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第14話
「左側5件目に茶色い壁のビルがある! 自転車を捨てて、その脇の路地へ飛び込め!」
自転車を捨てるということは逃げる術がなくなるということだったが、不安にはならなかった。隆輔がそうしろというのなら従うだけだ。
どうせもうこの自転車は長くはもたない。過酷に働かせ過ぎたタイヤが、嫌な軋みを上げているのだ。
スピードをほとんど落とさずにかろうじて転倒せず右折する。感覚の鋭敏になった目が左手に現れたブラウンの壁を捉えた。
「っ……!」
自転車から飛び降り、転がり込むようにして細い路地に飛び込む。人一人入るのがやっとの細い道は、10メートルと行かないうちに行き止まりになっていた。
デッドエンドの壁にぶち当たった唯斗に、後ろから飛び込んで来た隆輔がぶつかるように覆い被さって来た。限界を感じ脱力し倒れ込む唯斗の体は力強い両腕に抱き止められ、地面に背を打つのをかろうじて免れた。
「静かに……じっとしてるんだ」
耳に届く囁きが朦朧とした意識を呼び覚ます。聞こえるのは互いの鼓動と息遣い、そしてじりじりと迫って来る這いずる音だ。
隆輔は唯斗の背を袋小路の壁に押し付け、路地の入口から見えないように自らを盾にしてその体を抱き込む。
自分の体が恐怖で震えているのがわかる。すがりたくて、ためらわず両手を広い背に回した。隆輔の腕に力が込められ、唯斗は震える息を吐いた。
『あれ』の気配は、もうすぐそばまでやって来ている。
わずかな衣擦れや息の音すら気付かれてしまうのではないかと、唯斗は呼吸ごと全身の動きを止める。
気が遠くなるほどの緊張の時間が流れる。
隆輔の肩越しに、路地の入口を通り過ぎて行くうねうねとした黒い体が見えた。間近で見るそれは遠目以上におぞましくグロテスクな形状だった。
胴体はブヨブヨと柔らかそうでありながら、蛇のような細かい鱗に覆われている。粘液めいた嫌な匂いの汁がしたたり落ちギラギラと光る。
そして、その全長はどう見積もっても、おそらく20メートル以上はありそうだ。
ズルズルと神経に障る音を立て、胴体から次第に細くなり百足のように二股に分かれた尾の部分までが、視界から消えていく。
みつからずに済んだのだろうか。どの道あの大きな体では、この細い路地に入って来ることはできまい。
その代わり、こちらももう逃げ場はない。袋のネズミだ。
10秒……20秒……1分……
何事も起こらない。『あれ』の気配は消失している。
もしかして、助かったのだろうか。
硬直していた体から次第に力が抜けていく。背に回された隆輔の腕からも緊張が解けるのがわかった。
見上げた相手と目が合った。体を張って自分を守ろうとしてくれた男の目は危機を脱した安堵に満ち、包み込むような優しさで自分を見ていた。
声は出そうになかった。ただ今の想いをなんとか伝えたくて震える唇を開きかけたとき、
「っ……!」
二人は同時に絶句し、その気配に体の動きを止めた。
路地の入口から、『あれ』が覗いていた。今さっき確かに目の前を通り過ぎて行ったのに、一体いつ戻って来たのだろう。
異常に脳の部分が肥大した不恰好な頭部、下方にグルリと入った裂け目が大きく開かれ、人間など楽に一飲みにできそうな、尖った歯が無数に並ぶ大口が開いた。
隆輔が身を翻し唯斗を背にかばう。
もう駄目だ、と観念したその瞬間、隆輔の肩越しに唯斗の瞳は細く見開かれた『それ』の、表情のない金の双眸を捉えた。
奇妙だった。恐怖は頂点に達しているのに、『それ』と目を見交わした途端、言い様のない悲しみに胸を打たれた気がしたのだ。
同時に、おぞましい輪郭が霞み始める。蜃気楼が吹き流されて行くように、目の前で跡形もなくその姿が消えて行く。
唯斗と隆輔はまじろぎもせずその光景を見つめていた。
信じられないことだったが、唐突に現れた気配は今度こそ完全にかき消えていた。
路地の向こうには元の、静寂に包まれた町が開けているだけだ。
「消えたのか……?」
隆輔が深く息をつき、確認するようにつぶやいた。
大通りを視認するため立ち上がりかける相手を、唯斗の腕が無意識に引き止める。緊張が一気に解け、必死で抑えていた恐怖や助かったという安堵がない交ぜになって溢れ出し体が震え出す。
言葉が出ないままただ瞳で訴えかける唯斗を見返し、隆輔は切なげに目を細めるとためらいなく力強い腕で抱き寄せた。
「もう大丈夫だ。よくがんばったな」
情けないと思っても、昂ぶる感情を抑えようがなかった。
どうしても湧き上がってきてしまう涙を堪え、唯斗は自分から隆輔の背をしっかり抱き返し肩口に顔を埋めた。
「ユイ……よかった。本当によかった」
体中に染み渡るその言葉にただ何度も頷き返し、唯斗はずっと拒み続けて来た男の腕に今は素直に体を委ねた。
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