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 1217 soire  行きよりは早足で帰ってきたから、ギリギリ夕食の時間には間に合った。  共用の冷蔵庫に入れていたケーキと食堂から皿とカトラリーを借りて戻った寮部屋で、守屋はやっぱりふわりと微笑った。 「改めて、誕生日おめでとうございます」 「あ、りがとう……でもなにこの体勢……」  いつもなら、ベッド同士のあいだに置いたローテーブルをはさんで向かいあって座る、はずなのに。なぜか俺はいま、守屋の上に向かいあって座らされている。 「お誕生日席、ってあるでしょ?」 「お……おぅ」  祝ってくれようとしているのは、甘い匂いでもしそうなその笑い顔から受ける糖度でわかる。それに、間近で触れあうなんていうのはもう日常茶飯だし、それ以上の距離で触れあうよりも濃いことをしてはいるけど。  そういうことを仕掛ける素振りはなさそうな、単純な“だっこ”が、ひたすら恥ずかしい。居心地悪いようなこのままでいたいような。そんな葛藤も赤面の種。 「ここのホントにうまいんですよ、見た目もいいんですけどね」  真尋さんは食べたことないんでしたっけ、と切り分けた手元の皿のケーキに守屋は視線を落とす。 「……なんか雪みたい、だな」  真っ白な生クリームは、固まる前のメレンゲくらいのフワッとろっとしたゆるさ。それが両のてのひらにおさまる大きさのホールケーキを丸々包み込んでいた。細いしぼりのホイップはレースを広げるように上も横も飾っていて、散りばめられた大小様々な銀のアラザンが光を弾いてきらめいている。  触れるより先に、いまにも解けてしまいそうな……やわらかな雪――淡雪。  この真白に積もっているものは、たとえるならそれじゃないかと思う。 「イメージ通りです」 「ん、なにが?」 「まあ、食べてみてください」  手に手を添えられて、言われるままフォークを通す。スポンジはチョコレートケーキだった。キメの細かなしっとり加減は、きっとシフォンケーキに近い。  俺の好みを知っているからなのかな、とまたじわりと熱だけじゃなくて涙も浮かびそうになる。だって、あいだに重ねられているクリームの層にはいちごはもちろんラズベリーとかブルーベリーも隠れていて――まるで俺のために作られたみたいに、理想のケーキだ。 「あ……おいしいっ」  ひとくちで、そう確信する。甘い……けど、甘くないというか。くちの中へ入った瞬間、こっくりと濃厚にほどけるのにまるで後をひかない潔い甘味。もっと味わいたいのに、口溶けのはやさまで雪みたい。なくなっちゃうのが惜しいケーキなんてはじめてだ。 「舌に残らないんです。すげー甘いのに、うまいのに」  もうひとくち、またひとくちをフォークに乗せて運ぶそのたびに、目の前のやさしい瞳は小さく笑う。襟足をさらさらと遊ぶ手は、頭の丸みもなでてくる。 「だからまたすぐ、ひとくち食いたくなって、気づいたらもうひとくち……味わってるんですよね」  何口めかのフォークが去ったその後に、取り残されていたクリームを俺のくちびるからすくいだして。甘くなったその指を守屋はぺろっと舌でなめとった。 「……真尋さんといっしょ」 「なにそれ……」  得意気に声を出して笑う守屋はめずらしくて。意地悪くというよりはもっと幼く、いたずらっこみたいにたのしそうで。  いまこの部屋に流れる、お互いのあいだを埋める雰囲気は――からかうよりは、じゃれるよりは『甘やかす』といった風味。  なにこの守屋、甘すぎて死ぬ。蒸発する俺、ゼッタイ。  沈黙まで甘く感じてむず痒い。たっぷり見つめられているその視線から隠れたくてケーキに集中していた鼻先に、守屋のそれが触れてくる。 「俺にもください」 「ん……」  答えるより先に、くちびるが重なってくる。とろけるくちびるはすんなり舌を受け入れて、お互いの息が甘くあふれる。だけど奪われたのは、くちびるだけじゃなかったようで。 「ひさしぶりに食いましたけど……やっぱうまいですね」  切り分けた分の最後のひとくちを味わう守屋は、なつかしそうな目をする。思い出があるのかもしれないけど俺はそんなの知らないし。するんと呆気なく外れていった舌には、未練があるから。 「でもひとくちで十分ですね、俺は……」  気づいたらもうひとくち、求めていて。盗られた甘みを取り戻すように、または奪うように、もしくはもらうように――でも分け合うようにその舌触りをからめた。 「……俺は?」  やっと浮かせたくちびるは、拗ねたような物言いになる。 「真尋さんはいつでもおいしいです。でも、どれだけ食っても……俺は足りないです」  足りないのは……すくなくとも、たぶんいまは俺のほうじゃないかなと、おもう。 「……甘いね、真尋さん」 「ん……ケーキ、のせい?」 「それもあるかな……まあ、いつも甘いんですけどね」  それは守屋のほうじゃないかな。だって触れてもらっている俺のからだはいつも奥から甘くなるしそんな奥まで入ってこられるのは守屋しかいないじゃないか。 「……ん、やだ、ちゃんと……っ」  もう、くちの中にはケーキなんて残っていないのに。さぐるようになでまわされて、必死に追いかける舌はでも触れて味わう前に剥がされる。 「……つづきは?」 「ちゃ、んと舌……からめ、て……」 「それから?」 「キス……して、もっと……」  じれて漏れでる声は腰や髪をなでるてのひらに慰められるから、継ぐ息と流れ込む唾液はたしかにシロップみたいに甘いかも……なんてバカみたいな錯覚しそうになるけど。  そんなんじゃ足りない、満たされない。  首にまわす腕で背中を引き寄せても、身を乗り出して重なりを深く押しつけたってまだ足りない。 「あ……っ」  もっとを求めて浮きあがるからだがテーブルにあたる。ワンピース欠けたホールケーキが跳ねて皿とフォークがぶつかる音がする。メインのはずなのに、全然食べてない……そっちのけにしてひっくり返しそうなほど、ちがう甘いものに恥ずかしいくらい夢中になってる。 「……食べる?」  すこしだけ意地悪く、その口許が笑うから。俺は大人しく口をあけた。行儀の悪い指がやわらかな欠片をすくって、くちびるに運んでくれる。 「ん……ぅ、んっ」 「大きかった?……こぼれちゃいましたね」  つままれているクリームとスポンジの塊は、ひとくちよりも大きい。その意地悪な企みは――わかっていることだから、はだけた胸元に落ちてくるつめたさを甘受する。ボトボト……とろっ、と胸に広がる食べこぼし。  はやくなめてほしいし、啄んでもらいたくて背中は反るから、けだるく流れて崩れ落ちていく。 「んっ……ぁ……なん、で?」  その軌跡は胸の尖りだって経由しているのに。歯でかすめるのも食まれるのも、そこじゃなくて。 「……なんで、ケーキばっかり……ン、たべ……るのっ」  なめとられてくすぐられているのは、そこを避けた甘いところのみ。それはそれで、肌も腰も……奥もぞわぞわ疼くけど。このままじゃケーキのこと嫌いになりそうだ。 「やだっ……俺の、ことも……食べて」  丁寧に意地悪く舌を這わせるその顔に、甘くないヤキモチと涙に溺れそうな底から手をのばす。 「それ……来年の俺の誕生日に、もう1回言ってくださいね」  頬に添えた俺の手を、自分のてのひらで包み返して。戯れるようにつないだ小指に、くちづけた。 「……約束ですよ?」  その、他愛ない指切りで―― 「てか、ベトベトですね。おわったらいっしょに風呂入ります?」 「……え!?」 「あーでも……たのしみは先に取っときましょうね、俺せっまいユニットバスでイチャつくの夢なんです」  すこしの躊躇いもなく冬がおわって、離れる春がやってきても―― 「あと1年ちょっと待っててくださいね……迎えにいきますから」  それを越えた先の季節も。変わらずとなりにあることを望んでくれるのなら……きっと。  ――あとこれだけと指折り数えた最後の小指は、待ち遠しい春になる。 _Ex.6 1217 matine soire

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