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ブルドック ⑬

 瀬名が復帰してから一週間がすぎ、理人たちのいるAC 企画開発部にもようやく新たな日常が訪れつつあった。  朝倉の突然の辞令に一瞬部署内は騒然となったものの、元々目立つ人物でもなかった為か今では誰も気にする者は居ない。 「それにしても、北海道なんて随分と遠い所に飛ばされましたね、係長。僕、とうとう挨拶出来なかったなぁ」  昼の休憩中、ほぼ貸し切り状態の喫煙室で煙草を吹かしながら瀬名がポツリとそんな事を呟いた。途端、理人の眉が寄り眉間に深い皺が寄る。 「あんな奴に挨拶する必要なんてねぇだろ。お前は殺されかけたんだ」 「え? やだなぁ何言ってるんですか? 僕を轢いたのは真っ黒い車で、朝倉さん関係ないじゃないですか。サスペンスの見過ぎじゃないですか?」 「……」  きょとんとして不思議そうに首を傾げる瀬名を見て理人は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべると深い溜息を吐き出した。  そう言えば、瀬名には事件の真相を何も話していなかった。恐らく瀬名はあの事故が単なる轢き逃げだったと今でも思っているのだろう。  今更、話した所で嫌な気分になるのは目に見えている。わざわざ蒸し返してまで話す必要もないかと思いなおし、理人は黙り込んだ。 「ねぇ、理人さん。今夜BLACK CATに行きません? 最近、顔出してないですし」 「別に、アイツらの顔なんて見ても面白くもなんもねぇだろ」 「でも、お見舞い貰っちゃったので……流石にこのままってわけにはいかないでしょう? それに、久しぶりに酔った理人さんも見てみたいし」 「物好きだな……お前」  呆れたように言うと瀬名はふふっと笑って唐突に唇を塞がれた。避ける暇も無かった。  理人は慌てて顔を引こうとしたもののそのまま瀬名の胸に引き寄せられて自由を奪われる。  瀬名が愛用しているフレグランスの香りが降り注ぐように落ちて来て、心臓がドキドキし始める。 「ばか、職場ではダメだといつも言っているだろうが……っ!」 「大丈夫ですよ、此処には僕たちしか居ませんから」 「……そう言う問題じゃねぇ!」  不意に、以前朝倉に見せ付けられたオフィスでの隠し撮りの存在を思い出した。もう二度と同じ轍は踏みたくないし、あんな風に軽蔑された目で見られたくない。 「っ、いい加減にしろ馬鹿っ!」  渾身の力で押し返し、ぎろりと睨み付けると瀬名は肩をすくめて「冗談ですよ」と笑う。  理人は小さくため息を吐くと吸いかけの煙草を灰皿に押し付け火を消した。 「てめぇの冗談は、冗談に聞こえねぇんだよ!」 「ちょっと、期待してたくせに?」 「……っアホか!」  耳元で甘い声で囁かれ、動揺を誤魔化す為に踵を上げると瀬名の靴先を狙って思い切り踏みしめた。  なのにそこに足は無く、逆に開いた足の間に瀬名の膝が割って入る。股間をグリッと押し上げられ、思わず声を上げそうになるのを堪えて、ギロリと瀬名を睨み付けた。 「……おい、やめろ」 「ふふ、怒ってる顔も結構そそられますね」 「クソが、変態!」 「えぇ、僕は貴方の全てが好きなので」 「……っ」  真っ直ぐに見つめられ、理人は言葉を失った。そんな理人を瀬名は嬉しそうに抱きしめてくる。 「理人さん……」  熱い吐息が首筋を撫で、理人は慌てて身を離すと瀬名の額を掌で叩いた。 「だからっ、ダメだって言ってんだろ! 何サカろうとしてるんだこの、バカ! いい加減人の話を聞けっ!」 「痛っ、理人さんの照れ屋さん」 怒ってはいるものの、理人が本気で嫌がっていないのを瀬名は見抜いているのだろう。口元は楽しげに弧を描いている。 「ふざけんな! ほら、てめぇのせいで休憩時間が終わっちまうじゃねぇか! さっさと行くぞ!」  理人は早口で捲し立てると逃げるようにして喫煙室を後にした。

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