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第5話

 男子生徒はずれた眼鏡をあわてて直し立ち上がると、唯斗を見て目を瞠る。 「せ、瀬名君……!」 「えっと、確か三組の……」 「樫村じゃねー。おまえ何してんだよ」  和彦が唯斗を押しのけて前に出た。確か和彦と彼とはクラスメイトのはずだ。樫村と呼ばれた目立たない印象の男を、唯斗も校内で見たことはあったが、名前までは知らなかった。  ただその顔を見た瞬間、頭の隅に何かが引っかかった。思い出せないが、直接言葉を交わしたことがある気がするのだ。  一体どこでだっただろう。 「岩倉君……」  樫村は和彦を見ると、少し怯えた表情で一歩下がった。 「同じクラスの樫村祐二ってヤツ。電脳研究会の不気味系オタク」  和彦がほとんど蔑むような目で樫村を見下ろし、面倒くさそうに紹介する。 「あ、あの、すみません。声が聞こえたので、誰かいるのかと来てみたら、その……」  何も非はないはずなのに萎縮しきった樫村は、恐縮しながら聞かれもしない言い訳を口にする。唯斗は、舌打ちし勢い込んで何か言い返そうとする和彦を片手で制した。 「樫村」 「は、はいっ?」  弾かれたように唯斗に向けられた顔は、極度の緊張のためか強張っている。 「俺達全く今の状況がわかってないんだ。朝起きたら部の連中が誰もいなくなってた。スマホは電源が入らないしテレビも映らない。おまえ何があったか知らないか?」 『他のサッカー部の人なら体育館にいましたよ』などという楽観的な答えを期待していたわけではないのだが、俯き首を横に振る相手にさらに落胆が深まる。 「僕も何もわからないんです。昨日はパソ室でプログラミングしてるうちに夢中になって、そのまま泊まってしまって、朝起きて外に出たら町には誰もいないっていう状態で……」  聞き取りづらい小声でたどたどしくしゃべる。前で組み合わされた指は微かに震えている。ひどく緊張してはいるが、嘘をついているようには見えない。 「今日ネットは繋いだのか? 何かわかったことはないか?」  隆輔が穏やかに尋ねると、眼鏡の奥の気弱な瞳が彼に向けられわずかに安堵の色を浮かべた。  一見威圧的に見える硬質な面差しにも関わらず、隆輔は人に安心感を抱かせる不思議な雰囲気を持っている。 「それが、全然繋がらないんです。パソ室の端末全部電源が入らなくて。昨日までは普通に使えてたのに。すみません」  まるでそれが自分の責任でもあるかのように謝罪し、樫村は力なくうなだれた。  場に再び重い沈黙が下りた。 「とにかく一人だと危ないから、樫村も俺達と一緒にいろよ」 「おい、ユイ」  非難の声を上げかけるのを強い目で見返ると、和彦は軽い舌打ちと共に首をすくめる。直情的な和彦は気に入らないことには何かとすぐに文句をつけるが、最終的にはいつも唯斗の意見に従ってくれる。 「えっ、い、いいんですか?」  意外なほど勢い込んで聞き返し、樫村は目を輝かせた。 「うん。俺達以外誰もいないみたいだし、状況がわかるまで一緒にいて様子見た方がいいと思う」 「ありがとう、瀬名君」  眼鏡の奥からみつめて来る気弱だが澄んだ眼差しには、やはり確かに見覚えがある。絶対にどこかで話をしたことがあるはずなのに、思い出せないのがどうにもすっきりしない。 「校内にも何も手がかりがないとなると、とりあえずは、合宿所に戻ってこれからのことを考えようか。テツも帰ってるかもしれないし」  広樹の提案に全員が同意する。  買い出しに出た哲也がそのはしっこさを駆使して、何か有益な情報を持ち帰っているかもしれない。  一縷の望みをかけて、樫村を加えた一同は長い廊下を出口へと戻り出した。 「ん? あそこに誰かいるな」  途中、視力のいい隆輔が、校庭に面した窓を指差した。全員が一斉に窓に張り付く。  校門の方から人が歩いて来る。左右にフラつきながらひどく心許ない足取で、合宿所の方に向かって行く。着ている濃紺のユニフォームは間違いなくサッカー部員のものだ。 「テツ……?」  勝のつぶやきに誰も反論しなかった。確かに遠目にも、その色の薄い茶髪や小柄な体は下田哲也に見えた。ただあんなふうに背を折り、不安定に上体を揺らしながらかろうじて歩く様子が、ピッチ上をかろやかに駆け回る俊敏な姿と重ならないだけだ。しかも買い出しに行ったはずなのに、その両手は空だ。  千鳥足で合宿所を目指していた哲也は、ついにその膝を折った。 「っ……」  唯斗は走り出した。階段を一気に駆け下り校庭を突っ切る。全員の足音がついてくる。 「テツ!」  名を呼んで駆け寄るが、哲也はその場に四つん這いになったまま動こうとしない。どこか怪我でもしたのだろうか。 「テツ? おい、どうしたんだ」  正面にしゃがみ両肩を掴んで引き起こした。  その双眸を見た瞬間、唯斗は言葉を失った。  いつも屈託なく輝いている表情豊かな瞳に、今は全く光は見えない。焦点の合っていないそれは、ただの真っ暗な二つの穴だ。そこに表れている感情はただ一つ、恐怖だった。 「あ……あれが……」  聞き取れないほどの掠れ声が、凍り付いた唇から漏れた。 「え?」 「あれが、来る……。すごく、大きくて、真っ黒で、脚がいっぱい……長い、ネバネバした舌で、俺のこと捕まえようとした……。きっと、あいつに襲われたんだ……。みんな……みんな、あいつに食われたんだ!」  何を言っているのかわからない。ただその見るからに錯乱した状態は芝居気の欠片もなく真実味に迫り、底知れぬ恐怖を伝染させる。  全員が絶句し立ち尽くしたまま、まるで彼の存在自体が恐ろしいものででもあるかのように哲也を見つめている。 「テツ、落ち着け。何があったんだ? 外で、何か見たのか?」  問い詰める唯斗も、自分の声が震えているのがわかった。  いきなり哲也が手を伸ばし唯斗の二の腕を掴んだ。思わず眉を寄せるほどのものすごい力だった。 「外に出ちゃダメだ! あいつに殺される! あいつは、餌を探してるんだ! 腹が減ったら来るよ! ここに、俺達を食べに来るよ!」  凄まじい絶叫と共に、哲也は両耳を塞いで地面に突っ伏した。 「テツ……!」  震える体をただ抱きかかえるしかできない唯斗。グラウンド中に響く叫びは止まらない。  夏期休暇中も自動的にセットされた、始業のチャイムが高らかに鳴り響く。  9時だ。  悪夢の始まりから、まだたったの一時間しか経っていなかった。

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