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第20話
連れて行かれたのは視聴覚室だった。
階段状になった座席の中央に座らされ、唯斗は何かが起こるのを待っている。隆輔はさっきからただ「見せたいものがある」と言うだけで、それが何なのかは教えてくれない。
「リュウ?」
映写室に入ってしまった隆輔を振り向くと、
「そのまま待ってろ。もうすぐだから」
と、返事が聞こえてきた。
いきなり室内の照明が落とされた。次の瞬間、正面の大きなスクリーンに青一色の景色が映し出され、唯斗は目を見開いた。
それは深海の風景だった。人工的には決して出せない微妙な色合いの蒼の中に、色鮮やかな宝石みたいな珊瑚礁が広がり熱帯魚が泳いでいる。上方を悠然と横切っていくのはイルカだ。
そしてその蒼色はスクリーンの中だけでなく、広い視聴覚室全体を覆っていた。白い天井にも壁にも静かに揺れる波や魚達の影が映り、まるで海の底に潜っているみたいな気分になる。
「メンタルカウンセリングのときのリラクゼーション用に、養護教諭が試験的に用意してた映像装置らしい」
いつのまにか戻り隣の席に座った隆輔が言った。驚いて言葉も出ない唯斗に「どうだ?」と微笑みかける。
「こんなの……何で知ってたんだ?」
「噂で聞いてた。俺も実際に観るのはこれが初めてだけどな」
少しの間2人とも無言で、美しい深海の景色に浸る。
不思議だ。ついさっきまで不安定で落ち着かなかった気持ちが、次第に静まってきている。青は精神を沈静化する効果を持っているというが本当らしい。あれだけの衝撃的な体験もどこか遠い世界の出来事のように思え、そんな場合ではないとわかっていながらリラックスした気分になってくる。
うっかりするとそのまま眠ってしまいそうな浮遊感の中、
「ユイ、少し落ち着いたか?」
安らかで心地いい沈黙を破って、隆輔が問いかけてくる。
「え……」
首を傾けると、淡いブルーの光を映した包容力のある瞳がわずかに細められた。
「いろいろなことがあって、気持ち的にきつかっただろう」
その気遣いの一言で、隆輔が限界まで張り詰めていた唯斗のことを思いやって、ここに連れてきてくれたことがわかった。
唯斗の胸はじんわりと温かくなる。
「もう大丈夫だよ。リュウ、ありがとう」
ホッとすると緊張の糸が切れ、相手によりかかりたくなる甘え心がまたじわじわと湧いてきてしまう。抑えようとしてもうまくいかず、唯斗は素直にそのままの気持ちを瞳に乗せて隆輔をみつめた。
何を言っていいのかわからないまま2人は視線をかわし合っていたが、隆輔の方から先に戸惑ったように視線を逸らした。彼には珍しい仕草だ。
「さっき合宿所に戻ったとき、ヒロに言われた」
広樹の名が出て、唯斗の温まった胸が一瞬だけ冷える。
軽く抱かれただけだとはいえ、触れられたことを隆輔に知られてしまったのだろうか。
「なんて?」
と聞く声は、微かに震えてしまった。
「おまえが不安なときに一人にしておいていいのか、ってな。あまり俺が放っておくようなら、あいつがもらうぞ、と」
唯斗は内心ホッと安堵の息をついたが、隆輔は難しげに眉を寄せている。
「悪かった。あんなことがあったんだ。もっとおまえのことを気遣って、そばにいてやらないといけないのはわかってたのに」
「リュウ、いいんだよ、そんなこと。俺は大丈夫だし、こんな状況なんだから校内の見張りの方がずっと大切だ。俺の方こそ、手伝えなくてごめん」
「そうじゃない。違うんだ」
隆輔にしては少し強い口調で否定され、唯斗は目を見開く。
「正直に言うと俺は、おまえと2人でいることが不安になったんだ。滅多に見せないおまえの弱ってるところをさらされると、これまで抑えてたものが一気に流れ出してしまいそうなときがあって、制御が利かなくなりそうに感じた」
「え……」
広樹にも似たようなことを言われたが、比べ物にならないくらい鼓動が騒いでくる。
「だが、ヒロに言われて改めて思った。……あいつには渡したくない」
早口でつぶやかれた最後の一言に、唯斗の胸はトクン、と音を立てた。
「ただ、今はそれどころじゃないってこともよくわかってる。こんな非常時だっていうのに……ったく、何を浮かれてるんだか、我ながら嫌になる」
吐き捨てるようにつぶやき、隆輔は首を振る。
「リュウ……?」
「あんなことがあったばかりで、マサも帰って来ないってのに……おまえとこうしていたいと思っちまう。最低だ」
「それは、俺も……」
同じだから、という言葉を口にしようとして、かろうじて留めた。
そっと隣に視線を流す。相手の整った横顔にも神秘的なブルーの陰影がかかって、とても凛々しく綺麗だ。
唯斗の視線を感じたのか、罪悪感に満ちていながらもどこか熱情を隠せない、隆輔の瞳がおもむろに向けられた。胸が切なく疼いて、唯斗も『最低だ』と心の中でつぶやいた。
勝が怪物に食われたかもしれないときに、自分はこんなにも幸福でいる。
仲間の命が危険にさらされているというのに、こうして誰にもはばからずに2人きりでいられることを嬉しいと思ってしまう。
もしも普通の日常を送っていたら、こんなふうに互いの心を探り合いながら見つめ合うことなど、決してなかったに違いない。
そう、何もなければ、決して認めようとはしなかっただろう切なさ。
それが、しっかり鍵をかけたはずの心の奥の扉の向こうから漏れ出てきてしまう。
「前に、言ったよな」
やめろという理性の声をあえて聞かず、唯斗は思い切って口にする。
「合宿のとき話があるって。あれって、何?」
こんな状況下で聞くべきことではないのはわかっている。それでも、今聞かなかったらもう二度と聞く機会が訪れないのではと思うと言わずにはいられなかった。
現実を見失ってしまう熱情は自分でもコントロールできないもので、罪深さを自覚しながらも浸ってしまいたい甘美な誘惑を伴っていた。
隆輔はしばし沈黙を守ったままスクリーンに静かな目を注いでいたが、どこか固い決意を秘めた声できっぱりと言った。
「今は、まだ言えない」
高まる熱に冷水をかけられた気がして、唯斗は血の気が引くのを感じる。不謹慎で場違いな発言に呆れられていないかと、急にいたたまれなくなる。
しかし隆輔は呆れた様子など全くなく、ただつらそうに抑え切れない切なさを込めた瞳で唯斗を見返した。
「いろいろなことが片付いてからだ。そうしたら……」
そうしたら、そのときはきっと言ってくれるのだろうか。
だが、すべてが片付いて何もかも元通りになったとき、唯斗はそれを受け入れることができるのか。
平穏な生活と共に戻って来る様々なもの――世間一般のモラル、他人の目、家族の幸せ、平凡だが穏やかな未来、そういったすべてがまた唯斗を迷わせ、『正しい道』に引き戻すかもしれない。
――このままずっと、こうしてここにいられたらいい。
唐突にそんな思いが湧き上がり、唯斗は自分自身に愕然とする。
一体何を考えているのだろう。悪夢のような状況を脱して早く元の生活に戻りたい、心からそう思っているはずなのに。
あの狭い路地で怪物から自分を守ろうとしてくれた腕の名残が、まだ体に残っている。
拒み続けてきた逞しい腕。本当は欲しくてたまらなかった力強い感触。
今ここでもう一度情熱のままに抱き締められたら、どうなってしまうかわからない。
「リュウ……」
未知の熱情に侵されていく自分が怖くて、ただ名を呼んだ。言葉は続かなかった。
開きかけたまま止まった唇を、微かな感触が掠めて過ぎた。伸ばされた隆輔の人差し指だとわかった瞬間、体が内側からカッと熱くなった。
隆輔は泣きたくなるほど深い想いを込めた瞳で唯斗を見ていた。唇に触れたのは唯斗の続く言葉を止めたかったからなのか、単に触れたかっただけなのかはわからない。
隆輔は2人の間に今確実に通い合っている甘い感情を振り切るように緩く首を振ると、ふいに視線を逸らし立ち上がった。
「そんな目で見るな。期待しちまう」
期待、してはいけないと思われているのだろうか。
そんなことはない。期待されたい。期待してもらっていい。期待してほしい。
しかしこれまでの唯斗は、確かに隆輔に期待を抱かせないようにしてきた。向けられるその感情からいつでも逃げてきた。
認めてしまうことで違う世界に足を踏み入れることが怖かったし、世間に認められないものなら決して幸福にはなれないとわかっていたからだ。
「そろそろ行こう。メシの準備がある」
去りかける背を引き止め切れずに、唯斗は唇を噛む。そこに触れた彼の指の感触を、せめてもう一度味わうかのように。
離れかけた隆輔の足が止まった。
「……もしかしたら、世界がこんなことになったのは、俺のせいなのかもしれない」
耳を疑い、思わず見上げた。広く逞しい背中は動かない。
映写室へと消えて行く後ろ姿を、唯斗は声をかけることもできずただ見つめていた。
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