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キャロル ④
オフィスに着くと、一臣が既に出社しており自分のデスクに座ってパソコンに向き合っていた。フロアには既に半分ほどの社員が出勤しており理人の姿を認めると皆一様に挨拶をして来る。
そんな中、一臣だけは理人に気付くと立ち上がりもせず口角を上げてニヤリと笑って見せた。
「よぉ、結構来るの遅いんだな」
「……」
昨夜あんな事があったばかりだから、今日はもしかしたら来ないかもしれない。そう思っていたのに何事も無かったかのような態度で接されて逆にこっちが戸惑ってしまう。
理人自身は、昨日の今日でまだ一臣に対してどんな顔をすればいいのかわからないのに、どうして一臣は平然としていられるのだろうか。
ただ単に神経が図太いだけなのか、それともアホなのか……。どちらにせよ、一臣はやっぱり一臣だった。
「上司に対する口の利き方がなってないと何度言えばわかるんだお前は」
「あー、はいはい。サーセン」
相変わらずの生意気な態度は健在で、全く悪びれた様子もない。
(こいつには反省ってもんが無いのか?)
呆れてものも言えないとはまさにこの事か。理人は疲れたようにため息を吐くと付き合っていられないとばかりに自分のデスクへ向かおうとした。
「待てよ。ちょっと話したいことがあるんだ」
しかし、それを遮るようにして一臣に呼び止められる。
無視して立ち去ろうにも腕を掴まれてしまい、仕方なく足を止めた。
一体なんの用だと振り返れば、一臣は理人の耳元に唇を寄せて小声で囁いた。
「アンタ、マジで俺のモンになれよ」
「……あ?」
コイツは朝っぱらから何を言っているのだろうか。昨夜、お仕置きと称してお互い醜態を瀬名に晒したばかりだと言うのに。もしかしてまだ寝ぼけているのでは?
言っている意味が判らず訝し気な表情で一臣を睨み付けた。
「アンタが瀬名と付き合ってんのも、瀬名がアンタに執着してんのもよーくわかった。だから、俺は全力でアイツからアンタを奪う事に決めた」
「は……」
一臣は一体何を言っているのかと、理人の表情が凍り付く。
冗談にしてはキツすぎて、流石に笑えない。だが、本人は至って真面目なようで鋭い眼光に真っ直ぐ見つめられて息が詰まる。
それよりなにより、此処はオフィス内。誰が聞いているかもわからないような場所でするべき会話では無い。
本当に空気の読めない奴だと眉間に深い皺が寄る。だが、一臣は周りの事など意に介さず話を続けようとする。
「俺、今度こそアイツには負けねぇから」
「お、おい……俺は……」
なんだか大変な事を宣言されてしまったような気がして、何か言わなければと口を開きかけたその時。
「いい度胸だけど、そんな事にうつつを抜かしてる暇があったら早く一人前になれるように 努力したらどうだい?」
突然、背後から声をかけられてビクリと一臣の肩が跳ね上がった。
振り返ればそこには腹黒そうな笑みを浮かべた瀬名が立っていて、二人の間に割って入ってくる。
「あ? んだよ、邪魔すんなよ」
「邪魔? それは失礼。でも、そろそろ仕事の時間だよ? 随分と余裕ぶっこいてるみたいだし、もっと君に仕事回してもいいって事だよね?」
そう言うと瀬名は氷のような笑みを一臣に向けた。言葉は丁寧だが有無を言わせない迫力があって、さすがの一臣もそれ以上何も言えなくなってしまう。
「チッ……わーったよ」
一臣は不機嫌そうに舌打ちすると、「また後でな」と理人に告げて踵を返した。そして、そのまま自分の席へと戻って行く。
「全く、あの馬鹿、また理人さんにちょっかい出して……油断も隙も無いな。アイツになんか変なことされてません? すみません、僕が目を離していたばっかりに」
「い、いや……問題ない。それより、お前も職場では部長と呼べと言ってるだろうが!」
理人は慌てて瀬名の口を塞ぐと、周囲に視線を走らせながらヒソヒソと小声で注意した。
全く、どいつもこいつも。こんな所で変な噂を立てられたら堪らない。
それにしても……さっきの、一臣の態度……。何かのドッキリか何かだろうか? それとも本気で言っているのか?
奪うって一体どうやって? まさか昨夜みたいな事をする気じゃないだろうか――。
しばらくグルグルと考えてみたけれど、一臣の本心なんてわかるはずがない。
だんだんと、頭が痛くなってきて思わず額に手をやり深い溜息が洩れた。
一臣がどんなに迫って来ても自分は瀬名が好き、なのだ。
その気持ちが揺らぐ事なんて……。
だが、もしも昨夜みたいな展開になってしまったら? 一臣が真剣に迫ってきたらどう対応すればいいだろう。
「大丈夫ですよ、部長……。何があっても、僕が守ってみせますから」
理人の考えを読んだかのタイミングで耳元で囁かれ手の甲に押し付けていた額を離して顔を上げた。
「――っ」
気付いた時にはもう、間近に瀬名の唇が迫っていて――。ちゅっと唇に触れるだけのキスが落とされた。
一瞬の出来事で何が起こったのかわからずポカンとしていると、瀬名は悪戯が成功した子供のようにクスッと笑う。
「お、お、おま……っ」
「大丈夫ですよ。パソコンの画面と僕の身体で隠れて皆には見えてませんから」
ふふっと笑うと瀬名は満足そうに自分のデスクへ歩いて行った。
確かに理人のデスクは孤立しているし、大きなパソコンによって遮られていたかもしれない。とはいえ、誰もいないわけではない。既に仕事は始まっておりフロア内には何人もの社員がいるのだ。
もし、誰かに見られでもしていたら――。
そう思うと一気に全身の血が沸騰するかのように熱くなった。きっと真っ赤になっているに違いない顔を隠すように両手を組んで俯き額をゴリゴリとそこに押し付ける。
落ち着け、落ち着くんだ。そう自分に言い聞かせても、ドクンドクンと鼓動は激しくなるばかりで一向に治まる気配が無い。
瀬名め、なんてことをしてくれるんだ。これじゃ暫く顔を上げられそうにないじゃないか。
「あの、部長……大丈夫、ですか? 熱でもあるのでは?」
「問題ない。確認が必要な書類ならそこに置いておいてくれ」
「は、はぁ……」
困った。一臣のせいで、瀬名の変なスイッチが入ってしまった。
こんな毎日が繰り返されると思うと先が思いやられる。
(……クソっ)
理人は小さく悪態をつくと、とりあえず今は仕事を片付けるべく気持ちを切り替えてキーボードに指を滑らせた。
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