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第34話

‡‡‡  目を開けた。  視界に入ったのは、古びてところどころ染みのできた壁紙だった。 「っ……!」  唯斗は飛び起きた。  壁にかかった時計を見上げる。7時30分。  東向きの窓がカーテンを通して明るく見えている。朝だ。  落ち着いて周囲を見ると、そこは合宿所の大部屋だった。あたりは散らかり放題で、空き缶やペットボトル、スナック菓子の袋などが散逸している。  この光景は、確かに一度見た記憶がある。  ろくに布団も敷かずてんでに寝転がっている面子を確認する。和彦、勝、哲也。そして、唯斗から一番遠い位置で布団の上に上体を起こした格好で俯いている隆輔は、片手で額を押さえたまま動かない。  うーん、とすぐ隣の哲也が寝返りを打ちパッチリと目を開けた。ぼんやりとした視線が掛時計に向き、上体が跳ね起きる。 「うわっ! 7時半ですよ! 起床起床!」  哲也は元気よく布団を蹴飛ばして飛び起きると、カーテンを開け放つ。  部屋の中に眩いばかりの朝の光が飛び込んできた。寝転がっている2人から不満の声が上がる。 「う~ん、あと5分~」 「もう今日は午前中休みってことでひとつ」 「ダメですよ! 集合時間に自分らだけ遅れたら、ユイさんとリュウさんにどんだけ怒られるか……って、まだいるじゃん、2人とも」  茫然と布団の上に座り込んだままでいる唯斗と隆輔に全員が気付き、一様に眉を寄せる。 「な、何おまえら、そのテンションの低さ。二日酔いか? つーか昨夜は飲んでねーし」  唯斗は気味悪そうに顔を覗き込んでくる和彦を無視して、気だるい体を無理矢理立ち上がらせ窓に歩み寄る。  グラウンドでは朝早い陸上部がもう練習を始めている。微かだが廊下や隣の部屋からも人の声が届いてくる。 「カズ! 今日は何日だ」  すごい勢いでいきなり振り向いた唯斗に、和彦は面食らいポカンと口を開ける。 「は?」 「何月何日だって聞いてるんだよ」 「8月、え~、3日? 何? マジで大丈夫かよ?」  8月3日――合宿2日目だ。  この日から3日間、唯斗達は違う世界に飛ばされていたはずだ。  どういうわけか時間が遡ってしまっている。というより、例の世界にいたはずのその時間が、丸ごとすっかり消えてしまっているらしい。 「二人とも、どっか具合悪いんスか?」  妙なものでも見るような露骨に怯えた視線を向けてくる勝と他の2人に、逆に唯斗が聞き返す。 「おまえ達こそ、大丈夫なのか?」  もちろん全員何の異常もない。  別の世界で巨大生物に飲み込まれた後遺症も、精神的な衝撃も全く残っていない。いつもの気楽な仲間達だ。  むしろ混乱している唯斗の方が心配そうな目を向けられてしまう。 「はぁ? ユイ、もしやなんかあたったのか? 昨夜なんか食った? あたりそうなもん」 「晩飯はカレーだし、夜中はポテチとかスナック系ばっかでしたよ」 「まさか本当に、何も覚えてないのか?」  夕食のメニューから食べた菓子の銘柄まで挙げ始めるのんきな連中に焦れて、唯斗は勢い込んでさらに確認する。3人ともその剣幕にひたすら唖然とするばかりだ。  どうやら彼らは例の世界での記憶を完全に失くしてしまっているらしい。いや、これではまるで、最初から何もなかったかのようだ。  急に不安になった。  まさかこの3日間に体験したことは、全部が夢だったとでもいうのだろうか。何もかもすべて、自分の頭が作り上げた妄想だったのか。その時々の感覚も感情もつぶさに思い出せるほど、リアルに覚えているというのに。  すべてが想像だったのか。  巨大生物に襲われる恐怖も、仲間を失う悲しみも、新しい友人との別れも、そして、想いを通じ合わせたあの夜の幸福感も……。 「覚えてねーって、何を? 昨夜話したことならちゃんと覚えてるぜ。新フォーメーションだろ? マサをトップ下にして……」 「そうじゃなくて……っ」 「ユイ、もうやめろ」  言い募る唯斗を遮ったのは、意外にも隆輔だった。 「きっと何か夢でも見たんだろう。ユイだってたまには寝ぼける。それより時間がないぞ。早く片付けろ」 「リュウ!」  非難の眼差しを向けた先に、相手の目があった。  その目を見た瞬間にわかった。隆輔だけは、覚えているのだと。少なくとも彼もまた、自分と同じ夢を見たのだと。 「あーヤバッ、45分! 俺ら首脳陣全員遅れてったら、昨夜飲んでたと思われちまうわ。しめしつかねーって」  和彦の言葉に下級生達もあわてて動き出す。  隆輔は唯斗の視線に何か言いたげに唇を開きかけたがすぐ閉じ、他の連中の注意が逸らされたのを確認してから、着ているTシャツの袖を少しまくり上げて見せた。 「っ……」  二の腕に包帯が巻かれていた。巨大生物につけられた傷に、唯斗が巻いてやった包帯。合宿初日にはなかったものだ。  やはり、あの3日間は夢ではない。唯斗と隆輔の中では、本当にあったことなのだ。  全身が、言葉では言い尽くせない想いで満たされていくのを感じる。昂ぶってくる感情に涙すら出そうになる。  想像なんかじゃない。  あのときに感じたすべての感情は、リアルにあったことだった。  別世界で過ごした3日間に得たかけがえのないもののすべてを、唯斗は心の中の宝箱にそっとしまいこみ、鍵をかけるように胸を押さえた。  唯斗から目を逸らさずに、隆輔が微かに頷く。俺にはわかっているから、と、その目はそう言っていた。

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