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第29話

 隆輔は少し迷っているふうだったが、静かに口を開く。月の光がその整った横顔を照らし、神秘的に浮かび上がらせる。 「サッカー部に入ったのは小学校からずっとやってたからで、別に特別興味があったわけじゃなかった。親父が高校時代はラグビーをやってて俺にも勧めてきたから、それに反抗する気持ちもあったのかもしれない。でも、サッカーにしてよかったと思った。おまえがいたからな」  静かな瞳が唯斗に向けられる。  隆輔は客観的かつ論理的に自分の考えを述べることはするが、感情面に関してはどちらかというと寡黙で、あまり思っていることを口にしない。  それがこうして自然に話してくれているのは、今この世界にいるのは二人だけかもしれないという安心感からなのか。  それとも今話しておかなければ後がないという切迫感からなのか。  もしかしたら、その両方なのかもしれなかった。 「マジなとこ、最初はうざいヤツだと思った。なんでも熱くなって一生懸命で、サッカーも勉強も手ぇ抜かないで、息抜きなしの頑張り通し。こいつは大丈夫なのかって呆れてた。しかも誰にでも愛想がよくて公平で、悪く言えば八方美人。博愛主義のヤツは、俺は昔から信用できない。実は本性はものすごく嫌なヤツだったりしないかと、ずっとおまえを観察してたんだ」 「そんなこと思われてたのか。知らなかった」  唯斗は苦笑する。  思い返せば、確かに最初の頃は隆輔のことが少し苦手だったかもしれない。  話しかけてもそっけない。仲間と一緒のときも子供っぽい馬鹿騒ぎはしない。いつも周囲と一線を引き遠くをみつめているような孤高の瞳が、いささかとっつきづらくもあった。 「だが付き合ってくうちにだんだんとわかってきた。おまえには本当にそんな裏表なんかないんだって。一人一人と真剣に向き合って異常なほど気を遣うから、回りに自然と人が集まって来るんだってな。……部の連中と一緒に、初めて俺のうちに押しかけて来たときのこと覚えてるか?」 「あぁ、パーティーしたっけ。みんなリュウのうちにはびっくりして大はしゃぎだった」  ドラマでしか見たことのない高層階の豪華な部屋に、いずれも庶民階級の息子達は驚嘆し、隆輔の両親の不在をいいことに一晩中大騒ぎしたのを思い出す。 「あのとき、他の連中はすげぇだのうらやましいだの言って気楽に騒いでたが、おまえだけは違った。他のヤツらの騒ぎから離れて、俺をなんだか悲しそうな顔で見てた。端から見れば金があって誰からもうらやましがられる家で、その実俺が親に放置された環境で育って来たことにおまえは気付いて、憐れまれたのかと思ったよ。むかついた」    別に、彼の複雑な家庭環境に気付いたわけではない。ただ、はしゃぐ仲間を力なく見やる隆輔の冷めきった横顔に何かを感じて胸が痛んだだけだ。  視線に気付いた隆輔は唯斗と目が合うと露骨に睨み付けてきたが、引こうとは思わなかった。孤独な虎が、意固地に毛を逆立てているようにしか見えなかったからだ。 「あのときおまえにすごい目で睨まれたけど、俺怖くなかったよ。だから言ったんだ。これからもしょっちゅう遊びに来るからなって」 「どうせ口先だけだろうと思ってたら、本当に来たよな。他の連中連れずに、たった一人で。最初はむかついてたはずなのに、いつの頃からかおまえが来てくれるのを待つようになった。おまえと一緒にいる時間は、俺も不思議とリラックスできた」    2人で新作映画のDVDを観たり、サッカーゲームをしたり、とりとめのないことをしゃべったりするだけの他愛のない時間だったが、楽しかった。  始めはとっつきづらいと感じていた男は、実は信頼するに足る誠実さと見えづらい優しさや繊細さを溢れるほど内に秘めていたことを知り、唯斗の心は次第に彼に傾いていった。  何よりも彼は唯斗が男として理想的だと憧れるタイプの逞しい肉体と、苦み走った硬質な美貌を併せ持っていたのだ。惹かれないわけがなかった。  互いの波長も合ったのかもしれない。唯斗も隆輔と一緒にいると、不思議と沈黙が苦にならなかった。  いつも他人を気遣って場を取り持つことばかりを考えている外面のいい自分と離れ、温かい沈黙の中安らいで素の瀬名唯斗を取り戻せた気がした。 「ただ、俺には自信がなかった。おまえのことだから別に俺でなくとも、他のヤツでも同じ状況ならこうするんだろうと思い始めた。そう考えるとたまらなかった。他のヤツと違う位置にいたかった。俺だけが特別だと言わせたかったんだ」 「特別だよ。リュウだけだ。あんなふうに、ずっと一緒にいたいと思ったのは」  あらゆる面において欠けたところがなく自信に満ち自立した男の中に、たった一つ欠落している部分を自分だけがみつけた。それをどうにかして埋めてやりたいと、あのときの唯斗は切実に思ったのだ。  そしてそれを埋めることで彼の内部を自分の存在で満たし、誰よりも特別に想ってもらいたいとどこかで望んでいたのかもしれない。  素直になりたい。  もう、素直になってしまいたい。  ずっと思っていたことを、今全部吐き出してしまいたい。 「リュウのうちに行くのが楽しみだったよ。親父さんもお袋さんもいなくて2人だけでまったりできてさ。部屋たくさん余ってそうだし、いっそここに住んじまいたいと思ってたくらいだよ」  唯斗を見つめる隆輔の目が少し見開かれ、唇が微笑を形作る。 「知らなかった」 「隠してたから」  唯斗も笑う。  自分の気持が普通の友情と違うのではないかと気付き始めた頃から2人だけになるのを恐れるようになって、隆輔の家から足が遠のいてしまったけれど、あの頃の心地よさは今でもリアルに思い出せる。  隆輔の目がつらそうに細められ、伸ばされた指が髪に触れてくる。 「おまえがうちに来なくなったのは、俺の邪な気持ちを見抜かれたからだと思った。ショックだったが、学校で会うときのおまえは別に俺のことを嫌っているふうにも見えなかった。もっと露骨に避けられたりすれば諦められたのに」    当時のことを思い返すように、隆輔の瞳が細められる。 「そのうちヒロがおまえにアプローチするようになって、俺は内心気が気じゃなかった。おまえが適当にあしらってるのは見ててわかったが、ヒロの方は本気だったからな。あいつに露骨にライバル視されて、俺も相当猛ってたよ」    嫉妬してくれていたということだろうか。  鼓動が甘く、一つ大きく打つ。 「そんなふうには全然見えなかった。俺がヒロに迫られててもリュウはいつも平然としてて、何も感じてないのかなってがっかりしてたんだぞ」  思わず拗ねたような声が出てしまう。  もういいだろう。気取っている意味はない。今気持ちをさらけ出さないで、いつ素直になるというのだろう。  答えを求め見上げた唯斗を、隆輔の優しい眼差しが包んだ。 「うろたえたりしたらカッコ悪いだろうが。おまえの前ではいつでも、カッコつけていたかったからな」  大きな手がポンと頭に乗せられた。欲しかったぬくもりが届き、胸がジンと切なくなる。 「平静に見せてはいたけどな、おまえの気持ちが掴めなくて不安だったよ。おまえは俺が近付けば逃げて、遠ざかれば寂しそうに寄って来る。どうしてやるのが一番いいのか、全くわからなかった。悩んでいるうちにヒロにかっさらわれるんじゃないかって、毎日イラついてた」    長い指が愛しげに髪を梳く。指先からずっと求めていたものが髪の一本一本を伝って流れ込んでくるようだ。甘やかされる猫みたいに気持ちがよくて、思わず目を閉じてしまいたくなる。 「ずっと思ってた。おまえと2人だけで、ここじゃないどこか別の世界へ行けたらってな。俺達のことを知っている人間の誰もいない所だったら、もしかしたら、おまえと俺の間にある透明な壁が取れるかもしれないと」    胸が痛んだ。  その見えない壁を築き上げ、必死で守っていたのは唯斗だ。壁を壊すことで得られる喜びよりも、それに付随して背負わなければならなくなるさまざまな困難が怖かった。  しかし今こうして2人でいると、それまで自分をがんじがらめにし足枷になっていたその厄介事の数々が、どんなにくだらないものだったのかわかってくる。 「だから、こんなことになって驚いた。これはもしかしたら、俺の願望が現実になったんじゃないかってな。ヤバイと思ったし他の連中にも後ろめたかったが、どんなに危険な目に合っても、仲間がやられても、俺はどこかで嬉しかったんだ。おまえと二人でいられることが」    おもむろに向けられた瞳が許しを求めている。  責めることなどできるはずがなかった。その気持ちは唯斗も同じだったから。  なんの障害もない世界で、それまで指先すら触れることを禁じていたものに迷いなく手を伸ばすことができる。その喜びを初めて実感しているのだから。 「もういいよ」  ためらわずに手を伸ばして隆輔の頬に触れた。  世界中の誰も、神ですら許してくれなくとも、自分だけは隆輔を許していた。同じ罪なら共に背負いたかった。 「リュウを不安にさせて、そんなことを思わせたのは、俺のせいだ。俺が悪かったんだよ」  思慮深い瞳が切なげに細められ、頬に触れた唯斗の指を熱く大きな手が取った。 「全部片付いてから言うつもりだったが、今言っていいか」  唯斗は頷く。 「おまえが好きだ」  はっきりと告げられたストレートな一言は、一瞬で全身に染み渡った。  本当は、ずっと前から知っていた。  向けられる言葉や仕草の端々にその想いの欠片を感じるたびに、ゆるやかに気持ちが満たされて甘く酔ったようになった。  それなのに勇気が持てず受け入れることができなくて、気付かないふりをするしかできなかった想い。  今はもう、拒絶する理由は何もなかった。  幸せは目の前にあった。  ただ仲間が次々と消えて行ったことを思うと、自分だけが幸せになるわけにはいかない気がした。『俺も好きだ』という一言は言葉にできず、かろうじて喉下で押し止められた。  それでもどうしても本心を伝えたくて、秘めてきた想いを素直に瞳に乗せ、唯斗は相手を見上げた。

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