルームは誰が見ても陽艶時の部屋だとは思わないだろう。狭くはないが、荒稼ぎしている人間のそれでは無い。 クローゼットにテレビ、ベッドにテーブル。どれも大したものではない。この部屋の中で一番高いのは仕事用のジャケットくらいだ。 (こんなに張り切って準備して、和が来なかったら笑えるよなあ)と自嘲して、決まらぬままクローゼットを閉じる。和一が貼ってくれた絆創膏が気になって仕方がない。何の変哲もない茶色いそれに、何故こんなに気が行くのか。 (変なの。) 服は当日決めることにしよう、陽向はそのままベッドに転がると、明日の予約の状況をスマートフォンで確認した。そこそこ占いの予約が入っているようだ。 「お金お金〜」と機嫌を治して、ほんの少し胸の痛みや不安が和らいだ。やはり金は裏切らないと常々思う。他人から見たらさもしい奴だと言われるだろうが、生きていく上でそれは必要不可欠である。 「よし、なんかやる気出てきた」と大きな独り言を吐いて、明後日を楽しみにすることにした。

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