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3 指輪の持ち主

 自動販売機で水を購入する。ペットボトルを手にその場を離れようとして、視線に気付き振り返った。  談話室で雑談している集団に、一際目立つ赤毛の青年が居た。先程、食堂で前に並んでいた青年だ。 「……?」  見られた気がしたが、青年はこちらを見ていない。気のせいだろう。落ち着かないままに階段を上る。おれの部屋は五階だ。  しばらく階段を上り、また視線を感じて振り返る。あの青年だ。何階に住んでいるのかおれは知らない。少なくとも、五階には住んでいない。同じフロアの住人の顔くらいは把握している。 (なんか嫌だな。早く戻ろう)  部屋に戻ったら、アイチューブで『ユムノス』のMVでも観よう。亜嵐くんの笑顔で癒されなきゃ。  足早に階段を駆け上がる。すると、何故か赤毛の青年が走ってきた。 「何でえ!?」  まさか、おれを追いかけている? そう思ったら怖くなって、思わず駆け足で階段を上る。 「っ! 待て!」  明らかにおれだ。おれを追っている。 (なんでっ!?)  先程ぶつかったとき、態度が悪かったからだろうか。向こうが悪いのに。 (早く部屋に入っちゃおう!)  住人とトラブルとか、冗談じゃない。  部屋前まで走り、鍵を取り出す。早くしなきゃ。ガチャガチャと鍵を鳴らして、施錠を外す。 (開いたっ!)  扉を開け、部屋に滑り込むように入る。助かった。  そう思ったのに。  ガシッ。 「え?」  ドアから、男の腕が伸びる。閉まりかかった扉を開いて、赤毛の青年が立っていた。 「ちょ、ちょっとぉ!?」  まさか部屋にまで追いかけてくるとは思わず、おれは青くなった。乱暴そうな見た目の彼に、ゾクッと背筋が震える。二十七年生きてきて、暴力とは無縁だった。 「ちょっと、邪魔するぞ」  青年は低い声でそう言うと、強引に部屋の中へ入ってしまった。恐怖に固まるおれのすぐ耳元に手を伸ばし、彼は部屋の明かりをつける。 「ひっ……」  萎縮するおれと余所に、青年は平然とした態度で、一度部屋を見回す。壁には亜嵐くんのポスター。誰かを招いたことはない。部屋を見られたのは始めてだった。戸惑いが余計に大きくなる。 「なっ、何ですかっ!?」  ビクビクしながら青年を見上げる。青年はおれより目線が少し高い。握手会の時に見上げた亜嵐くんくらいだろうか。それならば183センチだ。 「あんた、これ」  グイと腕を掴んで、捻りあげられる。 「痛あっ!」 「あ、悪ぃ」  パッと腕を離され、おれは後ずさった。左腕が痛い。酷い。あんまりだ。  涙目で睨み付けると、青年は少し怖じ気づいた顔をした。だが、引く気はないらしい。出ていく素振りもなかった。 「何なんだよっ!?」  早く帰って欲しい。出ていって欲しかったが、怖くて近づけない。オドオドしながら、亜嵐くんのポスターの近くに逃げた。助けて亜嵐くん。 「――あんた、その指輪」 「指輪?」  指輪という言葉に、ドキリと心臓が跳ねた。まさか。 「その指輪、見せて」 「えっ……」  咄嗟に指輪を手で覆い隠す。青年がムッとした顔をした。ズカズカと足音を立てて、一気に詰め寄ってくる。 「おい、見せろって言ってんだろ!」 「やっ……」  強引に腕を引っ張られる。 「や、嫌だぁ、エッチ!」 「エッ――何がだよ!」  青年が戸惑いを向ける隙に、再び壁際に逃げる。 (もしかして……。指輪の、持ち主?)  何となくそう思いながら、俄には信じがたかった。青年がそういうタイプに見えなかったからだ。繊細そうなイメージを勝手に抱いていたせいで、謝罪のタイミングを逃している。 (もし、この指輪の持ち主だったら――返さなきゃ……いけないのか)  当然の話だったが、愛着が沸いてしまって残念だった。 「やっぱ、俺のじゃねーか……。返せよ」  ぶっきらぼうに言われ、ムッとして顔をしかめる。つい、反論してしまった。 「しょ、証拠はっ?」 「あ? ……んなもん……ねーけど……」  青年が戸惑う。この指輪が彼のものだという証拠はない。指輪には刻印はなかった。 「じゃあ、渡せません」  不法侵入されて、腕を捕まれたのだ。少し意地悪してやろうと思ってしまった。恐くて足は震えていたけど。 「何だと?」 「ひっ!」  ビクッと肩を震わせ、頭を庇う。殴られたりするんだろうか。怖い。けど、指輪を渡したくない。もう、おれのものなのに。 「はぁ……。あのさぁ、何でそんなもん嵌めてるわけ? 返せよ。それか、棄てろ」 「は?」  青年の言葉に、おどろいて顔を上げる。 「目障りなんだよ、それ。さっさとしろ」 「――じゃあ、下さい」 「は?」  今度は、青年が聞き返す番だった。  どうやら彼は、指輪が不要らしい。それなら、おれが貰っても良い筈だ。 「要らないんですよね。下さい。気に入りました」 「ばっ……。バカか、あんた!」 「ど、怒鳴らないでっ」  また怒りを見せる青年に、怖くて身体が震える。 「チッ……。やるわけないだろ。さっさと返さねえと、指ごと――」 「指ごと?」  青年は言い掛けて、止めた。何を言おうとしたのか、聞くのが怖い。青年はため息を吐いて、ゆっくりおれに近づいた。野良猫相手にするように、おれを怖がらせまいとしているようだ。 「良いから、返せ。解ったな?」 「い、嫌だ。棄てちゃうんでしょ? おれが返したら、棄てるんだろっ?」 「棄てる」 「良いじゃないか。きみは棄てた。おれは拾った。それで良くない? なんなら、お金払うし……」  ダン。青年が壁を叩いた。俗に言う壁ドンである。 「金の問題じゃねえんだよ」 「ああああ、亜嵐くん!」  亜嵐くん(ポスター)が殴られた。推しを殴ったこの人。やだ、怖い。 「もお、何なんなの! 帰って! 帰ってーっ!」  ぐいーっと青年の胸を押す。だが、びくともしない。 「騒ぐな! 返せば帰る。早くしろよ!」 「嫌だもん、おれのだもん! 亜嵐くんがくれたんだもん!」 「誰だよ!」  腕を引っ張られ、胸を押し返す。力じゃ勝てない。無理だ。無理やり手を開かされる。このままじゃ取られちゃう。 「――っ! キス!」 「あ?」 「キスしてくれたら、返します!」  何でそんなことを言ったのか解らない。多分、ドン引きして逃げ帰ってくれるのを期待したんだ。  出来っこない。そう思ったから。 「は。二言はねぇな」  え。  反応するより早く、青年の唇がおれの唇を塞いだ。

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