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act.6 ライラ ~今、君を思う~ 

「なんだ、わざわざ来なくても良かったのに」  仕事を定時で終わらせ、病院へと足を運ぶと本を読んでいた課長の片桐が驚いた表情で出迎えてくれた。  強面な理人とは対照的な、穏やかで何処かふわんとした雰囲気を持つ男。年齢は確か50代だったと記憶しているがそこそこ仕事は出来る。本来なら自分なんかより片桐の方が部長に向いているような気もするが、当の本人が部長職への昇進の話を断ったらしい。 欲のない男だ。自分は縁の下から支える方が向いていると、課長という役職にとどまり続ける男は年下の理人が昇進した時でさえ素直におめでとう! と言って自分の事のように喜んでくれていた。    怪我をしたと聞いた時、何故係長ではなく、課長なんだ!?と、そう思ったことは記憶に新しい。 「そう言えば、ひき逃げ犯は捕まったんですか?」 「いや……。それが、まだ……」 「……」  理人の問いに、片桐は困ったように笑って視線を逸らす。 「一応、目撃者が居たみたいでな。捜査自体は順調に進んでいるらしいが……」 「まさか、見付かっていないなんて……」 「まぁ、大丈夫だろう。その件に関しては警察に全て一任しているから。それより、みんなは元気にしているかい?」 「そう、ですね。最近はすっかり浮足立ってますが、特に大きな問題もなくやっています」  理人は苦笑を浮かべながら答えると、部屋を見渡した。4人部屋で簡易式のカーテンで仕切られただけの簡素な造り。しかし、清潔に保たれていて入院患者が過ごすには十分な設備が整っている。  ここ数カ月で片桐は少し痩せたようだ。だが、全体的には元気そうで安心した。  それから談話室に移動して、萩原が結婚したことや、瀬名という即戦力のメンバーが加わったことなどを掻い摘んで話した。流石に不謹慎かと思ったので岩隈の件は伏せたが、萩原の結婚の話題は意外にも興味津々といった様子で聞いていた。  その後、理人は会社であった事や、仕事の進捗状況などを報告し、最後に一言、「何かあったらいつでも連絡してください」とだけ言って立ち上がった。  本当はもう少し話がしたいところだったが、あまり長居しても他の入院患者たちの迷惑になってしまう。 「部長はしばらく見ないうちに丸くなったみたいだね。体型的な意味では無くて……うまく言えないが変な力が抜けていると言うか……」 「そう、でしょうか?」 「ああ。良い表情をしているよ。何かあったのかな?」 「いえ、何もありませんが……」  エレベーターを待っている間、片桐にそんな事を言われて理人は首を傾げた。  自分が変わったと言われても、全く自覚はない。だが、もし変わったとするならば――。  ふと、瀬名の顔が脳裏に浮かびじわじわと頬が熱を帯びていくのを感じ、課長から慌てて視線を逸らした。なんで、こんな時に……っ!  理人はブンブンと首を左右に振ると、動揺を悟られないよう咳払いをする。 「おや、その反応……やっぱり何かあるんじゃないのかい? 私の勘は良く当たるんだ」 「本当に、何でもないですからっ」 「ふぅん?……まぁ、いいや。あぁ、そうだ……鬼塚君、朝倉には気を付けといたほうがいい」 「……は?」  不意に真面目なトーンで告げられて、理人は怪しげな眼差しを向ける。だが、片桐はそれっきり多くは語らずウインクを一つ寄越しただけだった。  朝倉に気を付けろ? 一体、どういう意味だろうか……?  もしかしたら、課長のひき逃げ事件と何か関係が――?  エントランスへ向かうエレベーターの中、理人は眉を寄せながら首を捻った。  普段、確信の持てないことはあまり口に出さない課長がその名を出してきた。という事は、これは少し、調べた方がいいかもしれない。  理人は、スマホを取り出すとある人物に電話をかけようとしてディスプレイを開いた。  するとメッセージが1件届いていた。瀬名からだ。 【出張が少し延びました。おそらく、25日には帰れると思います】  瀬名からのメッセージに思わず眉をひそめた。  後5日もすれば瀬名に会える。そう思うだけで心が躍る。 だが、逆に言えば後5日もある。  それだけの時間、ずっとこの気持ちを抑えながら耐えられるのだろうか。 「――はぁ、あと5日……か……」  思わず洩れた深い溜息に苦笑しつつ、自分が何のためにスマホを取り出したのか思い出して、理人はある人物へと電話を掛けた。

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