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ムーランルージュ ⑬
「――はぁ」
終業時間はとっくに過ぎ、最後の一人になると理人は深い溜息を吐いた。桐島が来てからというもの、自分の仕事が思うように捗らない。
課長がある程度は手伝ってくれるものの、最終判断や重要書類などはどうしても自分が目を通さねばならずここの所遅くまで残業が続いている。
でもまぁ、忙しいのは嫌いではないし家に戻っても憂鬱な気分になって、一人になるとどうしても沈みがちになってしまうから丁度いいのかもしれない。
瀬名と話さなくなってやがて2週間が過ぎようとしている。あの時、瀬名は確かに何かを伝えようとしていた。話し合う余地はあったはずなのに、真奈美という名前が瀬名の口から出た事で怒りが最高潮に達し、聞く耳を持てなかったがあの時ちゃんと話を聞いておくべきだった。
どれだけ気が短いんだと、自分の余裕のなさに嫌気がさす。
頭が冷えた今なら落ち着いて話が出来るかもしれない。
理人は、ここ数日の間に何度か瀬名の番号をスマホのディスプレイに表示させては消すことを繰り返していた。昼間は一臣が邪魔をしてくるため中々話す機会が無い。
思い切って電話を掛けてみれば、思いの外あっさりと解決するのかもしれない。だが、今以上に状況が悪化する可能性も捨てきれず理人は二の足を踏んでいた。
瀬名に会いたい。会って直接顔を見て話がしたい。自分から切り捨てておいて都合が良すぎるかもしれない。それでもやはり、このままという訳にはいかないだろう。
何より、このままギクシャクするのはお互いの為にならない。意を決して通話ボタンを押そうとしたその時―――。
「なんだ、やっぱりまだ残ってた。大変だなぁ、管理職ってのは」
人を小馬鹿にしたような声が聞こえ、理人は盛大な溜息を吐いた。
「出来の悪いお前に掛かりっきりなせいで自分の仕事が終わんねぇんだよ。たく、俺じゃなくて瀬名を頼れといつも言ってるだろうが」
「俺はアンタに教えて貰いたいんだ。他の奴なんか興味はねぇよ」
一臣は挑発的な眼差しで理人を見据えながら、ゆっくりと歩み寄ってくる。その根拠のない自信は一体何処から湧いてくるのか。
「たく、お前と言うやつは……で? お前はこんな時間に何しに来たんだ? 飲みに行くって言う話なら断っただろうが」
パソコンから目を逸らさずに尋ねると、一臣は理人の側にコトリと開封済みのコーヒーの缶を差し出して来た。
「差し入れ。いつも頑張ってる部長サンに」
言いながら、自分も同じ銘柄のコーヒーに口を付ける。
「……」
一臣がわざわざ差し入れを持ってきたと言う事実に理人は眉根を寄せた。今までそんな事は一度も無かったのに、急にどういう風の吹き回しなのか。
疑いの眼差しを向けると一臣は心外だとばかりに肩を竦めて見せた。
「これでも一応、悪いとは思ってるんだぜ? なんだかんだで俺にダメだしばっかしてるせいで、アンタ最近全然休めていないみたいだし?」
一臣の言葉に理人の手が止まる。何も考えていないように見えたが、一応は気にしていたという事に驚きを隠せない。
「たく……そう思うのなら早く一人前な資料作成位出来るようになれ! 何時までも俺の手を煩わせてるんじゃねぇよ」
理人は小さく肩を竦め息を吐くと、パソコンの画面に視線を向けたまま、貰った珈琲缶に口を付けた。
何時も飲みなれている銘柄とは違うが、飲みやすく、丁度喉も乾いていた為あっという間に半分ほど飲んでしまう。
その様子を眺めながら、背後で一臣がにやりと口角を上げた事にこの時理人は気付かなかった。
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