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夏の風物詩と。 11
ほぼ同時に伊東が叫び、走り去ってしまった。
「あ·····っ! おいっ!」
慌てて追いかけようとしたものの、逃げる足は早く、あっという間に姿が見えなくなってしまった。
「···············」
喧騒から一変、自分の荒くなった息遣いがよりはっきり聞こえるぐらい、周りが急に静かになる。
遠くの方で蝉が鳴き、額から汗が流れ落ちる。
その間でも、心臓が緊張で脈打っている。
──そんな時だ。伊東が逃げ出した方向に赤い着物がちらついたのは。
目がカッ開き、一気に体が強ばる。
その赤い着物を着ているのは、しずしずとした足取りで、左から右へと歩いて行く長い髪の女性。
その風貌を見た時、まさかと眞ノ助は声を上げた。
「『金平糖の君』!」
一目散に駆け出した。
このような場所で会えるだなんて。だけど、こんな所で一体何をしているのだろう。
けれども、また会いたいという願いが叶ったことに、眞ノ助は少なからずとも嬉しく感じた。
右へと姿が消え、その角に沿って曲がる。
すると、やや遠い距離にとある部屋に入っていく『金平糖の君』に似た女性の姿を見かけ、脇目振らずその後を追った。
閉められた年季の入った木の板のような扉のやや上よりに、丸い果実が半分に割られ、その断面に果肉らしい粒状のものが詰まっているというのが彫られていた。
それを瞳に捉えた時、指先でその彫刻をなぞった。
その果実は、恐らく。
その瞬間、あの頃の記憶──見目麗しい祖父の『大事な人』と会った時のことが甦る。
祖父が臆することなく立て付けの悪い玄関の扉を開け、目を凝らせばようやく見える土間に足を踏み入れ、そうして、つぎはぎだらけの障子に手をかけた。
怖いと思いながら、祖父に無理やりに手を引っ張られ、緊張と不安が入り混じった気持ちを胸にゆっくりと障子を開けた。
唯一の光源である外窓のそばに、情熱的な赤い着物に身を包んだ艶やかな女性が──いなかった。
おかしい。この部屋に入っていくところをこの目で見たはずなのに。
数秒間、自身の見ている光景が信じられずその場に立ち止まっていたが、割られたガラス窓の外を見て、霞んでいた頭が覚醒する。
やや木々に覆われてはいるものの、側仕えと伊東が言っていたらしい池が見えた。
もう少し近くで見てみようと、一歩、また一歩と土足で畳をふみしめていた。
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