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第27話

「樫村……?」  唯斗が気遣うように声をかけても、その表情は動かない。自分は何も知らないと、否定もしようとしない。蒼白になったその顔は強張り震えていたが、覚えがないことだとは言っていなかった。  彼は確かに、何かを知っているのだ。  本当に、広樹の推理は正しいのだろうか。樫村が何らかの方法で、自分達に暗示をかけていたのだろうか。  唯斗は困惑する。 「早く白状しないと俺もキレるよ? とっとと言った方がいい」 「ヒロ、よせ」  非力な相手に今にも飛び掛かりそうな広樹の腕を、唯斗と隆輔が両脇から宥めるように押さえる。 「樫村、大丈夫だから」  唯斗は相手を怯えさせないように、なるべく穏やかに声をかけた。 「もし何か知ってるなら話してくれよ。どんな話でも、俺達ちゃんと聞くから」  ふらつく足が一歩下がり、絶望に満ちた虚ろな目が一瞬唯斗に向けられる。  震える唇がわずかに開いた。 「瀬名君……ごめん、僕……」  消え入りそうな声でそれだけつぶやくと、いきなり身を翻し駆け出す。その後ろ姿はまっすぐ校門の方へと向かって行く。 「樫村! 外へ出るな!」  隆輔が叫ぶ。しかし樫村の足は止まらない。 「逃がすか!」  2人を振り切り広樹も飛び出す。ディフェンダーの頑丈な体に振り払われた反動で、軽量な唯斗はもちろん隆輔すらも体勢を立て直し追いかけるのに間があく。  百メートルを12秒台で走る広樹の俊足は、樫村がそう遠くへ行かないうちに捕まえてくれるだろう。危険な校外に闇雲に飛び出して行くよりは、捕まって殴られた方がましかもしれない。  そう思った瞬間だった。  校門を抜け樫村の姿が消えると同時に、広樹の前方に立ちふさがるように急速に黒い靄が湧き上がった。それは数秒とかからぬうちに形を取り、たった今小さな画面の中で見たばかりのおぞましい姿に変わっていく。  目の前に湧いて出た怪物を初めて見る広樹は呆然と立ちすくんだが、すぐにその唇に笑いが広がる。 「すごいな! ここまでリアルな幻覚を作り上げるなんて」 「ヒロ、危ない! 逃げろ!」  唯斗の叫びにも広樹は平然と手を上げて平気だと応えるが、その表情は恐怖に引きつり足がすくんで身動きが取れないのは明らかだ。 「大丈夫だよ、ユイ。こいつは脳が見せる幻覚なんだ。食われたりしないさ。きっと霧みたいなもので、触感もないはずだ」 「カッコつけてる場合か!」  隆輔が舌打ちし飛び出すと同時に、広樹の体めがけて大きく開けた口から触手めいた細長い舌が伸ばされる。  隆輔の手が萎縮し動けなくなっているその体を引き戻すより一瞬早く、鞭のような黒い舌が2人に向かって振り上げられた。 「リュウ!」 「っ……!」  舌は隆輔を跳ね飛ばし、そのまま広樹の体にしなやかに絡み付いた。 「っ……そんなバカなっ!」  巻きつけられ、軽々と宙に持ち上げられた広樹が、驚愕と絶望の叫びを発した。と思う間もなく、その体は真っ黒な口の中に呆気なく飲み込まれる。  一連の動作は、ものの5秒とかからなかった。  もたげられた巨大生物の頭がゆっくりと、数メートルは軽く弾き飛ばされた隆輔の方を向く。  隆輔は眉を寄せかろうじて上体を起こしたが、どこか打ったのかそれ以上は動けない様子だ。 「ユイ! テツを連れて逃げろ!」  声は届いた。しかし、体は言うことを聞かなかった。唯斗の足は反射的に隆輔の方へ飛び出した。 「バカ! 来るな!」  悲痛な声がグラウンド中に響いたが、止まる気はなかった。  駆け寄った唯斗は、隆輔の腕を掴み立ち上がらせようとする。 「うっ……」  隆輔の喉から呻きが漏れ、手のひらに濡れた感触が伝わった。見ると、左の二の腕のあたりが鋭利な刃物で切られたようにザックリと裂けている。足は捻ったのか、立ち上がることができない様子だ。 「俺を置いて逃げろ!」 「あのとき……自転車で逃げるとき、諦めるなって言ったのおまえじゃないか!」  突き放そうとしてくる体を押さえ付けなんとか立たせようとするが、疲労が重なった唯斗の体力では体格のいい隆輔をそれ以上動かすことは難しい。  怪物との距離は20メートルもなかった。一秒もあればそのわずかな距離は詰められ、2人ともあの真っ暗な口に飲み込まれてしまうのだろう。  観念した。死を覚悟した。  しかしなぜか、不思議と恐怖は感じなかった。  唯斗はただ、頭をこちらに向けたまま動こうとしない怪物の目を見ていた。感情めいたものなど全く映していないはずなのに、なぜか悲しく感じられるその両目を。  数瞬の静寂のときを経て、怪物の脚がざわめいた。 「ユイ、頼むから逃げてくれ!」  隆輔の悲痛な叫びが耳を打ったが、絶対に離れるつもりはなかった。  唯斗は隆輔の体をかばうように抱き込み、瞼を閉じる。 「か、し……」  かすれたか細い声が耳に届き、唯斗はしっかり伏せていた目を開ける。  明瞭ではないがはっきりとした呼びかけの意思を持って、怪物に向かってかけられた意味をなさない声は、哲也のものに違いなかった。  いつのまにか巨大生物の前に進み出ていた哲也は、そのいびつな頭を臆せず見上げていた。その両目に恐怖はかけらもなく、ただ不思議そうに首を傾げて。  怪物の頭が唯斗達から、ゆるりと哲也の方に向けられる。 「テツ、ダメだ!」  必死で張り上げた唯斗の叫びも届かないようで、哲也はじっと怪物を仰ぎ見たまま足をおもむろに進ませる。迷いなく、前へと。  表情のなかったその口元に、今はうっすらと微笑すら浮かべて。 「テツっ!」  唯斗の叫びは虚しく空に消えて行く。  巨大生物の大きな口が開かれ、長い舌が伸びた。それがゆるやかに体に巻き付いても、哲也のその安らかな表情は変わらない。  現れたときと同じ黒い靄が唐突に、怪物と巻き上げられた哲也の姿を覆う。  テレビの映像がぶれ画面から消滅するように、その姿は靄の中に飲まれ、共に消えて行った。  何事もなかったかのように静寂を取り戻したグラウンドの中央で、唯斗と隆輔はただ茫然と言葉を失っていた。

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