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第33話

 グラウンドの中央に『彼』はいた。大きな体を小さく縮め、うずくまっていた。無数の脚は小刻みに波立っているが、頭部は引っ込んで目も口も閉じている。  今はもう、その姿を恐ろしいとは全く感じなかった。  唯斗が近付いて行くと、巨大生物は金色の細い目を開き、ゆっくりと顔を上げた。両者の距離は10メートルと離れていない。 「樫村」 『瀬名君……ごめんね』  声をかけると、頭の中に直接声が響いてくる感覚で返事が聞こえた。それは、いつもの彼の声だった。 「いつもの姿で話せないのか」 『戻れなくなっちゃったみたいなんだ。でも今はちゃんと僕自身の意識があるから、こうして君と会話できるよ』  唯斗をみつめる巨大生物の瞳は相変わらず無表情だが、とても静かで穏やかだった。 「これまでのも、ずっとおまえが変身してたのか」 『僕自身の体が変身するというより、もともとの樫村祐二の体から急に意識が抜け出してこいつに入るって感じだった。そうするともう制御できないんだ。僕がゲームで作ったこいつそのままに凶暴になる。嫌だと思ってるのにどうしてそうなってしまうのか、自分でもわからなかった。多分僕はどこかで、自分のいる世界のことを嫌ってたんじゃないかと思う』    凶暴になっていたときの己を思い出したのか、怪物は一瞬目を閉じ頭を微かに震わせた。 『だから他のみんなを飲み込んだときも、止めたくても止められなかった。ただ、君のことだけはわかったんだよ。君に気付くたびに、僕は自分の意識を取り戻した。そして、元の体に戻って行けた』  いつも唯斗と目が合うたび怪物は動きを止め、消えて行ったことを思い返す。そして視線が合うたびに、その目が深い悲しみに満ちているように感じたことも。 『いろいろ、怖い思いさせてごめん。でも安心して。みんなはちゃんと生きてるよ』 「えっ」 『今僕達がいるこの世界は、元々の世界とは違う世界なんだよ。だから、元の世界はそのままちゃんと存在してるはずなんだ。ここは僕の願望が生み出してしまった、架空の世界だから』 「じゃあ、今ここにいる俺達は……」 『多分元の世界の本体から離れた、意識体みたいなものじゃないかな。ここにいるみんながそれぞれの意思を持って動いていた以上、夢をみているのとは少し違うと思うけど』  上空から落ちて来た滴が肌に当たるのを感じた。夏にしてはやけに冷たい雨だ。  巨大生物姿の樫村は何度か目を瞬き首をすくめた。その仕草が見慣れた人間の樫村の仕草とどこか重なる。 『ごめん。君がここに来てしまったのは僕のせいだ。他の人は、君と一緒にいたからついてきちゃったんだと思う』 「おまえには前から、こういう別の世界に来られる能力があったのか?」 『まさか。僕もびっくりしたんだ。何でこんなことになったのかさっぱりわからなくて、最初は怖かった。でもこの世界で君に会って、わかったんだ。ここが僕が作った架空の閉鎖空間で、君達は巻き込まれただけだって。でも……言えなかった』    霧雨は心地よく肌を濡らす。  樫村の大きく盛り上がった黒い姿も霞んで見える。 『去年の夏助けられたとき、別れ際に君が僕に言ってくれたこと、覚えてるかな』  頭の中に響いて来る樫村の声は、大切な思い出を懐かしむように穏やかだった。  あのとき散らばったゲームや本を袋に詰め差し出し、確かに自分は彼に何か言葉をかけたはずだった。  夢の中で記憶をたどったときも、聞き取れなかった一言。今もやはり思い出せず、唯斗は首を振る。 『夢中になれるものがあるっていいよなって、君はそう言ってくれたんだ。それまで僕の趣味はみんなに気持ち悪がられてて、あんなふうに言われたことなんか一度もなかった。びっくりした』  そんなことを言ったのだろうか。  きっと自分としては、怯え切っている相手を安心させたくて、何気なく口にした言葉だったのだと思う。それでもあのときの樫村にとっては、忘れられない一言になったのかもしれない。 『それからはずっと君を見ていたよ。僕はさえないし勉強も運動もダメだし、君みたいになれたらって憧れてた。図書室の窓からサッカー部の練習がよく見えて、放課後はよくそこで過ごした。話しかける勇気はなかったけど、話してみたいって思ってたよ。世界中の人がいなくなって君と僕の二人だけになったら、きっと勇気が出るのにって』 「おまえバカだよ。ちょっと声かけるだけで、すぐ友達になれたのに」  そうすれば、こんな寂しい世界を作ったりしなくて済んだかもしれないのに。 『そうだね、本当にバカだった。こんなことになっちゃって、みんなに迷惑をかけた。それでも、君は僕のことを友達だって言ってくれた。本当に嬉しかったよ』 「今だってそれは変わらない」  唯斗は迷いなく言った。  樫村の細い瞳が見開かれる。 「元の世界に戻っても友達だ。だから、一緒に帰ろう!」  力強くそう言ったのは、なんとなく相手にはその気がないように感じたからだった。  樫村は答えない。ただ少し間を置いて、頭の中で『ありがとう』と小さな声が響いた。  急に地面が傾いたように感じ、唯斗は軽くよろめいた。  地震とも違う、足元の地面がグニャリと飴のように柔らかくなる感覚だった。  だがふらついているのは自分だけで、目の前の相手は微動だにしていない。 『こんなこと言うべきじゃないのはわかってるけど、僕は君達を……君と関本君をここに連れて来たこと後悔してないんだ。好きな人と結ばれて、幸せそうな君が見れたから』  思わず相手を見た。  雨のせいではなく、その輪郭は次第に霞んできているように見える。 『僕はずっと君を見てたから、気付いてたんだ。君は関本君のことが好きなのに、その気持ちを無理矢理ないものにしようとしてただろう? そんな以前の君は、全然幸せそうじゃなかった。それが僕にはつらくて……。でも、もうわかったよね? やっぱり諦めちゃいけないって』 「樫村……っ」  何か言わなければいけないと思いながら、気ばかり焦って言葉が出て来ない。とにかく引き止めたくて前に出ようとする脚は、波打つ地面にすくわれる。 『これからも、諦めちゃダメだよ。2人ならどんなことだって絶対乗り越えられるから。僕は君に、いつも笑顔でいてほしい。幸せで、いてほしいな……』  地面だけでなく、いまや空間それ自体が揺らいできている。周りの景色がマーブル模様を描くように歪み、回り始める。 「待てよ!」  叫んだつもりだったが、実際に声が出ていたのかどうかわからない。  さよなら、という微かな声を最後に樫村の気配が消えていく。  空間ごと体が捻じ曲がる感覚に急速に薄れて行く意識の中、最後に唯斗の脳裏に残った光景は、優しい雨に包まれてゆっくりと目を閉じる巨大生物の静かな姿だった。

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