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ムーランルージュ ⑨

結局その日は一日中瀬名とは口を利かなかった。というより、理人が敢えて避けていたと言った方が正しいかもしれない。  瀬名は何か言いたげだったが、仕事に集中したいと言ってその場を離れたり忙しいふりをして瀬名を視界に入れないようにしたりと、理人は徹底的に瀬名を避け続けた。  これでは何の解決にもならないのはわかっていたが、避ける以外の方法が思いつかなかったのだ。 「――はぁ」  定時になり、理人は瀬名の姿を確認してから逃げるように会社を出た。  外はすっかり暗くなっており、空を見上げると厚い雲に覆われていて今にも雨が降り出しそうだ。エントランスを抜け、駅までの道のりを歩きだそうと一歩踏み出した時、スラリとしたモデル体型の女性とすれ違った。それだけならよくある光景なのだが、その彼女から瀬名が愛用している香水の香りがして理人の足がぴたりと止まる。  オフホワイトのワンピースを身に纏い、背中まである美しい黒髪を靡かせながら今、理人が出て来たばかりのオフィスへと足取り軽く向かって行く。間違いない、コイツが真奈美だ。  昼間も来たのに、終業時刻にまで迎えに来たと言うのだろうか。その事になんとも言えないモヤモヤした気持ちが湧き上がってくる。瀬名は真奈美に愛されている。それを再認識させられて胸がズキズキと痛んだ。実際に彼女の姿を目の当たりにしたことで、益々自分の存在意義がわからなくなっていく。 「……っ」  きっともうすぐ瀬名もここから出て来るだろう。仲睦まじい姿を見せ付けられるなんて考えるだけでもゾッとする。  そんなの見たくない――。  理人は急いで駅まで走り、電車に飛び乗った。家に着くまでに数件瀬名から着信が入っていたようだが、折り返すこともせず着の身着のままベッドに倒れ込んだ。スーツが皺になるかもしれないとも思ったが、どうでもいい。このまま闇に沈んでしまいたかった。  ふと、部屋の隅に置かれている渡しそびれたままのプレゼントが目に付いた。 血痕が付いたままになっているソレは酷い有様で、こんなもの渡せるわけがないと自嘲気味に笑う。  何度も捨てようと思ったのにどうしても手放せず、かと言って今更渡すことも出来ない。  中途半端な状態が今の自分と重なって余計に虚しくなった。  じわりと滲んできた涙を枕に擦り付け、気持ちを落ち着かせる為に深呼吸を繰り返した。  結局、なんだかんだと甘い言葉を囁いていたのは、ただのリップサービスみたいなものだったのだろう。  本気で思ってくれていたとしたら、女遊びなんて出来るはずがない。 (自分だけ舞い上がって浮かれて……馬鹿みたいじゃねぇか)  真奈美の存在を知った以上、瀬名との関係はこれで終わりだ。続けていく事など出来るはずがない。  瀬名の本命は間違いなく真奈美で、自分など眼中にない事がよくわかった。これ以上一緒に居ても傷つくだけで、それならば早いうちに離れた方がいい。  初めて抱かれたあの日から、瀬名の腕の中が心地良い場所になっていた。瀬名に触れられると心が満たされた。だが、それも全て自分の勘違いだったのだ。  瀬名にとっては都合がいい男だったんだろう。妊娠させる心配はないし、身体の相性がすこぶる良かった。ただそれだけだったのに、それを愛されていると勘違いしてしまった。  結局全ては理人がひとり相撲していただけだったのに――。  そう考えると、どうしてもあふれる涙を止めることが出来なかった。

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