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17歳の診療録

※切ない/戦争/メリバ/ まだ成人にも満たない彼は・・・戦後の数年間をどのように過ごしていたのだろう。 今、縁側に腰を掛け明るい陽射しの中に存在する彼からは・・・何も伝わってこない。 喜怒哀楽と言った、人が持つ感情全てを失ってしまった彼には、話しかけている俺さえも認識出来ていないのかもしれない。 彼の瞳は宙を彷徨い、何処か遠くを・・・俺には見えない世界を映し出してるようにも見える。 医師の免許を持っていた俺は戦時中、陸軍病院で陸軍衛生上等兵として勤めを果たし、戦後は医師不足を理由に国立病院へと移管されたが、もともと精神科医だった俺に予てから希望していた東京の松沢病院へ勤務許可が下りたのは昭和22年の春だった。 そこで初めて担当した患者が多田 智 十七歳だった。 彼がこの松沢病院に転院してきたのは半年前の事で、前任の西宮医師から引継ぎを受けた際、俺は彼の診療録に目を通しながら愕然とした。 最初に彼が見つけられたのは上野駅近くの道端。 明け方、意識混濁の状態で道端に転がされていたのを見つけられ、上野病院に搬送され入院・治療を受けたが、薬物投与の痕跡や日常的に行われていた暴行による精神薄弱が認められ、松沢病院に転院してきた。 上野病院での彼の診療録を見、俺は一瞬吐き気を覚えたのを今でも鮮明に思い出せる。 当時、彼はまだ十六歳だった。 戦争孤児なのだろう。 両親の名はもちろん、緊急時の連絡先も空欄になっている診療録。 その一部だけで、彼の苦難が伺えるが、更に目を覆いたくなるような診断と治療経過が診療録に記載されていた。 頭部から臀部にかけて十三ヵ所の打撲痕。 頸部、胸部、腹部に八ヵ所の刃物痕。 肛門の裂傷並びに腸管損傷からの出血。 肛門裂傷縫合と共に感染予防の為ペニシリン投与。 裂傷部分の経過は良好だが、薬物(塩酸メタンフェタミンと推測される)接種からくる精神錯乱および性的暴行による精神薄弱が認められる。 この記載から分かることは・・・多分・・・彼は戦後、生きて行く為に身売りをしていたのだろう。 否・・・薬物接種の痕跡があったのだとしたら・・・強いられていたのだろう。 彼の口から過去を語られる事はないので、憶測でしかないが。 「ねぇ、智君・・・今日は天気もいいよ?  一緒に中庭に散歩でもいかないかい?」 何処を見るでもなく、彷徨わせている彼の瞳は常に虚ろで。 そんな彼に声をかける。 できるだけ優しく。 落ち着いた声で。 この際、注意しなければならないのは・・・何かしらの返答が彼からあるまで、決して彼に触れない事だ。 俺はベッドに座る彼の目線に合わせるよう腰を軽く折り、もう一度同じ言葉を繰り返す。 「ねぇ、智君・・・今日は天気もいいよ?  一緒に中庭に散歩でもいかないかい?」 「うん・・・」 ポツリと彼が呟く。 漸く、何処を見るでもなく彷徨わせていた彼の瞳に、俺が映し出された。 この松沢病院は開放病棟と閉鎖病棟とあり、比較的安定している患者は開放病棟へ入院となり、今は智君も開放病棟に入院しているが、彼がこの病院に転院してきて半年間は閉鎖病棟で処置を受けていた。 彼は巷でヒロポンと呼ばれる薬を乱用させられていた事による精神錯乱が酷く、拘束と投薬処置が行われていたが薬物依存の症状が緩和された為、開放病棟へと移されてきた。 開放病棟では彼が受けてきた精神的苦痛を取り除き、社会復帰を目指すのが大きな目標となるが・・・安定はしているものの彼の精神は薄弱で。 一度、彼の中に巣食う闇にこちら側から触れてしまうと、酷く怯え混乱してしまう事もあり、注意が必要であった。 だが、俺は彼を再度閉鎖病棟には戻してはなるまいと日々、彼の心の中を探りながら対話をしているのだが、効果は一向に見えてこないのが現状が続いていた。 明るい陽射しの下、中庭をゆっくりと歩く。 その時、必ず彼は何かに脅えるような素振りを見せ、俺の手を握る。 そしてこう俺に訊くのだ。 「ぼく・・・外に出ていいの?」 そう問いながら俺に向けられた彼の瞳は揺れていて、見えない恐怖と戦っているのだと分かる。 きっと彼は・・・狭い部屋に閉じ込められ、外に出る事を許されない生活を送っていたのだろう。 病室以外の場所に行く事を酷く脅える。 だから、俺は出来るだけ優しく、落ち着いた声で 「もちろん、大丈夫だよ。  智君は自由に外に出て、お日様にあたっていいんだ。  智君が好きなだけ、此処で一緒に俺といよう。」 肩を震わせる彼に答え、日当たりの良い樹で出来たベンチに腰を掛けるように促す。 彼の精神は幼くて傷つきやすい。 年齢で言えば十七歳だが、言葉や仕草はまるで小さな子供のようだ。 俺の隣に腰かけた彼はまだ俺の言葉が信用できないのか瞼を伏せ、縁どられた長い睫毛がこんな陽射しの下で彼に影を作っている。 それはまるで彼が抱える心の闇のようで。 影を落とす睫毛が震える度に居た堪れなくなってしまう。 そんな事で動揺していては精神科医として失格だとは分っていながらも、何故か彼にだけは感情移入してしまう俺がいて。 時折、その理由を考えてはみるが・・・未だ明確な答えには至れずにいる。 ただ一つ挙げるとすれば、言葉や仕草だけでなく、まだ成人していないとは言え性別は男性だと言うのにも関わらず、華奢過ぎる骨格と十七歳には見えない幼い顔立ちのせいによるものが大きいと思われる。 実際、怯えて震え出した彼の肩を抱きしめた時、見た目よりも更に華奢で折れそうな程の細さに驚いたし、こうして話しかけてくれる言葉や、その時に見せるあどけない表情は医師と言う立場を抜きに、守ってやりたいと思わせる何かがあった。 「最近、食べれてるみたいだね。  怖い夢を見なくなったせいかな?」 「うん・・・夢はみないよ。」 「そっか・・・それは良かった。  じゃ、夜はゆっくり眠れてるのかな?」 「うん・・・でも、時々わかんなくなる。」 「何がわかんないんだい?」 「・・・わかんない。  でも・・・ぼく、ちゃんとしてるからごはん食べてもいいって。」 如何言う意味だろう? ちゃんとしてるから食べてもいい? 何の事だ? その事にもう少し触れようとしたら 「せんせ・・・あのね、ひみつなの。  ひみつだから・・・ね?」 そう言ってベンチから少し浮いている足をブラブラとさせていたのを止め、視線を俺に移し首を傾げて言う智君に俺は喉元まで出て来ていた言葉を呑み込む。 彼の方から俺に視線を合わせるのは初めての事だ。 そこには何か意味があるはず。 これ以上、踏み込んでくるなと言う合図なのだろうか? それとも、助けて欲しいと言う合図なのだろうか? 俺は此処で一つ目の失敗を犯す。 この時、後者の考えを選択していれば・・・彼を救う事が出来たのかもしれない。 それから、一月程同じような日々を過ごした。 午前中に他の担当患者の診察や治療を済ませ、昼食後の時間を使い晴れた日は可能な限り彼を中庭に誘い、散歩やベンチに腰を掛けたりしながら診察の代わりとなる会話をして過ごした。 ここ最近は以前彼が話してくれた通り、食の細かった彼が食事をきちんと摂取できているので、少し頬がふっくらとし血色もよくなっており、片言ではあるが俺に話す言葉も増え・・・俺は安堵していた。 これが・・・俺の犯した二つ目の失敗だ。 決して多くを語らない彼を、視覚的な要素のみで判断してはならなかった。 彼の内面は複雑で、ずっと耐え難い生活を強いられてきた彼は胸の内を言葉にしたくても出来ないと言う事を俺はもっと思慮すべきだったのだ。 そして・・・あの事件が起きてしまった。 真夜中・・・急患の処置に追われていた看護婦が何時もと違う時間に巡回していた際、彼と彼の同室の患者の姿がベッドにない事に気づき、宿直室にいた俺も呼ばれ、一緒に彼の姿を探したのだが・・・見つかった彼の姿はあまりにも悲惨で、思わず目を背けたくなる状態だった。 風呂場の床に裸で四つん這いにされた彼にもう一人の患者が覆い被さっており、揺さぶられながら彼は「ぼく・・・ちゃんとしてるから、食べていい?」と、まるで鸚鵡のように繰り返し言葉を呟いていた。 見つけた看護婦がなんとか二人を引き離そうとしても、「だめっ!ぼく・・・ごはん食べたいもん!ごはん・・・食べたいんだもん!」と泣き喚き、如何する事も出来ない看護師の助けを求める声と、その声に混じった彼の悲痛な叫び声を耳にした俺が駆け付けた時には彼はもう錯乱しており、手の付けられない状態にまで陥っていた為、鎮静剤を投与するしかなかった。 意識を飛ばした彼を病室に運んだ後、もう一人の患者に話を訊いたのだが、その内容は耳を塞ぎたくなるような物だった。 こう言った行為はこれが初めてではないと言う事。 誘ってきたのは彼からだと言う事。 他の入院患者にも彼に誘われた者が何人もいると言う事。 彼が誘った理由は「お腹が空いたよ・・・ごはんが食べたい」だった。 彼は・・・食事をする為にはそう言った行為をしなければならないと思い込んでいたのだ。 それは・・・彼が此処に来るまでずっとそう強いられていたからなのだろう。 躰を売らなければ食事を与えられない。 だから、彼は・・・朝、昼、夕と運ばれてくる食事に手を付けられずにいたのだ。 何もしていない自分は食事を摂ってはいけないと思い込んで。 もしかしたらこの事の発端は彼からではなかったのかもしれない。 精神疾患の患者だとは言え、皆、一人の成人した男性だ。 性欲が皆無だとは言えない。 否、寧ろ・・・ある感情だけに支配されてしまいがちな患者程、性欲が強くなってしまう傾向もある。 男性棟から女性棟には鍵をかけられ決して入る事が出来ない為、その対象として彼が選ばれてしまったのかもしれない。 そして・・・運悪く、その行為が今まで見つからずに来てしまった。 それは・・・開放病棟が故に起こってしまった悲劇とでも言えば、少しは俺自身の心が軽くなるのだろうか? 患者個人を大切にするがあまり、開放病棟では拘束などの措置を行わない病院の趣旨が問題であり、俺に責任はなかったと言えるのだろうか? 答えは・・・否だ。 彼のあの言葉・・・「ぼく、ちゃんとしてるからごはん食べてもいいって。」この言葉が持つ意味を考慮し、注意深く彼を観察すべきだった。 だが今更・・・後悔した所で時は戻らない。 鎮静剤から目覚めても彼の錯乱は止まらなかった。 「食べれなくなっちゃう!ぼく・・・お腹すいてるのに・・・やだ・・・やだっ・・・食べたい!ぼく、食べたいんだもん!」 そう言って暴れ続ける彼に俺は為す術を見いだせず、病院長が下した診断は閉鎖病棟への移動だった。 俺は・・・彼の担当から外されてしまった。 これが俺の・・・三度目の失敗だ。 その後・・・彼が辿った道はこうだ。 閉鎖病棟に移された彼は、錯乱からくる医師、看護婦への暴言や暴力が酷く、自虐行為も見られた為、拘束着を着せられ、電撃療法、インシュリン療法、持続睡眠療法等を受けたが効果が得られず、前頭葉切截術が施された。 俺は彼を助けられなかったと言う自責の念から病院を退職し、母方の郷里である群馬県の小さな診療所の医師となった。 彼の身元引受人となって。 前頭葉切截術は他の国ではロボトミー手術と呼ばれ、瞼下からルーコトームを木槌で叩き前頭葉まで打ち込み、刺し込まれたルートコームを回し、前頭葉を視床から切り離す技法だ。 神経線維を切断された患者は見当障害、不眠症、不安神経症、恐怖症、幻覚症など、様々な症状から解放されるが、前頭葉切截術は人間の持つ感情を奪ってしまう。 今、縁側に腰を掛け明るい陽射しの中に存在する彼から・・・何も伝わってこない。 あの中庭で一緒に過ごした彼とは全く違う・・・別人になってしまった。 喜怒哀楽と言った、人が持つ感情全てを失ってしまった彼には、話しかけている俺さえも認識出来ていないのかもしれない。 俺は彼の中に巣食っていた闇の・・・住人にしてしまったのだ。 けれど・・・食事の時間になると俺を求めて抱きつく彼。 「ぼく・・・お腹すいてる・・・ごはん、食べたいよ。」 そう言って、俺の躰を求める彼。 俺を求める彼の腕は細くて、今にも折れてしまいそうだ。 俺の首に巻きつかせた彼の腕を解き、抱き上げると敷かれたままになっている布団の上にゆっくりと横たえる。 着物の裾を広げるように伸ばされた脚を俺は持ち上げ、枕元に用意してあるワセリンを秘部に塗り、彼が求めるまま腰を進めれば 「ぼく、ちゃんとしてるからごはん食べてもいい?」 そう言って、感情の伴わない笑みを口元に浮かべる彼があまりにも切なくて。 俺は彼を揺らしながら涙を流す。 けれど、彼の瞳は宙を彷徨い、何処か遠くを・・・俺には見えない世界を映し出している。 戦争で親を亡くし、身を売る事でしか生きていく術が残されていなかった彼には人として生きる価値がなかったのか? 感情を失くしてしまった彼は・・・もはや人間と言えない。 そして自我を失っても尚、生きる為に自身を身売りする彼に罪があると言うのだろうか? だとしたら、戦争等馬鹿げた行為をした人間に罪は? 何より、彼を守り助けてやれなかった俺に罪は? だが・・・例えその罪で俺が罰を受けた所で彼はもう・・・戻ってこない。 ならばせめて、彼の世界の住人に俺がなれればいい。 それで少しでも彼に安らぎが訪れるのなら。 昭和25年。 向精神薬「クロルプロマジン」が発見、開発・導入され、薬物療法が始まる。 昭和50年。 日本精神神経学会が『精神外科』を否定する決議を採択。 ロボトミー手術の廃止を宣言された。

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