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第5話
ぺちぺちと頭を叩かれて我に返った。
顔を上げると黒澤が心配そうな顔をしていて、見えた背景で居酒屋に居ることを思い出した。
「お前、もう帰れ」
呆れた様な声音に身体が揺れて、手にしていたグラスの中のビールにも伝わった。
「気が乗らねえなら断わりゃ良かったんだよ。調子良くねぇのに」
黒澤の表情があの夜の凛太郎に重なって見える。
「…おい、有坂?」
自分が居るとその場の雰囲気を壊してしまう。そう思い込んでいたあの頃に戻ったようだ。
「お前、ちょっと来い」
腕を掴んだと同時に立ち上がった黒澤は、玲の身体を一瞬浮かせた。
「正直に言え」
賑やかな居酒屋から出された玲は、店の前で仁王立ちする黒澤に睨まれた。
「お前から話して来ねぇから黙ってたけどよ。ここ数日ミスは多いし、ずっとぼんやりしてるだろ。飲みの席で泣きそうな顔で俯く位なら、全部話してみろ」
言えるわけが無い。自分の醜態を話したくなくて親友を怒らせたなんて。どう考えても他人に話すような内容じゃない。ましてや、黒澤は玲が迷惑をかけた当事者だ。
「…あの、皆さんに謝って先に帰ります」
「そうじゃねぇだろ。俺はそこを怒ってるんじゃねぇ」
あの夜も、こうして凛太郎が怒ってくれたのならもう少し話が出来たかもしれない。けれど、それは玲の甘えだ。人付き合いをしてこなかった自分のせいで、経験を生かして対処するという行動がとれなくて。
凛太郎の顔を見ずに帰ったのに、冷たい目をしている彼の顔が頭から離れない。
悲しいくらいに冷たい沈黙だった。もう、嫌われてしまっただろう。
「あのなぁ、そうやって黙ってても…。おい、有坂?」
自分から連絡をする勇気はないのに、優しい彼ならメールをくれるかもしれないなんて期待して。なんておこがましいんだろう。情けなさと悲しさが、涙となって零れ落ちた。
「だからさ。泣く程辛くなるまで我慢しなくていいんだよ。何があったか知らねぇけど、俺はお前を心配してんだからな?」
店の前は週末前夜で人通りが多いのに、黒澤は逞しい太い腕で強く抱き締めてくれた。
優しくて暖かい。涙で濡れた視界はぼやけていて、夢の中のようだ。眠いけれど、あまり寝たくない。夢の中では辛い場面がエンドレスで続くから。あぁ、でも、凛太郎にはこれでいいのかもしれない。邪魔にならない程度の付き合いが出来れば良いと考えていたけれど、加減もよく分からない。凛太郎と仲のいい女の子達に返してあげなくちゃ。
「あれ、有坂?おい、寝てるのか?…マジか…」
黒澤の声が遠く聞こえる。
玲は自覚するより先に意識を手放した。
意識がはっきりとすると、カーテン越しの明るさに朝だと反応した。布団をよけて起き上がった玲は、全く見覚えのない室内に目を擦った。
家具のない洋室。フローリングの上に敷かれた布団に寝ていたようだ。すぐ側には段ボールがいくつかと、玲が使用した布団が入っていたらしい大きなビニールのカバーが丸められていた。
「…も、しかして」
また、やってしまったのか。
物音を立てないように静かに立ち上がり、洋室の扉をゆっくりと開いた。
顔を出した左手は玄関のようだ。右手は奥へと続く廊下。フローリングや廊下は真新しい。玄関も綺麗で広く、廊下も凛太郎の自宅より幅がある。
玄関には玲の靴があった。それと、見覚えのある大きな黒い靴。間違いない。黒澤が通勤に履いているものだ。
(消えてしまいたい…)
世話になっている上司に恩返しをするどころか、迷惑しかかけていない。しかも、新婚の上司の新居だ。本来ならば、祝いの品を持って来訪すべき場所。
玲は静かに引っ込むと、寝ていた布団の中に戻った。真新しい布団の中に潜り込み、強く目を閉じてみた。夢だったらいいのに。と思ってみても、現実なのでどうにもならない。
玲のリュックもそこにある。このままこっそり帰ってしまうのはどうだろう。なんて、出来もしないことを考えて自分を誤魔化していたが、かすかに足音がして思わず息を止めた。
黒澤か元宮が様子を見に来たのだろうか。今起きたようにした方がいいのか、寝たフリをしていた方がいいのか。悩んでいるうちに扉が開いて人の気配が室内に入ってきた。
布団の端が重みでへこみ、その振動が玲の身体に伝わる。
掛布団がゆっくりとよけられていく。これはもう寝たフリをするしかない。手で目元を隠すようにしてみたが、心臓が煩い。
前髪に触れた手が、そっと頭を撫でた。離れると思ったのに、何度も繰り返し撫でている。
(なんだろう。誰?)
黒澤にしても元宮にしても、どこか違う気がする。
「…やば…。すげぇ、可愛い…」
囁き声が聞こえた。はっきりとした言葉ではなかったが、聞き覚えのある声音。
「凛太郎くん?」
思わず勢いよく起き上がると、驚いて尻もちをついた凛太郎が目を丸くしていた。
「な、どうして君がここに?黒澤さんの新居じゃないのか?」
「合ってる。合ってるけど、落ち着いて」
「はいはい、おはよう、玲くん。ほんで、仲くんはトイレ行くふりして、寝込み襲うなんてやるやんか。しかもオレの家で」
「や、違うよ!なかなか起きてこないし、心配で覗いただけ!」
「襲ったから玲くんが起きてデッカイ声出したんやろ。そもそも、仲くんが原因なんやからな?ほんまに分かってるん?」
開いていた扉から顔を出した元宮と、いつも通りのやり合いが目の前で展開されていく。もしかして、やっぱり夢なのだろうか。ぼんやりと二人のやり取りを眺めていると、廊下から顔を出した黒澤が元宮を軽々と抱き上げて凛太郎から離した。
「有坂。目眩とか頭痛はないのか?」
「え。あっ、はい。ないです」
「なら、とりあえずリビングに来い。トイレは手前。顔洗うならその隣に洗面所あっからな」
お前達は戻れ。と、元宮だけでなく、凛太郎も黒澤に小突かれてリビングへと連れて行かれた。
現状は全く分からない。頭はまだ混乱したままだったが、とりあえずトイレを済ませて洗面所を使った。タオルで顔を拭きながら、青とオレンジの歯ブラシが並んでいるのが目に入って、何故か顔が熱くなった。あの二人は、本当にここで暮らしているんだ。そう実感すると、二人だけの愛の巣に踏み込んでいる自分が場違いで申し訳なくなった。
(凄い…綺麗だし広い…)
夢を見ているような気持ちでリビングへと足を踏み入れると、どこか現実離れした空間のようだ。高い天井と広いリビングには大きなソファが置かれている。
「玲くん、お腹空いてるやろ。とりあえずこれ食べて。悪いねんけど、オレはもう出勤やから行くな」
キッチンの対面式カウンターには目玉焼きが乗ったトーストがあった。湯気のたつコーヒーのカップも用意されている。
「あ、あの、重ね重ね迷惑ばかりかけてすみませんでした」
出かける支度をする元宮に慌てて頭を下げると、優しく微笑まれた。
「心配はしてるけど、迷惑なんて思ってへんよ。だから気にせんでええからね」
元宮はそう言うと元気に出て行った。
「さて。俺はバルコニーで一服してくるかな」
「室内禁煙なんすね」
「汐月が吸わねぇからな。凛太郎、有坂見ててやれよ」
「はい」
黒澤と凛太郎が普通に会話をしている光景は珍しい。酒の席で小競り合いをするのが常なので、変な感じだった。
さっきは驚いて大きな声を出したが、凛太郎に会うのはあの夜以来で久し振りだ。
玲は無言で手を合わせ、いただきますと小声で言った。トーストもコーヒーも美味しい。
そう言えば、昨夜は連れて行かれた居酒屋でろくに食べもせず酒だけを飲んでいたかもしれない。
あれだけ、二度と飲み過ぎないと心に誓ったのに、みっともない事をした。
「…なんで何も言わないの?」
凛太郎の声にカップをテーブルに置いた。
「…昨日から記憶が曖昧だから、まだ現状がよく分かってないんだ。居酒屋で飲んでた所までしか覚えてなくて」
「いや、俺が言ったのはそこじゃないんだけど」
「…え」
先日も似たようなことを言われた気がした。やっぱり自分はコミュニケーションをとるのが下手なのだろう。
「や、ごめん。違うんだ。…玲さん、昨日寝ちゃったんだよ。居酒屋で。様子もおかしいからって、黒澤さんがここに連れて帰ってきたんだって」
それは予想通りだった。そして、夢でもなく現実だった。情けない事実を歳下の友人から聞かされるなんて、恥ずかしい事だ。
「…それで、その。寝ながら泣いてたんだって」
「……俺が?」
頷いた凛太郎は、何故か恥ずかしそうに見えた。
「なんか、俺の名前を呼びながら泣いてたらしくてさ。それで、呼び出されたんだよ」
温かい食事のお陰で上がっていた体温が、徐々に冷えていく。なんて事だ。これ以上ないくらいに迷惑をかけたと思っていたのに、それ以上があるなんて。
「ご、ごめん。意識がない時の事とはいえ、君にまで迷惑かけて…」
「はは。本当に玲さんて読めないなぁ」
真剣に反省しているのだが、笑われてしまった。
「本当に…ごめん。あの、この間の事も…」
いたたまれなくて、つい口から出てしまった。心配して駆けつけてくれた相手に、ついでのように謝罪するなんて。
「あれはさ、俺の勝手な嫉妬だからいいんだ。怒っていいんだよ、玲さん」
向けられた言葉の意味が分からない。嫉妬?なにかそんな話をしていただろうか。
「童貞捨てた話は聞かせてくれたのに、どうしてそこは隠して教えてくれないんだろ。って、俺が勝手に知りたかっただけ。どうしてか分かる?」
どうして。と言うのは、なぜ知りたがったか。という意味なのか。
「俺は…凛太郎くんじゃないから、それは分からない」
「そりゃそうだ」
「でも、俺は話したりするのが上手くないから。凛太郎くんみたいに、楽しい話題もないし」
「待って。それで俺が怒ってると思った?」
「不愉快にさせたとは思った」
まだカップの中に残るコーヒーを見つめてそう言うと、膝の上の手が冷たくなっていった。
こうして話していると、自分は本当につまらない人間なんだとよくわかる。
「玲さん、俺を見て」
突然間近で聞こえた声に顔を上げると、隣に立っていた凛太郎の顔があった。
「謝るのは俺なんだ。…勝手に期待して、予想と違ったからって八つ当たりした。ガキみたいな事してごめんなさい」
床に膝をついた彼が、テーブルの下で握りしめられていた玲の手を包んだ。冷たくなった手の甲から、凛太郎の温もりが流れ込んでくる。
「……お、怒ってないのか」
「怒ってないし、玲さんは俺を怒っていいんだよ。玲さんは何も悪くない。俺が…、勝手に拗ねたんだ。本当にごめんね」
凛太郎は玲の手を掴むと、その手を自分の胸に引き寄せた。
申し訳なさそうな、今にも泣き出しそうな弱々しい顔をしている。彼にそんな表情は似合わないと思った。彼は笑っている方がいい。
「え、っと…。その、な、仲直り…でいいか?」
落胆させてしまうことは多々あったが、仲直りはしたことが無い。どうすれば適当なのか分からず、そう言った。彼と仲違いはしたくない。
「俺を許してくれる?」
真っ直ぐに伝えることが出来る彼は、やっぱり素敵だと思う。
「ゆ、許すも何も。俺…、嫌われたと思ったから」
「嫌われたと思って落ち込んでた?」
「…うん」
「泣く程嫌だったんだよね?俺と…離れちゃうの」
どこかニュアンスが違うような気がしたが、間違ってはいない。
玲が頷くと、突然抱きしめられ、弾みで座っていた椅子がガタンと音を立てた。
「…り、凛太郎くん?」
「玲さん、俺とつきあわない?」
「勿論、いいよ」
長居する訳にもいかないし、と返事をしたのだが、腕を放した凛太郎が見つめてきた。
「…?」
「俺、恋人になって欲しいってってるんですけど」
「…………こ、え?この後、どこかに出かけるんじゃなくて?」
玲は真面目に言ったのだが、凛太郎はくすくすと笑いだしてしまった。
「玲さんは一筋縄じゃいかないなぁ」
「え、あっ、あの」
混乱してしまった玲が確認しようとした時、バルコニーから戻った黒澤に気がついた。
「まとまったのか?」
「ひとまず、仲直りは終わりました。黒澤さん、ありがとうございます」
背筋を伸ばした凛太郎が黒澤に向いて丁寧にお辞儀をするのを見て、綺麗だなぁと感じた。
「ならさっさと帰れよ」
「はいはい。あ、玲さん。俺んち来るよね」
「え、えっと」
「俺ん家なら玲さんの下着の替えもあるし。うちでゆっくり風呂に入りなよ。ほら、荷物持ってきて。じゃ、黒澤さん!俺は今日バイト休みなんで。元宮さんにもよろしく伝えてて下さいね」
「おぉ。喧嘩は程々にしろよ」
黒澤さんに言われたくないですけど。と、軽口をきいた凛太郎に手を掴まれて、朝食の食器も片さずに出てしまった。
週末の朝は空気が爽やかだ。早い時間ではないけれど、流れる空気がゆったりとしている。
気持ちがいいと思えるのは、隣を歩く彼の笑顔をまた見れたから。
「諸々、帰ってからゆっくり話そうね」
にっこりと笑う彼は、今日も爽やかだ。
とにかく、凛太郎の自宅で風呂を借りてから聞き直そう。
恋人になんて聞こえたのは、気の所為かもしれないから。
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