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第24話
広く開かれているその門を通り、エントランス前のロータリーに突っ込む隆輔が、正面のガラスの自動扉を突き破るつもりではないかと唯斗は思わず目を閉じた。しかし車はぐるりとロータリーを回り込み、裏手に入って行く。
車ごと建物の中に入れる通路がトンネルみたいに口を開けている。ERの救急搬入口だ。
隆輔は救急車の停車位置で急ブレーキをかけ車を止めた。急停車の反動で体が思い切り前にのめる。
「降りろ! 中に入るぞ!」
固まっていた体は反射的に動き、よろめく足でそのまま建物の中に駆け込んだ。
「ヤツに中に入って来られたら追い詰められるかもしれない。一か八かだ」
隆輔のつぶやきを背後で聞きながら、唯斗は全力で駆ける。
今は追って来る音は聞こえないが、おそらく相手はすぐ近くまで迫って来ているはずだ。
唯斗は何かに導かれるように階段を駆け上がっていた。
不思議な感覚だった。どういうわけか唯斗には、自分の行くべき場所がわかっているのだ。そこに行けと、何かが語りかけてくる。理屈ではない。足が勝手に導かれ、向かわされている。
唯斗の迷いのない足取に、隆輔も何も聞いては来ない。ただ黙って後ろからついて来る。
何かに誘われ、たどりついたのは、4階の入院病棟だった。
405号室というプレートがかかっている部屋の前で、唯斗は足を止める。ためらわず引き戸を開けると、そこはベッドの脇に簡易な応接セットのある個室だった。
妙な感じがした。この病院には自分はもちろん、家族や知人も入院したことはなかった。それなのになぜ、来るべき場所にやっと来られたという安堵感があるのだろう。
それに、部屋に入った途端こみ上げてきた、胸が錐で突かれるようなこの痛みは一体何なのか。
ベッドサイドの棚には吸い口と置時計、積み上げられた文庫本とA4サイズのノートのような物が置いてある。
スケッチブックだ。
赤と青の表紙の2冊があり、見なければいけない気がして唯斗はまず青い方を手に取った。
「っ……」
言葉を失った。真っ白い紙には鉛筆画で若い男の絵が描かれている。写実とコミックの中間くらいの絵柄だが、モデルは誰だかすぐにわかった。
それは、唯斗自身だった。
髪の毛の一本一本まで緻密に丁寧に描かれた絵の中の唯斗は、屈託なく笑っている。
紙をめくった。そこにも笑顔の自分がいた。
次のページにも、その次のページにもユニフォーム姿の唯斗が、制服姿の唯斗が、紙の中から笑いかけている。
1冊目を最後までめくってしまった唯斗は、自然に2冊目、赤い表紙の方に手を伸ばした。
開いた瞬間、新たな驚きに目を瞠る。
そこには唯斗の笑顔はなかった。描かれていたのは肥大した不恰好な頭、蛇のような胴体に無数の脚を持つ、例の巨大生物だったのだ。
とっさに隆輔を振り向いた。緊張した面持ちで窓から外を見下ろしている隆輔は、唯斗の行動に注意を払っている様子はない。
唯斗はスケッチブックを閉じると、2冊ともしっかり腕に抱え込んだ。理屈抜きで、手放してはいけないもののように感じたのだ。
「来たぞ」
身を乗り出し、隆輔がつぶやいた。スケッチブックを抱えたまま、唯斗も窓に張り付く。そこからは正面のロータリーや、門からまっすぐに伸びる道路までが、障害物なくクリアに見渡せた。
怪物が長い胴体をクネクネとうねらせながら角を曲がり、無数の脚を動かして突き進んで来る。
そのまま門を通り正面玄関を破られるか、もしくは裏手の救急搬入口に気付かれたら、当然中に入って来られるだろう。あの大きな体が病院の広くはない廊下に進入するのは不可能にも思えるが、百%ないとは言い切れない。軟体動物めいた柔軟な体は変幻自在かもしれないのだ。
窓を閉めていても、耳障りな這いずる音が届いてくる。緊張感が極限まで高まり、鼓動が張り裂けそうに打っている。
無意識に窓枠を握り締めていた手に、力強く温かいものが重ねられた。隆輔の手だ。
思わず隣を見上げると、隆輔は一瞬だけ窓から唯斗に視線を移し、微かに顎を引いて頷いた。大丈夫だと、その目が言っていた。
『おまえを守る』と囁いたあの夜の声が耳に甦ってきて、極度の不安の中にあっても絶対的な安心感が全身を満たす。
怪物はややスピードを落とし気味に、まっすぐ病院へと向かって来る。当然そのまま躊躇なく門をくぐり、中へ突っ込んでくるかに見えた。
「止まった……?」
唯斗と隆輔は同時につぶやいた。
怪物の脚は門の前でピタリと動きを止めていた。門の幅も入口に続くロータリーも、その巨大な体が入って来るのに全く支障のない広さだ。それにも関わらず、怪物は結界にぶちあたったように動きを止め、それ以上進んで来る様子はない。
息詰まる時間が流れる。時を刻む秒針と呼応し、鼓動が体中に響いている。
ふいに、膨れ上がった頭がもたげられ上方を振り仰いだ。
錯覚ではない。
怪物は唯斗達のいる病室の窓を的確に見上げていた。
理解不能な感情が湧き上がり、唯斗は困惑する。あれほど心を占めていた恐怖心が、急速に薄れていくのを感じる。不恰好な頭部の両脇についた小さな目は無表情でありながら何かを訴えかけてくるようで、どうしたわけか視線を逸らせないのだ。
確か、昨日もそうだった。同じように袋小路で怪物と目が合ったとき、わけのわからない苦しさに胸が締め付けられた。
あのときと同じ説明できない不可解な感覚に、唯斗はただうろたえる。無意識に、手に持ったスケッチブックを胸に抱き締めてしまう。
「また、消えるぞ……」
隆輔がつぶやいた。
怪物の輪郭がおぼろになり始める。ぼんやりとした霧状のものがその全身を襲い、包み込み、姿を隠していく。
まるっきり昨日と同じだ。
呆然と見つめている唯斗達の目の前で、巨大生物は大気に溶け込むように跡形もなく消え失せてしまった。後には祭りの終わりのような静けさだけが残された。
重ねられた手を握り返し、唯斗は隆輔を見上げた。
怪物と目が合うたびに感じる、このわけのわからない感情は一体何なのか。
我知らず頬を伝った一粒の涙を、隆輔が空いている方の指でそっとぬぐってくれた。
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