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置き文

※切ない/死ネタ 彼に出会ったのはこの戦争が始まる数年前。 県立中学に受かったのはいいが自宅からは遠く、通うだけで二時間以上もかかってしまい「それならば・・・」と言ってくれた、伯父の家に世話になっていた時だった。 農家の多い村では、友人の殆どが小学校を尋常科で卒業してしまい、通ったとしても高等科二年までが大半だったのだが、たくさん田畑を持つ地主だった父は嫡男である僕を「これからは学も必要だ」と言って進学させた。 伯父の家は学校のある町にあり、町会議員をしている伯父を「先生」と呼ぶ数人の学生達の出入りが激しかったが、そんな中で僕は一番歳も若く、背丈も小さく、年齢よりも幼い顔立ちのせいもあってか、さして歳も変わらぬであろう使用人達からも「ぼっちゃん」と呼ばれ可愛がってもらっていた。 一宿一飯の恩義ではないが、世話になりっぱなしは性分上、嫌だった僕は「何か手伝わせて下さい」と伯母に頼み込み、風呂の当番を任せてもらった。 五右衛門風呂に水を汲み入れるのは、白髪が混じる使用人や女の手ではなかなかの重労働だが、もうすぐ十五を迎える僕には軽作業なようなもので。 焚口から火吹き竹で息を吹き込むとくべた薪が燃え上がり、火の粉が舞う様はずっと眺めていても飽きが来ず、僕の中に燻っている何かも一緒に燃えてるようで、もっと、もっと・・・と思ってしまう。 温かな炎が僕の頬を火照らせ額に汗を滲ませる。 その汗が首筋を伝い、巻いていた手拭いをじっとりと濡らせる頃、少し熱めの湯が風呂いっぱいに沸く。 今夜の新湯(さらゆ)は昨日、離れに来た翔太さんが入ることになっていた。 一家の大黒柱である伯父さんより先に風呂を許された翔太さんは姓を鴨井と言い、伯父さんが先生と呼ぶ東京の偉い先生のお孫さんだそうだ。 数日前、風呂の準備が出来たので、使用人を取り仕切ってるばあやに声をかけに行った時、伯母さんがばあやに翔太さんの話をしているのが聞こえてきて・・・ 盗み聞きなど卑しい人間のすることだと気は引けたのだが、僕がこの家に世話になって一年以上もずっと使われてなかった離れがこの夏に改築され、離れに一番近い部屋を充てがわれていた僕は気になっていて「明後日、離れに・・・」と伯母の声が耳に入って来た時、咄嗟に勝手口の引き戸に掛けた手を止めた。 「あまり詳しいことは旦那様から口止めされてるのだけれど・・・」 一枚の戸越しに伯母さんの少し低い声が続く。 何でも翔太さんは昨年の夏、中華民国で起こった事件に巻き込まれ今年の春、何とか国に帰ってこれたのだが、その事件の恐怖から精神を病んでしまい、静かな田舎で過ごす方が良いと医者に言われ暫くここで療養することになったそうだ。 それを伯父さんが初めて町会議員になった時、尽力をしてくれた先生から「どこか良い場所はないか?」と訊かれ伯父さんが立候補したらしい。 聞こえてきた話を纏めるとこんな感じだった。 僕なら・・・全く、見知らぬ土地で親戚でも友人でも、ましてや知人でも無い人の家で世話になるなど、その方が却って気が病んでしまいそうだと思ったが、ふと一度だけ、父に連れて行ってもらった東京を思い出してみれば納得できないこともなくて。 田んぼに囲まれた田舎に比べれば緑も少なく、人工的な音やあちこちで喧騒が聞こえてくる都会よりも 確かに・・・ここの方が静かで落ち着くかもしれない。 その時・・・伯母さんの話を盗み聞きながら、夕方と言ってもまだ日差しの強い光に緑の葉が輝くのを視線の端にとめ、僕はぼんやりとそんなことを考えていたように思う。 けれど・・・昨日、翔太さんの透き通るように白い肌と目にした瞬間、僕は何故だかいけないものを見てしまったと感じてしまったのだった。 それは・・・女性のような白い肌だけのせいじゃないと思う。 くっきりとした大きな瞳とぷっくりとした唇。 その瞳は潤み唇は赤く、すっと伸びた首筋から滑らかに曲線を描く肩。 おしろいを叩いたような白い項には長めの襟足の髪が汗ではりつき、色香を放っていた。 翔太さんと言う名を先に耳にしていなければ多分僕は・・・彼を女性だと思ってしまっただろう。 男性のはずの翔太さんに女性の香りを感じ、僕は翔太さんを何かいけないもののように感じた。 そうだ・・・触れてはいけない・・・つい先日、学校の図書室で読んだ禁断の果実の物語のような・・・近づいてはいけない底のない深い沼のような・・・そんな禁忌と言えばいいのだろうか・・・足元を掬われそうな危うさを僕は翔太さんに感じてしまった。 それなのに・・・昨日からずっと僕は目の端に翔太さんの姿を認めれば、彼から視線を逸らすことが出来ない。 触れてはいけないと思えば思うほど、近づいてはいけないと思えば思うほど、僕の瞳は翔太さんの姿を探し求めた。 そして、彼の姿を見つければ、昨日挨拶を交わした時に翔太さんが見せた僕に対する驚きと戸惑いの表情が脳裏に浮かんで。 その彼の驚きと戸惑いの中に潜む歓喜と切望を知ったあの夜・・・僕は初めての恋と絶望を知った。 「あの・・・風呂が湧きましたので」 返事など返ってこなくても言いと思いながら、離れには上がらず庭から声をかけた。 薬の時間があるからと早めに用意されていた夕餉が、殆ど箸をつけられず戸口の外に出されているのが目に入り「気分が悪いんですか?」とつい口走ってしまった。 だからと言って僕に何ができるんだ?と思い、恥ずかしさから顔を赤くし俯いてると「すみません」と声をかけられ縁側の襖がすらりと開き、手拭いと石鹸を入れた手桶を片手に浴衣姿の翔太さんが現れ、心臓に痛みが走るほど僕は驚いた。 「秀一くんでしたよ・・・ね?  お世話になります。」 板の間に膝と手をつき会釈をする翔太さんに頬が更に熱くなり、頭に血がのぼってしまった僕は「あ・・・あの・・・いや・・・」としか言葉に出来なくて。 そんな僕を見た翔太さんは切なげな笑みを零し「そんなとこも彼に似てる・・・」と呟く。 その言葉の意味を僕は理解できず、また「あ・・・え・・・」などと返せば「お風呂、いただけますか?」と、さっきとは違う柔らかな笑みを返してくれた。 「都会暮らしの翔太さんはこんな田舎の五右衛門風呂など、入ったことなんてないだろうから教えてあげてくれるかい?」 そう伯母さんから言われていた僕は焚口の火を見ながら 「湯加減、どうですか?  熱すぎないですか?  火傷、しないように気をつけて下さいね。」 などと風呂小屋の中の翔太さんに声をかける。 「ありがとう・・・僕は大丈夫だから。  秀一くんは勉強もあるだろうし、部屋に戻ってくれればいいよ・・・」 「勉強は・・・大丈夫です。  それより、伯母さんから言われてるから・・・」 「でも・・・」 「翔太さんは気にしないで下さい。  今日だけですから・・・  あ!けど・・・僕が居るとゆっくり入れないなら・・・」 「そんなことは・・・」 「じゃ、僕はここで火を見てますから湯がぬるくなったら言って下さい。」 「わかった・・・ありがとう。  今日だけ、甘えさせてもらうね。」 「はい」 「あの・・・秀一くん・・・」 「はい?」 「ついでにって言い方はよくないのかもしれないけれど・・・  もう一つだけ秀一くんにその・・・甘えてもいいかな・・・?」 「はい・・・僕に出来ることなら何でも言って下さい。」 「秀一くんと話がしたいんだ。  夜・・・床に就く前の少しの時間を僕にくれないかな?」 「え・・・」 「迷惑か・・・な・・・?」 「迷惑なんて・・・そんなことないです!  僕なんかでよければ・・・でも・・・翔太さんの話し相手は僕より他の・・・」 「いや、君がいいんだ。  秀一くんが・・・秀一くんと話が・・・ううん、君に聞いてもらいたいんだ。  我儘か・・・な・・・?」 「我儘とか言わないで下さい。  その・・・翔太さんはお独りでこんな田舎に来られてきっと・・・その・・・不安とか寂しさとか色々あるだろうし、僕は話があんまりうまくないけど・・・僕でよければ・・・あの・・・甘えて下さい。」 「ごめんね・・・」 「謝らないで下さい!  じゃ、夜・・・伺います。」 「ありがとう・・・」 その後、会話はなくなって風呂小屋の小さな格子窓から湯の跳ねる音が聞こえて、舶来ものだろうか・・・僕が使う石鹸とはちがう香を焚いたような甘い香りが当りに広がった。 僕は焚口からの炎のせいか、翔太さんからの誘いのせいか、どちらかわからないけど頬が熱く赤くなるを感じた。 それと同時に鼓動が今にも聞こえてきそうにうるさくなるのを感じて、聞こえるはずなんかないのに翔太さんに聞こえてしまうんじゃないだろうか? そんなことが頭に浮かんで。 そう思えば思うほど激しく鼓動が打ち、それを止めようと胸に手をあて「静まれ」と心の中で呟いた。 その夜・・・風呂小屋で翔太さんと交わした約束を果す為僕は皆が寝静まるのを待った。 如何してだろう・・・? 何故、母屋の光が消え静寂が訪れるまで、翔太さんの居る離れに行けなかったのか・・・何故?と訊かれても明確な答えが返せない。 多分・・・心の何処かで淡い期待はしていたと思う。 けれど・・・その期待が何だったのか?と訊かれれば、それにも明確な答えを返せない。 ただ・・・翔太さんは何か僕だけに伝えたい事があるのでは?・・・と感じていた。 僕だけに・・・翔太さんと僕だけの秘密の・・・だから僕は・・・僕の部屋からは直ぐにでも行ける翔太さんがいる離れに、二人だけの秘密を守ってくれる闇が訪れるまで、翔太さんの待つ離れに態と赴かなかったのだと思う。 風呂小屋から翔太さんを離れにお連れして、定刻通り帰宅した伯父さんと皆で夕餉に箸をつけてても、味が全くわからないくらい僕は緊張していたし、箸が全く進まないくらい僕の胸は翔太さんを想っていっぱいだった。 薬の事もあるが皆と一緒では食も進まぬだろうと、翔太さんは此処にいないというのに僕の頭中も胸中も翔太さんで溢れかえっていた。 伯父さん、嫡男の雄一さん、伯母さんと娘さんの明子さんと続いた後、僕の順番で入る風呂を待ちながら明日の予習をしたが、本に並ぶ字をどんなに目で追ってみても夕餉と同じように全く頭に入ってこなかった。 ばあやが僕に風呂の順番を伝えに来てくれたのを理由にして、全く進まない勉強を止め、本を閉じ鞄の中に明日、必要な物だけ詰め込んで僕は風呂小屋へと向かう。 湯に浸かると明らかに何時もと違う身体の反応に困惑する。 肌ではなく、身体の中心が熱くなったのだ。 十五の僕には意識して自分で触れることが躊躇われる場所が熱くなったのだ。 その熱を紛らわしたくて湯を掌にすくい、顔を流そうとすれば仄かに残る香り。 それは風呂上りの翔太さんから香っていたものと同じで。 翔太さんが使っている石鹸の香りだろうか・・・それとも香油だろうか・・・鼻孔を擽るような甘い花の香り。 その花の香りを思い出そうとして色々な花を頭中に描く。 白い花が浮かび上がった瞬間、この甘い香りとその白い花が重なりあった。 梔子の花・・・だ。 頭上に浮かんだ白い梔子の花弁は翔太さんの肌のようで。 もう一度湯をすくって残り香を嗅いてみれば、今度は身体の中心が疼いた。 翔太さんの香りが残る湯に浸かっていれば、まるで翔太さんの中に自分がいるようで。 翔太さんが入った後に何人も湯に浸かり、湯を汲み出し、水を足しては沸かし、翔太さんが浸かった湯はほんの僅かになってしまってると頭では・・・わきまえていても、身体を動かす度に纏わりつくような湯の感触は今まで感じたことのないものだった。 白く咲き誇る梔子の花弁と翔太さんの白い肌を重ね、仄かに香る甘い残り香に惑わされ、僕は背徳の後ろめたさを憶えながらも、躊躇いがちにおのずと股間で動く手を止める事は出来ず、白濁を吐き出しそうになり慌てて湯船から飛び出し洗い場に蹲り、精を放つ。 それでも身体の芯は熱くなる一方で、僕は傍にある汲み水を頭からかぶり、翔太さんの甘い香りが残る風呂小屋を早々に後にした。 部屋に戻ってもその熱から逃れられなくて、僕は念仏を唱えるように「静まれ・・・静まれ・・・」と呟いては窓の外が夜の帳に包まれるのを待つ。 母屋を灯していた最後の明かりが消え、常闇が世界を包む中、青白く光る月光を頼りに翔太さんが僕を待ってくれているであろう離れへと一歩一歩、足を進ませる。 先程までと打って変わって今度は激しく脈打ち出した鼓動に、僕はまた「静まれ・・・」と呟く。 その呟きも虚しく、離れの扉の前に立った時は、口から心臓が飛び出しそうな勢いに鼓動は速くなっていた。 「秀一くん・・・?」 扉の外で立ち竦んでしまった僕の気配を感じたのか中から翔太さんが声がして 「秀一くんでしょ・・・?入って。」 続く翔太さんの言葉に促されるように僕は扉に手を伸ばす。 今にも爆発しそうな鼓動に言い聞かせるように、もう一度「静まれ・・・」と呟いてから僕は引き戸になっている扉を開けば、少し明るさを抑えたランプの光の中に柔らかな笑みを浮かべた翔太さんの姿があった。 「入って、秀一くん・・・」 もう一度、促され僕は襖越しに続く窓際に置かれた小さな机のある奥の部屋へと歩を進めた。 入口からは見えなかったが、翔太さんが座る隣には既に布団が敷かれており僕は慌てて頭を下げる。 「ごめんなさい。  もう、横になられるんじゃないですか?  僕が遅くなってしまったせいで・・・翔太さんは病み上がりな・・の・・・」 そこまで声にして僕は口を掌で押さえその声を封じた。 その姿を見て翔太さんは困ったような笑みを浮かべ「気にしないで・・・」と言うと「病み上がりなのは事実だから・・・ね。」と続け僕から視線を逸らした。 その視線の先に誰かいるのだろうか? 視線を床に落とした翔太さんの長い睫が震えてるように見えたが、それは本当に一瞬で。 直ぐに僕へと視線を戻した翔太さんは柔らかに笑み「此処に座って。」と僕に座布団を出してくれた。 翔太さんの前に座れば今しがた零してしまった言葉にいっそう居た堪れなくなってしまい、目の前の翔太さんを見ることが出来ず、泳がせた僕の視線がやっと落ち着いた先は机の上にきちんと並べられてある本の背表紙だった。 更に動揺からかその背表紙書かれた名が唇から勝手に洩れてしまい、自分で発した筈の声に驚いて瞬時に顔が火照って行くのを感じた。 そんな僕を気遣ってか翔太さんは「秀一くんは本が好きなの?」と訊いてくれる。 「本は・・・好きです。  でも、僕の育った場所には本を扱う店などなくて。  今、時間があれば学校の図書室で読んでます。」 「そうなんだ・・・これ・・・良かったら貰ってくれないかな?  島崎藤村の詩集なんだけれど・・・」 そう言いながら本に手を伸ばし、僕の腿の上にそっとその本をのせてくれた。 背表紙には見受けられなかった朱殷の染みが表紙には点々とあり、その染みの跡はまるで血飛沫のようで。 怖くなった僕はその本を腿上から払いのけようとすれば、翔太さんはその僕の手首を掴かみ、降り出した雨粒みたいにぽつりぽつりと言霊の雨を僕に降らしていく。 「あの人がくれた本なんだ。  この本しか・・・持って帰って来れなかった。  あの人・・・彼は僕の幼馴染でね。  三つ年下の僕を何時も可愛がってくれて。  彼は僕を弟のようにしか思っていなかったけれど僕は彼を兄としてではなく・・・慕っていた。  けれど・・・この想いが許される筈もなくて。  それでも僕は彼の傍にいたくて・・・語学を学ぶと言う名目で彼の任務先に同行したんだ。  向こうでの暮らしに馴染めない僕に彼はこの本をくれたんだ。  母国の言葉に触れれば少しは気分が晴れるんじゃないかって。  その時・・・彼も僕の想いに気づいてくれていたのかこの本を僕に渡すと、一度だけ・・・そっと僕の唇に触れて「すまない」と。  そして「ありがとう」と。  それが彼の気持ちであり、僕への想いなんだと思った。  僕への気持ちは受け止められない・・・けれど、慕ってくれて嬉しいよ・・・って。  僕はそれだけで十分だった。  もう何もいらない。  彼の傍近くにいて、何でもいい・・・彼の役に立てればと思っていたのに・・・あの事件が起きた。  突然、起こった暴動。  暴徒で溢れかえる町・・・彼を・・・彼の命を守れるなら・・・とこの命を奴等の前に差し出したのに・・・彼の前で陵辱された上、与えられる痛みと恐怖に見開いた眼の前で彼は・・・殺された。  僕が泣き叫ぶ中、駆けつけた帝国軍人に助けられ、僕だけが生き延び・・・日本へ帰って来た。  彼のご両親に言われた言葉が今でも僕の中にある。  何故、あの子だけ殺されたの?  何の為にあなたはあの子の傍にいたの?  男であるのに辱めを受け、如何して・・・自害もせず生き恥を曝して帰ってこれたの?  あなたも一緒にあの子と死ねばよかったのに!ってね。  僕だって死にたかった。  彼の後を追いたかった。  でも・・・彼は奴等に銃口を向けながら言ったんだ。  「翔太・・・お前だけは生きてくれ」と。  だから、死ねなかった。  自ら命を絶てなかった。  こんな命だけれど・・・ね。  深い海底を這いつくばって生きてるような毎日だった。  見上げても一筋の光さへ感じられず、息をしたくても溺れたみたいに苦しくて。  息を吐いても吐いても、胸の中にずしりと残る重い何かはもう、それは・・・ 吸い込んだ空気なのか吐いた空気なのかもわからなくなるくらいで。  だけどね・・・君に・・・昨日・・・君に・・・秀一くんに出会った時、聞こえた気がしたんだ彼の声が・・・すまない・・・ありがとう・・・って。」 そこまでゆっくり一つ一つの言葉を噛みしめながら僕に話すと僕を掴んでいた手を離し、翔太さんはランプの灯りを消した。 辺りが急に闇に包まれた。 翔太さんと僕の息遣いだけがその闇の中に感じられて、僕の鼓動はまた跳ね始める。 その鼓動とは裏腹に身動き一つ出来ない僕は、翔太さんと僕だけの秘密を守る闇が広がる中で窓から射す月明かりと翔太さんに僕は捕らえてるみたいで。 不安なはずなのに、ずっとこのまま囚われていたいような・・・不思議な感覚だった。 けれど、その時は長くは続かない。 僕と翔太さんを包んでいた闇を、僕が違うものへと変化させてしまう。 腿の上に置かれた本が畳の上に落ちそうになり、僕がそれを受け止めようと動いてしまったからだ。 一度僕が時の刻みを変えれば部屋を包む闇も違う色合いに変化した。 そのせいなのか・・・僕にはわかないけれど・・・本に伸ばした僕の手に突然、すっと伸ばされた翔太さんの腕・・・僕はその翔太さんの腕に気をとられてしまい本を受け止めることが出来なかった。 「ごめん・・な・・さ・・」 少し冷たくなった翔太さんの指先が僕の唇に触れ、最後まで伝えることの出来ない言葉を翔太さんが掬いとるようにして僕の唇に翔太さんの唇を重ねその言葉を奪う。 一気に跳ね上がる鼓動と火照る頬。 それを知ってか知らずか・・・翔太さんは「あの人の面影を君に感じるんだ。」と言うと  たれか聞くらん朝の声  眠むりと夢を破りいで  彩あやなす雲にうちのりて  よろづの鳥に歌はれつ  天のかなたにあらはれて  東の空に光あり  そこに時あり始はじめあり  そこに道あり力あり  そこに色あり詞ことばあり  そこに声あり命あり  そこに名ありとうたひつゝ  みそらにあがり地にかけり  のこんの星ともろともに  光のうちに朝ぞ隠るゝ 詩を暗唱した。 その声が仄暗い部屋の空気を揺らし、東の空に光ありと歌われている筈なのに、何故か夕暮れ時を思い浮かべてしまった。 翔太さんの声が寂しげだからだろうか・・・? 西に沈みいく陽の・・・ぽっかりと口を開けた地上にその身を半分、食されて流された血のような・・・悲痛な叫び声をあげる朱色に部屋が・・・侵食されて行くような気がした。 この朱は・・・やがて朱殷に変わり染みとなって翔太さんの心に色濃く悲しみを落としていくのではないだろうか・・・本の表紙の染みと同じく・・・否・・・翔太さんの中にある朱殷を僕が感じ取り、この光景を映しだしているだけなのかもしれない。 闇の中、僕の瞳の中だけで朱に染まって行く部屋を感じながら、取り留めの無い勝手な想いに思考を持っていかれていると急に腕を翔太さんに取られた。 僕の腕を掴んだまま立ち上がった翔太さんを追うようにして、僕も翔太さんと同じ目線の高さになるまで引き上げられた。 翔太さんの澄んだ綺麗な瞳は僕を捉えた後、浴衣のしごきに落とされ翔太さんは緩く結ばれているしごきを取り袷を広げ襟を肩まで下げた。 僕はこれ以上見て良いのかわからなくなり、視線を逸らそうとすれば「見て」と短く言い放つ翔太さん。 その言葉に逸らそうとした視線は翔太さんから離れる事を許されず、心の中で「静まれ」そう呟きながら速まる鼓動をどうにかしようと試みていたら、美しい曲線を描き出しているなだらかな肩から浴衣が落ち翔太さんの白い肌が月光の下に露になった。 その白い肌には無数の縦横に刻まれた傷跡と、臍から下へと向かって引き攣れた火傷の痕が混在していた。 「醜いよね」と呟き伏せられた瞳から一筋の涙が流れ翔太さんの頬を濡らす。 その涙を拭うこともせず翔太さんは僕の手をとり、傷跡を一つ一つ確かめるように指先を這わせていく。 そしてもう一度・・・僕の唇に翔太さんの唇が重ねられた。 風呂で香った梔子の花の香りが濃く漂い、その強く香る甘い香りに麻痺してしまい立ち竦む僕に翔太さんが言う。 「ありがとう。  秀一くんのおかげで清められたよ・・・」 今までに一番美しい笑みを浮かべその笑みを僕に向けた後、それ以上零れだしそうになる言葉を堰き止める為か唇に手を押し当てた。 その言葉を・・・堰き止められようとしている翔太さんの言葉を、翔太さんの声を僕は必死で拾おうとしたけれど、耳奥が痛くなるほどの静寂と速まることを止められない鼓動の音しか僕の耳には入ってこなくて。 風呂でしてしまった自分の行為を恥じながらも、纏わり付くように濃く漂う梔子の甘い香りと翔太さんの浮かべたあまりにも美しい笑みが僕を締め上げ、翔太さんに何も言葉を返せぬまま、ただ僕は・・・浴衣を整える翔太さんの白い指先を見つめるしか出来ずにいれば、しごきを結び終わった翔太さんが畳の上の本を拾い僕に手渡してくれた。 僕はその本を胸に抱き逃げるようにして部屋を後にした。 自室に戻った僕は敷いておいた布団の中に滑り込み、翔太さんが柔らかな唇を思い出しまた・・・身体の芯が熱く疼き始めた。 ・・・と同時に胸が切なくて痛んだ。 この恋は叶わない・・・と。 熱くなる身体とは裏腹にきりきりと傷む心。 僕は始めて恋を知り、その恋は気付いた途端・・・僕に似た・・・けれど・・・僕の知らない人に・・・奪われ消えてしまった。 その夜はなかなか寝付けず小屋で買われている鶏が鳴き始めた頃、ようやくうつらうつらと出来たが女中の悲鳴でその浅い眠りからも直ぐにかき起こされた。 朝餉の膳を持って行った女中が、黒い着物に身を纏い正座した両膝を深碧のしごきで結わい喉を剃刀で割いて事切れている翔太さんの姿を見つけ悲鳴を上げたのだ。 置き文は残されていなかった。 だが・・・少しでも部屋を汚さぬようにと畳を一枚裏返した上に油紙を敷き、自ら流れ出した血溜りの上にうつ伏せになって自害している翔太さんの姿からは、この家の者への謝罪が込められているように僕の眼には映った。 僕はその2年後、召集令状を待たず出兵した。 僕がこの戦争に召集ではなく、志願兵として出兵したのは・・・あの夜の・・・翔太さんの言葉が忘れられなかったからだ。 「ありがとう。  秀一くんのおかげで清められたよ・・・」 きっとこの言葉の後はこうだ。 「これでやっと・・・あの人に会いにいける」 僕に告げた後、唇に手を押し当てて翔太さん何か呟いていた。 その呟きは間違いなく「これでやっと・・・あの人に会いにいける」だったと僕は思う。 国を離れ明日・・・前線部隊の一員として戦場に赴くことになった僕は今、置き文を認めている。 日本に居る両親にではなく翔太さんへ・・・届くことの決して無い置き文を薄暗い灯りの下で書いている。 あの夜・・・翔太さんは僕に清められたと言ってくれましたが、僕は貴方を清められるような人間ではありません。 あの夜・・・貴方に会う前に僕は貴方を汚す行為をしてしまいました。 なのに・・・最期に見せてくれた貴方の笑みがあまりに美しくて後ろ髪を引かれれつつも、その貴方の美しい笑みに魅了され、僕は犯した背徳行為を貴方に告白できないまま部屋を後にしてしまいました。 翔太さん・・・貴方の愛しい人には会えたのでしょうか? 僕は明日、己が罪に報いる為、戦場に赴きます。 僕と同じく、貴方を汚した者達に銃口向ける事がたった一つ、僕に許された罪の報いだと思って。 貴方を汚した者達と共に僕も死する事が僕に許された、たった一つの懺悔であり謝罪だと信じて。 日本で最期に見た、真っ白な梔子の花弁は何処までも清らかでした。 貴方は自分の肌を「醜い」と涙を零したけれど、貴方から香る梔子の花と同じく、どんなに傷つけられ汚されていたとしても貴方の肌は白く、何処までも清らかでした。 罪の報いを受け僕が貴方の傍に逝けた時・・・また・・・あの笑みを一度だけ・・・僕に見せてはくれませんか? その時、僕は初めて貴方からもらった言葉を受け入れ、罪の意識から開放されるように思います。 終

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