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第13話
学校まであとわずか1キロ、角を曲がり、駅から続く広い大通りへと出た所だった。見晴らしのいいまっすぐな通りの百メートル先に、何かが見える。遠くにいるはずなのに近く迫って見えるのは、『それ』がとてつもなく大きいからだ。
黒い影のように見える『それ』は、2人の方に体の側面を見せ、頭部と思われる部分を逆側に向けていた。その体形を一言で言うなら、胴体の太い蛇だ。蛇と違うのは、その胴に百足のような脚が無数に生えているところだ。
赤黒いその脚は波打つように動き、それが地面とこすれるたびにザワザワと不快な音を立てる。どう控えめに見積もっても十メートルは長さのある体は、遠目にもヌラヌラと光りうねっている。
これはきっと、現実ではない。こんな奇怪な生物は見たことがない。
第一こんな大きな生き物が、地球上に存在するわけがない。
そうだ、これは、悪夢の続きだ。
「ユイ、ゆっくり方向転換しろ」
3D映像を観ているような夢心地に捉われ立ち尽くしていた唯斗の耳に、動揺を隠し切れない隆輔の声が届く。
現実が、戻って来る。
「逆方向に逃げる。もしかしたら音や動きに反応するかもしれない。焦るな。ゆっくりだ」
金縛りが解けたように体が動き出した。
隆輔の言葉に従って唯斗は自転車の向きを変える。ゆっくりと、微かな音も立てないように。
不規則に高鳴り出す鼓動にすら、気付かれてしまうのではないかと手が震える。
逆側に向けている『それ』の頭部が、「ギギギ」という嫌な鳴き声を立てながらおもむろに捻られる。胴体に比べて頭は極度に肥大しており、そのアンバランスさがまたグロテスクで、見る者の恐怖を倍化させる。
凄まじく大きな口がぱっくりと開かれたとき、中にゾロリと並んだ尖った鋭い歯が垣間見えた。
ゾッと、背筋が総毛立ち、全身が粟立つ。
「見るんじゃないっ」
そうだ、見てはいけない。見たら、きっと目を放せなくなる。非現実の世界に飲み込まれ、身動きが取れなくなってしまう。
「俺が合図したら全力で走れ。いいか」
かろうじて頷いた。声は出ない。歯の根が合わずカチカチと鳴っているのが自分でもわかる。
遥か背中の方角で、ザザザという地べたを擦るような音が上がり始める。
「行け!」
思い切りペダルを踏み込んだ。何も考えられず必死だった。
目の前がスパークし、どこをどう走っているのかなんて全くわからない。ただ前にある道をひたすら進む。
ザワザワという不快な音は明らかに後ろから追って来ている。死ぬかもしれないという恐怖に全身が震え出す。
「リュウっ!」
切れる息の間から、救いを求めるように名を呼んだ。
「大丈夫だ、後ろにいる! そのまま走れ!」
彼が後ろにいるのなら、止まるわけには行かない。もし『あれ』が追い付いて来たら、彼が先にやられてしまうからだ。
走ることに特化していないママチャリのペダルは重い。どうしてこんなに遅いんだと叫びたくなる。
『あれ』の脚が地面を擦る音が、次第に距離を縮めて来ているように感じる。
「ユイ、荷物を捨てろ!」
「え、でもっ」
「早くしろ!」
片手を伸ばし荷台の食料を放り捨てた。一気にペダルを踏む足が軽くなる。
どのくらい走ったのだろう。
きっとまだ走り出して3分も経っていない。
それなのに心臓は弾けそうなくらい打ち、肺は酸素を求め喘いでいる。
何キロもの距離を全力疾走する試合でもこれほどにはならない。このままでは自分も、新品とは言い難い自転車も、そう長くはもたないかもしれない。
「次の信号を左折しろ!」
隆輔の指示が飛ぶ。20メートル先の信号が、霞みかける視界にかろうじて映った。
体を傾けるようにして一気に角を曲がる。
ほんの数秒途絶えた『あれ』の足音は、的確に獲物をロックオンし再び迫って来る。
「曲がれるのか」
隆輔が悔しそうに舌打ちした。
どんな激しい試合でも息を乱したことなどない、隆輔の荒い息遣いが背中に届いてくる。
唯斗自身、自分がちゃんと呼吸できているのかすらわからない。酸素不足で目の前がチカチカし、意識が朦朧としてくる。
隆輔は自分よりスタミナがある。もしも前を自分が走っていなければ、彼だけなら逃げ切れるかもしれない。
「リュウっ、もう、いいから……っ」
必死で声を張り上げた。
「何?」
「抜いてってくれ! 俺は、もう……」
「バカヤロー諦めるな! しゃべる余裕があったら思いっ切り漕げ!」
隆輔に本気で怒鳴られたのは初めてだった。
その瞬間、視界が明瞭に開けた気がした。ものすごい速度で流れて行く周囲の景色が、唯斗の霞んだ目の中で色を取り戻した。
諦められない。なぜなら隆輔はたとえ先に『あれ』の餌食になろうと、自分を抜いて行こうとはしないだろうから。理屈抜きで唯斗にはそれがわかるのだ。
――おまえだけは、俺が守る――
昨夜の囁きが耳に甦る。唯斗に聞かせる意図なく口に出されたのだろうその言葉は、彼の心の中にある本気の覚悟だ。
力が戻る。もう脚なんか千切れてもいい。心臓が止まるまで突っ走ってやると、唯斗は全力でペダルを踏んだ。
自転車が壊れるのが先か、自分の心臓が停止するのが先か、いずれにしても分の悪過ぎる賭けだ。
気のせいか、『あれ』の脚が地面を擦る音が少し離れた気がした。
「次の信号を右だ!」
隆輔の声が届いてくる。
他の音はもう何も聞こえない。彼の指示する声だけが、今唯斗にとって存在する音のすべてだった。
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