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Noir et blanc

 俺はオペ室が好きだった。温度に湿度、空気まで全てが管理されたオペ室が。完璧と言う言葉しか思い浮かばない空間。その空間で俺は神だった。メスを持ち、開かれた患部から腫瘍を摘出する。俺の頭脳が、腕が、感覚が、完璧と言う言葉通り繊細に動き命を救う。俺は正に神だった。  それが……一変する。俺は俺の好きだった空間に裏切られたのだ。救ってきた命とは裏腹に。オペの後遺症で俺の瞳は白と黒しか映さなくなった。  両親に甘えればもう少し楽を出来ただろう研修医時代を、俺は態々よりハードなモノにすべく医大を卒業後。東京都が指定する救命救急センター指定医療機関に進み、研修医終了後は父との約束を破りそのままその病院に残留し、外科の中でもかなりのレベルを要される脳神経外科医を目指した。……と言うのも、父の病院を継ぐのが嫌でだが。  父は代々受け継がれてきた病床施設の整った……所謂町の医者的な内科と外科に簡単なオペなら可能な個人病院を経営している。そこを継ぐのが俺は……嫌だった。  医者の立場で新鮮さに欠ける等と口にするのは非常識かもしれないが毎日、決まった時間の診療と回診、外来の患者も入院患者もだいたい似たり寄ったりな疾病ばかりで。俺はもっとこう……映画やドラマなんかで呼ばれるような神の手を持つ医師になりたかった。常に完璧な医療と、常に最新の医療技術を駆使できるような医師に。そして俺は……その夢を叶えた。僅か30歳足らずで。  俺の手術を受ける為に、態々北海道や鹿児島からも訪れる患者に、俺はその時点で最高の医療と技術を駆使した診断とオペをし、一人としてミスを犯すことなく皆、無事退院させた。そんな俺を人は神の手と神の目を持つ医師だと呼んだ。その賞賛に俺自身も神の手と神の目を持つ医師だと思いどこか……おかしくなっていたのだろう。この神の手を持つ俺なら、夜勤明けに通常勤務をこなしただけだ運転ぐらいどうってことない。たかだか、自宅までの20分程の運転なら大丈夫だろうとハンドルを握った。そんな驕り高ぶった思考を神は訂正するように雨の中、ヘッドライトをアップのまま走行していた対向車の光に、一瞬目が眩んだ俺は事故を起こしてしまう。  運よく、直ぐに俺が勤務する病院の救命救急センターに運ばれ、重度の脳挫傷による出血と脳浮腫が診られた俺は緊急のオペを受け何とか一命を取り留める事は出来たが……そのオペによる後遺症を伴ってしまう。  神の手を持たない医師にオペされた俺は神の手を持ったまま神の目を失い、オペが出来ない医師になってしまった。『神の手が残ったなら医師は続けられるだろう?』等と馬鹿な事は言わないで欲しい。実際、オペをした医師も「お前なら大丈夫だよ」等と謝罪もそこそこにそう言ったが同じ医師なら解るはずだ。  色の認識が、判別が出来なくった目で正常な組織と癌や壊死した組織を如何見極めろと?しかも人間の体内で一番デリケートな脳の組織だぞ?神の手を持たないお前がミスを犯したように、神の手を持つ俺にもミスを犯せと?そんなこと……お前等が赦そうとも神は……否、俺は赦せない。  そんな俺が取った選択肢は退院と同時に退職だった。それに伴い医師免許も返還した。何故って?俺にとって脳神経外科医以外の医師に魅力を感じなかったからだ。父にしてみれば手術は他の医師に任せる形で病院を継いで欲しかっただろうし実際、父や母からの説得も再三尋常を極める程あったが俺は……それすらも拒んだ。  俺にとってあの……温度に湿度、空気まで全てが管理されたオペ室が、完璧と言う言葉しか思い浮かばない空間が、俺にとって唯一の場所であって診察室や病室は俺の居場所では無かったから。ただそれだけの事だ。  とは言え、馬鹿みたいに金の掛かる医療の道に進ませてもらった恩義や、ここまで育ててもらった両親への愛情に何も返さないままでいる程、俺は礼儀に反する人間でも感情の無い人間でもない。病院を継ぐのは妹や弟に任せ俺は経営管理を担う人間として父の病院に戻った。  そこで……彼に出会ったのだ。彼と初めて言葉を交わしたのは病院の一階にある『相談室』とプレートを掲げられた殺風景な部屋で、入院をしている姉の転院手続きの相談についてだった。彼の姉は腎臓疾患で入院をしているのだが、ここでは手術や透析治療が受けれず転院が決まっており、その為の紹介状の手続き等を説明していたら   「俺、情けない話なんだけど稼ぎが悪いもんで。姉ちゃんの医療費払えそうもなくて……」  ポロリと彼が零した。普段ならそう言った相談にも事務的にしか答えない俺が、何故かその理由が知りたくなってつい……  「どうかされましたか?」  ……等と俺の口からもポロリと言葉が零れて。不思議だった。  何故そんな言葉を発してしまったのか。心底情けないと言う感じで眉を下げ、困った笑みを浮かべる彼が酷く気になってしまったからか?それとも……俺と余り年齢の差が無いであろう彼から放たれるあどけなさのせいか?兄が弟に差し伸べる手のような……放っておけない何かを彼に感じたのかも知れない。  「俺……これでも一応イラストレーターって言うか……コンビニでバイトしながらフリーで描いてるですけど、色覚異常って言うの?えっと……色盲ってやつで。自分でもそれは理解してっから描く時には、俺に見えてる色と違った色で描くようにしてんだけど……なんかやっぱ違うみたいで。けど俺には描くことぐらいしか取柄がなくって。頑張ってんだけど……やっぱダメで。けど描くの諦めたくなくて……。父ちゃんも母ちゃんも高校時に亡くなったから、姉ちゃんがそれからはずっと俺を支えてくれて。無理させたせいだよな……姉ちゃんが病気になったのは。なのに俺……こんなんで……」  俺の問いにそう答えると目を赤くさせ鼻を啜る彼に、殊更普段のような事務的な態度を取れなくなってしまった俺は、彼に高額医療費支給制度の説明をしたり「手続きが難しい」と言う彼をやはり突き放す事が出来ず、仕事抜きに親身になってしまって今に至る訳なのだけれど。  「色々とお世話になったから……」そう言って「けど、俺……あんま金ないから手料理でもいい?」なんて付け加えられ初めて家にお邪魔した際に彼、櫻庭 玲の描くイラストを見て俺は思った。『凄い』と。  ずっと医学の道一本で来た俺だから芸術の云々は正直分からない。そんな俺だから彼のイラストを見ても『凄い』としか言葉が見つからない自分の表現力の乏しさに少々情けなさは感じたものの色を感じられない、白黒でしか映さない俺の眼には、彼の描く繊細なタッチのイラストが堪らなく心地よく感じて。何より、実物と見紛う程の描写には圧倒された。  「凄い……これ、凄いよ!」  「朝から玉葱10個みじん切りにして飴色まで炒めてコクを出したんだ」と言う彼の手作りカレーを振舞ってもらった後、見せてもらったイラスト。それを目にして俺は感嘆の声を思わず零す。そんな俺にコーヒーカップを持って現れた彼の頬が瞬時に赤く染まった……と思う。色が判別出来ない俺にもそう感じさせてしまう程、彼はやけに恥ずかしそうな素振りを見せたから。それを見て『可愛い』と思った俺は如何かしていたのかも知れない。同性のしかも俺より一つ上の彼に対して『可愛い』なんて。だがその時の異常か?とも思える感情があったからこそ、今の二人の関係がある。  確かに如何にかなっていた。あの時の俺の頭も心も。もしかしたら俺は……同じ悩みや苦しみを持つ彼に何かを求め力になりたいと思う以上に、寄り添って互いの痛みを分かち合いたいと思ったのかも知れない。それがあらぬ感情を俺の中で生れさせ彼を……同性で一つ年上の櫻庭 玲と言う人間を愛する切っ掛けになったのかも。それは彼も同じだった様で俺に彼と同じ何かを感じ取っていたのか  「俺……柏木さんが好きだ。別にゲイだとかそんなんじゃ無かったはずなんだけな……」  自宅で手料理を振舞ってもらった後もなんとなく離れがたく、これで終わってしまうのが嫌で「その後、お姉さんは如何?」等と理由をつけ時々会っていたら、頬を赤く染めて彼が言うものだから俺も  「俺も玲くんが好きだよ。別にゲイとかそう言ったマイノリティー派の人間では無いけどね」  なんて……。告白と言うか、誘いと言うか……交際を申し込んでた。よく考えれば決して甘い告白でもスマートな誘いでも無かったし、いい大人が言う台詞では無かったけど。  俺も医師免許は返上し、跡取り問題も弟に任せてある自由な身だ。俺が彼と……同性で一つ上の彼と付き合おうが両親に然程痛手はないだろう。迷惑が掛かるなら病院の事務を止め他に職を探せば良いだけだ。まぁ……今となっては如何でも良い話だが。  こうして彼と一緒に居るだけで心は弾むのだし、セックスの後にベッドの中で彼を腕の中に抱きしめて眠れば安らぐのだから、今更「彼と別れろ!」等と命令されても無理な話だし、やっとオペ室以外の……否、それ以上に大切な物をこの手に掴んだんだから。  神の手を持ったまま神の目を失った俺が、やっと見つけた唯一安らげる場所だ。それを易々と手放すなんて気、今の俺には更々無い。それは彼だって同じ筈だ。俺が彼に目の異常を打ち明けた事も大きな切っ掛けになり、彼は俺と同棲する様になってから白と黒だけ描くようになった。理由はこうだ。  「柏木さんのその目に映る色だけで描きたい。俺の大好きな柏木さんの目に映る色だけで」  これを言われた瞬間、俺の中で彼に対する愛しさが跳ね上がったのは言うまでもない。そして同時に『可愛い』って想いも。  そのモノトーンだけで描く手法が元々彼にあった才能をより鮮明に、より魅力的に開花させ、今ではコンビニのバイトをしなくても十分食べて行けるだけの収入を得ているのだから、こんなずっと医学の道一本で来た芸術の云々は正直分からない俺が初めて彼の作品を見て感じた物は強ち間違いでは無かったのだろう。そう思って俺も一緒に見ていたアニメのイラストを 何気なくテーブルに置いてあったスケッチブックに描いて見せたら、玲くんから失笑をもらったけど。  あの時……神の手を持たない医師にオペされた俺は、神の手を持ったまま神の目を失いオペが出来ない医師になり絶望を舐めつくしたが、色を失ってしまった俺の世界も捨てたもんじゃ無いなと、今ならそう思える。多分それは……彼が……玲くんが俺の傍に居てくれるから。彼が俺の目に映る色だけで描いてくれるイラストが俺に夢を与え、彼が俺の目に映る色だけの世界を輝かせてくれるから。  案外、モノトーンな世界も悪くない。愛する人が傍にいれば。

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