23 / 37

第23話

 終わりが見えないほど広い駐車場、ガランとした空間の数百メートル先に、ぼんやりと煙った黒い靄のようなものが見える。空気中から突如出現したかのようなその影は、見る見るうちに見知った形を取り始める。  それは、例の巨大生物だった。悪夢はまだ続いていたのだ。  昨日同様こちらに側面を見せた体は、錯覚ではなく一回り大きくなったように見える。肥大化した頭は別の方を向いていて、まだ唯斗達に気付く様子はない。  一体いつのまに、どこから屋上まで昇って来たのだろう。建物の入口を破壊して階段を上がって来たり、もしくは側面を這い登って来たりしたのなら振動や音で気付くはずだ。  だが、目の前のおぞましい姿は夢ではない。  それは本当に、急に湧いて出たとしかいいようのない状況で、歴然とそこに存在していた。  和彦は脇目も振らず、一直線に怪物に向かって行く。彼の目にはおそらく、あのグロテスクな姿が違うものに見えているのだ。  しかし、あれは間違いなく勝ではない。 「カズっ!」  唯斗は声を張り上げた。悲鳴のような呼びかけが広い駐車場に虚しく反響する。  舌打ちした隆輔が運転席の窓から手を入れすばやく掴み取ったのは、助手席に乗せていた例の黒ケースだ。サイドのファスナーを一気に引き開け引っ張り出されたものを見て、唯斗は思わず目を瞠る。  それは銃身七十センチはあろうかという猟銃だった。おそらく彼の父親が趣味で所有しているものを持って来たのだろう。  ゲームでしかお目にかかったことのない銃器の登場に唖然としている唯斗を後ろに下がらせ、隆輔は落ち着いた手際で武器を構える。 「耳を塞いでろ!」  言われるままに両耳を手で覆った。  怪物はまだこちらに気付いていない。波打つ無数の脚はその場で蠢いているが、首は逆側に向けている。  それでも、駆け寄って行く和彦に気付くのは時間の問題だろう。  息詰まる数瞬を経て、隆輔の持ったライフルが火を噴いた。  想像以上の轟音が、耳を塞いではいてもガンガン頭に響いて来る。隆輔は銃を構えたまま、立て続けに数発打ち込む。そのたびに鈍い音が響き、怪物の胴体がわずかに跳ねる。  確かに、当たっているのだ。  ギギギ、という例の不快な鳴き声が空間を揺るがし、膨れ上がった頭部が徐々にこちらに向けられる。  隆輔は動揺することなくケースから出した弾を詰め替えると、そのまま間髪入れずに引き金を引いた。怪物の眉間のあたりにそれは確実に命中したらしく、ぬめぬめとした肌から白い液が吹き出る。  ――仕留めた!  そう思ったのは一瞬だった。  吹き出る体液らしきのものはすぐに止まり、全く何のダメージも受けていないかのような悠然とした動きで、怪物が体をこちらに向ける。 「っ……!」  隆輔は軽く舌打ちしたが、冷静な瞳でスコープを覗いたまま続けて連射する。  弾は間違いなく怪物の肥大化した頭部に命中していたが、傷が自然治癒してしまうのかその動きは止まるどころか、苦しむ様子も全くない。 「カズ! 行くな!」  唯斗が必死で張り上げる声は届かず、和彦はまっしぐらに怪物へと向かっていく。  その頭部のほとんどを占めるブラックホールめいた口が、大きく開かれ、中から異様に長い舌が伸ばされた。舌は和彦の体をぐるりと巻き上げ、軽々と持ち上げる。  後ろ姿があっという間に深淵に飲み込まれ、その大口が閉じられる悪夢を、唯斗は身動きもできずに見つめていた。 「ユイ、車に乗れ!」  銃弾を撃ちつくし、役に立たなくなったライフルを放り出した隆輔が叫んだ。その声で、やっと我に返る。 「早くしろ!」  硬直が解けた。  助手席のドアを開け、転がり込むように飛び乗る。  ザワザワと、例の地を這いずる音が足元まで届いてくる。  運転席に飛び乗って来た隆輔がキーを差し込みイグニッションを回すが、荷物を詰め込み過ぎたのが気に入らないのか、エンジンは無情にもキュルキュルという鈍い音を発し空回りする。  バックミラーに、こちらに気付いて向きを変える化け物の姿が映った。 「チクショー、動け!」  隆輔が怒りにまかせステアリングを拳で叩くと同時に、反抗的だったエンジンがやっと重い唸りを上げた。  車は凄まじい軋みを上げて急発進する。反動で体がシートに押し付けられる。  それを合図のように怪物も動き出した。  追って来る音は次第に大きくなり、姿は徐々に迫ってくる。  車は屋上から建物全体を回り込む螺旋状のスロープを、ほとんど浮き上がらんばかりの勢いで降り地上に飛び出した。  タイヤを軋ませ、ものすごいスピードでカーブを曲がって行く。荷台に積んだ荷物の一部が音を立てて道路に散らばる。  唯斗は言葉を失ったままミラーを凝視する。  なだらかなスロープをうねうねと体をくねらせながら降りて来る怪物のグロテスクな姿は、恐怖と共に生理的な嫌悪感を掻き立てる。  駅前大通りに飛び出した隆輔は、学校とは反対の方角にハンドルを切った。連れて帰るわけにはいかないという判断だろう。  どんなことでも器用にこなす隆輔でも、慣れない運転にはさすがに余裕たっぷりというわけにはいかない。この猛スピードでハンドル操作を誤り何かに激突したら、車は人間ごと確実に大破する。  しかし、スピードを緩めれば、追い付かれてしまうかもしれない。  実際巨大生物は信じられない猛スピードで追いかけて来ていた。昨日は自転車だったが今は車だ。倍以上の速度は軽く出ているはずなのに、距離は離れるどころか縮まる一方だ。 「リュウ、車を捨ててどこか建物に入ろう!」  とっさにひらめいた判断だった。 「あいつは路地の中までは入って来られなかった! 町中の建物が壊されてないのを見ても、それほどの力がないのかもしれない!」 「車を捨てるのは反対だ! 食料は持ち帰りたい!」 「だってこのままじゃもうすぐ捕まるぞ!」  唯斗の言い分に理があると思ったのか隆輔はそれ以上反論せず、ハンドルを大きく右に切って急転回した。トラックの脇腹をガードレールがこする嫌な音がする。  前方は真新しい白壁の、横に長い八階建ての建物で行き止まりになっている。それはこの地区一帯でもっとも大きな総合病院だった。

ともだちにシェアしよう!